第21話 転移魔法

 翌朝早くルカが目を覚まし、アニーやジャックやマーティンと一緒に張り切って市庁舎前の広場に着いたとき、昨夜の宴会が嘘のように広場は綺麗に掃除されていた。広場の隅でバケツとモップを片付けていたエリカとヘレナに、ルカが明るく挨拶する。


「ごきげんよう、エリカ、ヘレナ」

「ごきげんよう、ルカ! すっかり綺麗にしておいたわよ、これでいい?」

「完璧よ、ありがとう」


 ルカは時計台に登り、展望台から広場を見下ろして、まず魔法陣の中心を決めた。ジャックとマーティンが大きな木の杭を二人して持ち、ルカがそこだという場所に、石畳を外して露出した地面に杭を刺す。次いで杭にロープを結わえ、長いロープの反対側の端にも小さめの杭を取り付ける。


「みんなおはよう」


 そのあたりで、トーマスが慌ててやってきた。すでに汗の浮く額を拭い、ジャックが口を尖らせる。


「トーマス遅い! 寝坊かよ」

「ごめんごめん、打ち合わせしてて」


 トーマスに続いて、今日もばたばたと元気そうなマイクと、それから少年の姿のカルロ、彼に引き立てられたピーターも現れる。時計台から降りてきたルカが、申し訳なさそうな顔をしているピーターに向かってにっこり笑いながら、広場の中心に立った大きな杭をぽんと叩く。


「ごきげんようピーター。早速だけど、あなたには重労働をしてもらうわね。私がこっちの杭を持って周りをぐるぐる回るから、絶対にずれないように、こっちをしっかり支えていてね」


 ピーターは黙ってこくこく頷いた。その額には、昨日トーマスが施した封印魔法が浮かんだままだ。


 ルカは小さい杭を持って大きな杭から離れていき、ロープがぴんと張る距離で、十数メートルの半径の円を描いていった。まずは石畳に跡をつける程度の下書きだ。一つの円を描き終えたら、少しロープを短くし、内側にもう一つの円を描く。

 その間、ピーターはマーティンとジャックと一緒に大きな杭を必死に支えた。ルカの回転に合わせて少しずつ足場をずらしながら、杭の位置はずれないように、ずっと垂直を保つようにするのは、確かになかなかの重労働だ。


「おいお前、もうちょっとそっち! 曲がっちゃうだろ」

「うるさいな、あっささくれが……いてえっ」

「我慢しろっ、こっちだって重いんだよ!」


 ルカが二重に円を描き終え、大きな杭はお役御免となった。引き続きロープを使って直線を作りながら、二重円の内側の六芒星やら残りの図形やらを下書きしているあたりで、トーマスやカルロや街のみんなが、いくつものバケツに入った大量の魔法のインクを運んできた。


「うわあ、すごい量!」


 直線を作るのに飽きたジャックが、頭の後ろで手を組んでひゅうっと口笛を吹いた。


「あの鱗が全部これになったの?」

「そうだよ、大変だったんだよ。さすがの僕もくたくただ」


 本当にくたくたの様子で、バケツを置いたカルロがため息をついた。その上ではオウムのマイクが、ばたばたと円を描いて飛び回っている。


「ルカ! ルカ! 早速インクを使うかい?」

「そうね、そろそろいいかな。あとは直接描いちゃおう」


 細かい文字や装飾は、木の杭ではどうにも描きにくい。ルカは下書きをやめて、グレゴリーおじさんが作ってくれた、地面に少しずつインクを落とせる滑車を持った。

 円周上で滑車にインクを入れ、ころころ転がして魔法のインクを落としていく。滑車の中のインクが切れたらその都度バケツから注ぎ足す。バケツを持ってルカについていく役を、ピーターやジャックやマーティンや、街の人たちが代わる代わる担当する。


 作業が続く外側では、近くのレストランのテラス席で、アンジェラおばさんやアニーが紅茶を淹れていた。手が空いている人は和気あいあいとお茶を楽しむ。もう数時間もしないうちに生死を分ける魔法陣に乗るのに、つくづく気楽な妖精たちだ。


 展望台には今度はトーマスが立って、巨大な魔法陣がだんだん虹色に浮き上がってくるのを見守る。トーマスとルカの間をマイクが行き来して、みんなで微調整しながら、正確に図形を描いていく。


「マイク……こんな大きな魔法陣、見たことある?」


 展望台のテラスで、興奮気味にトーマスが言った。手すりにとまったマイクが羽をばたばたし、


「ないよ、戦争くらいでしかないね! それかあれだよ、でんか、教会だって魔法陣じゃんか」

「ああ、教会は確かにね……でも信じられるかい、たった一人の女の子が仕切って描いてるんだよ、これを」


 二人の眼下で、魔法陣はもうほぼ出来上がっていた。ルカはインクの滑車をもう置いて、筆で細かい部分を描いている。トーマスやマイクが上から微調整はするものの、自分でも鳥の目で同時に見ているのではないかと思うほど、ルカの手つきは正確だ。


