第16話 トライアル

「ねえ、ホフマンって誰なの?」


 アンジェラおばさんの下宿の前の広場に虹色のインクで魔法陣を描きながら、ルカがふと顔を上げて尋ねた。噴水の縁に立って魔法陣を見下ろしていたカルロが、猫らしく小首を傾げて聞き返した。


「今聞く?」

「……ごめんなさい、気になって」

「いいよ、気が散る要素は少しでも減らそう。クリス・ホフマンは王宮に出入りしてる魔法使いだ。アランみたいにちゃんとした立場があるわけじゃなくて、何ていうか、王妃殿下のお気に入りで……この箱庭を作った張本人だよ。緑のオウムを見たかもしれないけど、あれはホフマンの使い魔だ」


 カルロは腕を組み、呆れ声を出した。カルロの隣に座ったトーマスは、何も言わずに落ち込んだ顔をしている。


「僕は元々良く思ってなかったんだ、こんな大きな空間魔法は危なくてしょうがないからね。ああ、それにしても……使い魔を解雇されてもいいから、こいつをそんな長期滞在させるべきじゃなかったな」


 カルロの金色の目が哀れそうにトーマスを見下ろした。トーマスは顔を合わせることができない。ルカはため息をつき、魔法陣の続きを描きながら言う。


「王妃殿下って、トーマスのお母様でしょう。今頃、大慌てなんじゃないかしら」

「それなんだけどさ、ルカ、トーマスが誰なのかなんていつ分かったの?」


 カルロに尋ねられ、ルカはぎくりと動きを止めた。心を読む魔法のことを、カルロやトーマスには言っていない。今更隠すこともないかもしれないが、勝手に心を読まれたと知ると不快であるに違いない。


「ええと……話の流れで、なんとなく」

「アランが何か言っていた?」

「いいえ、そのことについては、アランは何も」


 ちょうど魔法陣を描き終える。何回か練習していたので、人が一人入るくらいの大きさのものはすぐできる。ばたばたとした羽音に目を向けると、空の高いところからくるくる降りてきながら、


「カルロ! カルロ! ご主人様が、いいよって!」


 テンション高く、オウムのマイクが報告した。そのままカルロの肩にとまったマイクを、カルロが目を細めて睨んだ。


「正確に報告しろ」

「準備ができたって! 魔法の! 行き先の!」

「転移魔法の転送先の魔法陣を設定し終わったということだな?」

「そうそう! だからもう大丈夫!」


 ルカは頷き、アンジェラおばさんの下宿に顔を出した。食堂ではウォルターが、最後の晩餐かのような顔をして紅茶をすすっていた。ルカの顔を見て紅茶のカップを置き、うう、と呻いてうつむいた。


「もうできちまったのかい? 怖いよ……怖いな……」

「大丈夫だってウォルターおじさん、案外楽しいぜ!」

「おじさんじゃない、まだ25歳だ……ああ、短い人生だったなあ……」


 ぶつぶつ言うウォルターの背中を妙に楽しそうなジャックが押し、広場の魔法陣のところに連れていく。


 ルカはまず、ついさっきグレゴリーおじさんが釣ってきた生きた魚が入った籠を、魔法陣の真ん中に置いた。目を閉じて集中する。目を開けて、トーマスに借りた杖をかざして、転移魔法の呪文を唱える。魔法陣が光を放って、籠ごと魚が消えてなくなる。