 9時半頃には、魔法陣は完成した。少しは時間があるからと、興味津々の妖精たちが時計台に登っては、巨大な魔法陣を上から見下ろして感心する。


「絵師がいたら描かせたい!」

「写真がいいんじゃないの、写真の方が綺麗よ」

「ああ、写真家でも絵師でも、ここにいたらいいのになあ」

「出来上がる前に箱庭が破裂しちゃうわ。さあみんな、気が済んだら降りてきて」


 ルカに下から急かされて、しぶしぶみんな降りてくる。


 二重円の内側に、インクを踏まないように気をつけながら、この箱庭の住人全員が収まった。ルカがぐるりと歩き回り、はみ出している人がいないのを確かめる。

 ルカ自身も魔法陣に入る。魔法陣の中心に立ち、すっかり準備を整えて、時計台の大きな文字盤を見上げ、10時まであと数分なのを確認する。


「10時になったら飛ぶわよ! みんな、私を信じて、お祈りでもしていてね。大丈夫よ、絶対みんなで無事に戻りましょうね!」


 はーい、と元気な返事があちこちから聞こえてくるのに笑い返して、ルカは深呼吸した。


 五月の午前の爽やかな晴天の下で、そわそわとした沈黙に包まれて、妖精も人間も魔物もみんな、その時が訪れるのを待った。


 時計台の大きな針が、がたっと動いて10時を差した。簡素な仕掛け時計が動くより先に、ルカはトーマスの杖を掲げた。何度も練習した転移魔法の呪文を、美しい声で、高らかに、街中に響き渡るように叫んだ。


 巨大な魔法陣全体が、眩く紫の光を放った。


 目を覆いたくなる光の中、ルカはひとつも見逃すまいと目を見開いた。全員を浮遊感が包み、次いで疾走感が包み、光が急に消えて真っ暗になり、



 ──次の瞬間には、もうそこは森の中だった。


 そこはあの巨大な魔法陣がちょうどすっぽり入るような広さの、森の中の空き地だった。生い茂る木々が壁のように空き地の周りを囲み、ルカたちの上には柔らかい陽射しが注いでいた。


 立ったままのルカの周りで、妖精も人間も魔物も皆、踏み固められた地面の上に倒れていた。


 ルカのすぐ横に、金色の髪の凛々しい青年が倒れている。いかにも貴族の普段着を身に着けた、トーマスよりずっと背が高い彼に、


「ねえ、ちょっと」


 ちゃんと息をしているのか不安になり、ルカはかがんで手を添えた。体温があり、背中がちゃんと呼吸で上下しているのを確かめて、ほっと胸をなでおろす。


 そして気づく。自分が着ているのは、あの舞踏会の日のドレスだ。膨らんだ胸も、長い手足も、燃えるような赤いブロンドも──間違いなく自分の体であるそれを自ら抱き締めて、フェリシアは浅く息をついた。


 最初に体を起こしかけたのは、いつの間にか猫の姿に戻っていたカルロだった。同時に、木々の壁の外側から、ざわざわと人が近づいてくる気配がする。ここで捕らえられたらどうなるのだろう、とフェリシアが思い当たるより前に、誰かにぐいっと肩を引かれて驚いて振り向く。


「こっち、ほら早く」


 不思議な色のローブを頭から被ってフェリシアをぎょろ目で見ていたのは、ウォルターだ。フェリシアは引かれるまま、まだ起きない金髪の青年をちらちらと振り返りながら、とても狭い獣道をウォルターに続いて抜けていった。


 藪の中でしゃがんで少し待つと、軍靴を履いた人々がどんどん空き地に入っていくのが見えた。ウォルターに促され、人々と入れ違いに、フェリシアは空き地を離れた。藪を抜け、どこか見覚えのある森の小道をずんずん進み、ドレスの裾を踏んで転びそうになりながら、突如として姿を現した小さな小屋に押し込まれるように飛び込んだ。


 そこでフェリシアは目を見開いた。腰の曲がった、皴だらけの顔の、この世で一番優しい微笑みを浮かべた老人が、両手を広げて待っていた。


「──先生、シモンズ先生!」


 青い目に涙をいっぱいに浮かべながら、フェリシアはシモンズ先生に抱き着いた。その背を優しく撫でながら、シモンズ先生は何度も頷いた。


「フェリシア、おかえり。よく頑張ったね。もう大丈夫、もう大丈夫だよ」


 そばで見ていたウォルターが、堪えかねたようにずず、と鼻をすすった。

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