「ルカ、魚の行く先を追いかけて。頭の中で」


 ルカのすぐそばでカルロが囁いた。ルカは目を閉じ、言われるままにイメージした。頭に浮かんだのは、森の中の、やけに開けた空き地だった。


「どこに行った?」

「……森の中の……広い場所よ」

「ルカ! ルカ! ご主人様が、きたよって!」


 マイクの元気な言葉に、ルカは目を開けた。興奮してばたばた飛び回るマイクを見返し、


「森の中で合っているの?」

「そうだよ、森だよ! 魚も生きてる、ご主人様、魚は嫌いなんだよな」


 どうでもいい情報に気が抜けて、ルカはくすっと笑った。笑う余裕があるのかとウォルターがぎょっとした目を向けたが、彼としてもちょっとは気が楽になったようだった。


「ウォルターも同じ場所に行ってもらえばいいのね」

「そうだよ、それで大丈夫!」

「だそうよ。ウォルター、準備はいいかしら」

「……俺は何をすればいいんだよ」


 眉尻を下げて、ウォルターは弱々しい声を出した。噴水の縁から飛び降りたカルロが、ウォルターの肩をぽんと叩いた。


「信じて飛んでいけ。信じることが一番大事だ」

「そんなこと言われても……」

「最後に救われるのは信心深い奴なんだぞ、教会で教わっただろそれくらい」

「……適当なこと言いやがって……ちくしょう」


 がっくり肩を落としながらも、ウォルターは魔法陣の上に自ら乗った。しっかり両手を組んで祈る彼に、ルカも深呼吸して、杖を構える。


「いくわよ」


 目を閉じて、目を開けて、しっかりした声で呪文を唱える。魔法陣が眩く光って、ウォルターの姿が消えてなくなる。祈るような沈黙を経て、あ、とマイクが羽をばたつかせる。


「いけたって!」


 誰からともなく歓声が上がった。マイクは飛び上がり、噴水の上を大きな円を描いて飛び回った。トーマスの目にも明るい希望が見えたその時、


 ぴしっ


 聞き覚えのある嫌な音がした。全員が慌てて目を向けると、最初にひびが入ったのとは別方向の空に、また小さなひびが入っている。


「……やっぱり、無理に行き来するのは、箱庭に負担があるんだな……」


 苦々しい顔でカルロが呟く。ひびはすぐにそれ以上広がる様子はないが、二か所にひびが入った空はとても気味の悪い眺めだ。


「ルカ、トーマス。……あまり、転移魔法の回数に余裕がない。次で確実にトーマスを」

「待ってくれ」


 制止したのはトーマスだった。立ち上がり、みんなを見回してから、紫の目でまっすぐカルロを見た。


「俺だけ飛んだら、カルロはどうなる? ルカは?」

「……トーマス」

「次の魔法で箱庭が壊れたら、たぶん、破裂する前に消すんだろう。アランなりクリスなり、王宮側で誰かが。そうなったら、みんなは一緒に死んでしまう。俺は、自分だけ助かるのは嫌だ」


 きっぱりした口調でトーマスが言った。カルロはしばし言葉を失ってから、主人の両肩に、なだめるように手を置いた。


「……トーマス、それは諦めろ。そういうものだ。お前だけは、死ぬわけにはいかない」

「嫌だ、カルロを残して行くなんてできない」

「お前が中にいたら、破裂しそうになったって誰も箱庭を消すことはできない。破裂なんかさせてみろ、王宮ごと消し飛ぶぞ。冷静になれ、トーマス。お前がとにかく脱出するのが、一番正しい方法だ」


 頑として首を縦に振らないトーマスに、カルロの方が泣きそうな顔になった。ジャックやマーティンやアニーらは、そわそわしながら見守っている。


「ねえ、カルロ。一回で終わるなら、規模はどうでもいいのかしら」


 声を上げたのはルカだった。カルロとトーマスが振り返る。


「私は元々、ここの全員を外に出したかったのよ。水を差すようで悪いけど、妖精のみんなにとったって、王子様のために犠牲になれなんていい迷惑だわ。全員が入るくらい大きな魔法陣を作って、一度で全員無事に飛べたら、それで何の問題もないでしょう。違う?」


 大胆不敵な提案に、カルロは頬をひくつかせた。広場に集まる妖精たちもみな、息を飲んでそのやり取りを見守っている。


「それがいいよ、そうしよう。俺だってできることは何でもする」


 トーマスが頷きながら言った。カルロは二人を見比べて、大きくため息をついた。やれやれと肩をすくめ、にゃあ、と小さく呟いてから、


「分かったよ。それで? ここにいる全員が入れるくらい大きな魔法陣を作るのに、材料は揃っているのかい?」

「……いいえ、まだもうちょっと」

「あとどのくらい必要? 主にフォシュトケリの鱗だよね」


 ルカはここでちょっと目を逸らし、昨日やりかけていた計算の続きを思い出した。それからとても言いにくそうに、


「……たぶん、もう300匹くらい……?」


 誠実な数字を述べた。カルロもトーマスも目を見開いて、それから、カルロが糸が切れたみたいに大笑いした。涙が出るほど笑いながら、


「それじゃあこれから、みんなで魚釣り大会だ! ほら、助かりたい奴は大急ぎで釣りに行け!」


 大きな声で宣言した。妖精たちもおかしそうにしながら、なんだかわくわくと、各々の釣り道具を探しに行った。


 *


 ウォルター・マクマスは不器用な男だった。

 田舎を出て都会に出たのは、体の弱い母への仕送りのためだった。工場が次々に立つ王都に夢と希望を持って出たものの、待ち受けていたのは過酷な労働環境だった。酒と賭け事だけが慰めになったが、どうも悪い詐欺師にはめられ、気がつけば、何十年働けば返せるのかも分からない借金を抱える羽目になっていた。

 田舎の家族に仕送りをすれば、日々の労働をこなす体力をつけるだけの食糧を買う金も残らない。何もかもに絶望し、川に身を投げようとしたところで、あの箱庭に飛ばされた。


 箱庭の隅でひっそりと暮らすのは楽だった。しかし、夢も希望もないのは、あの薄暗い工場での生活と同じだった。


 そこへきて、何がなんだか分からないうち、やばい魔法の実験台にされるとは。


 湿った感触に目を覚ますと、そこは見慣れない森の中、いやに開けた空き地だった。慌てて体を起こし、辺りを見回して、危険な動物などがいないことを確認する。それからぺたぺたと自分の体を触って、異常がないことを確かめる。──生きている!


 着ているのはどういうわけか、箱庭に飛ばされる前に着ていたそのままの服だった。くたびれたシャツにベストにスラックス。


 恐る恐る立ち上がり、空き地を見回す。そこはあの箱庭の市庁舎前の広場くらいはありそうな空間だった。空き地の端を壁のように鬱蒼と茂る木々が覆い、そこに貼りつくように何階建てかの小さな家が建っていて、まるで小鳥の巣の群れのようだった。


 地面には区画を区切って人工的な小川が流れ、どうも畑や遊び場になっているようだった。しかし畑も家も、どれも古びて荒れていた。まるで小人の廃墟だ。


「ごきげんよう、ウォルター・マクマス」


 あまりに幻想的な光景に見とれていたウォルターは、背後からかけられた声に心臓が飛び出そうなほど驚いた。振り返ると、くすんだ金髪に青い目の魔法使いが、友好的な微笑みを浮かべて立っていた。


「ひ、ひえ、魔法使い様……」

「そんなに怖がらないで。俺はアラン、君を待っていたよ」


 アラン、それはカルロが言っていた魔法使いの名だ。つまり、自分は無事に転送されたのだ。本当に! 涙目になるウォルターの手を取り、アランはさっさと引っ張っていった。妙に高鳴る胸を押さえてウォルターは大人しくついていったが、壁の一部の隙間を通り、獣道のような道をずんずん進むアランに、だんだん冷静になっていった。


「あの、どちらへ……」


 もしかすると、このまま工場へ突き戻されるのではないか。そうでなくても牢屋とか……恐ろしい妄想が止まらなくなるウォルターの怯えた顔を振り返り、アランはにっこりと微笑んだ。


「君にはまだ働いてもらわないといけない。話を通してあるから、一旦そこで休ませてもらって。落ち着いたら、色々とお願いごとをするからね」


 一見友好的な裏に有無を言わさぬ圧力のある口調で言われ、ウォルターはこくこくと頷いた。


 アランが示す先にあったのは、古びた小さな小屋だった。森の中に急に現れたようなそこは、周りを生垣が囲い、野菜や薬草なんかの小さな畑もあるようだった。どこからか鶏の鳴き声も聞こえている。


 背中を押され、小屋へと歩み寄る。恐る恐るドアをノックすると、出てきたのは腰の曲がった老人だった。見たこともないような優しい顔をした彼は、ウォルターを見て、神様のように微笑んだ。


「ごきげんよう。話は聞いたよ。しばらく休みなさい、大変だっただろう」


 ウォルターは呆気に取られた。老人の手を両手でしっかり握り、震える声で尋ねた。


「あなたは……」

「私はシモンズ。しがない魔法使いだよ」


 老人は──シモンズ先生はそう答え、細い目をさらに細くして、ウォルターの手を優しく握り返した。

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