第14話 王子様とのデート
小舟を降りて下宿に戻りながら、ルカは先程、魔法使いの目の中に見えた光景を思い出していた。
遺体のない棺の前で嗚咽していたのは、あれは実父だ。可哀そうに、あんなに嘆いて。
おおかた、王宮で攻撃魔法を放った娘の責任が降りかかるのを恐れて、ラザフォードの両親がさっさと葬式でもしたのだろう。げんなりするが、想像には難くない。自分のことを都合よく舞い込んできた駒、その割には頑固な娘くらいにしか思っていなかっただろう、あの両親のことだ。
王都で、この箱庭の外で、フェリシア・ラザフォードは死んだのだ。そう思うとそら恐ろしいし、悲しくないと言えば嘘になる。
けれど、これはチャンスでもある。
ここを脱出して、全く別の人生を歩むことができるかもしれない。男にさえ生んであげられれば、と実父は言っていたが、これからは男として生きたっていい。
下宿の前まで戻ってきて、ルカは決然と顔を上げた。なんとなくトーマスのお屋敷を睨むように見上げてから、自室に戻って、ここ数日でびっしり書き込んだノートを開いた。
うまくやる、うまくやるぞ。
アニーが押し付けるように置いていった服のうち、一番地味なものを選ぶ。白いブラウスに茶色の釣りスカートで、鏡の前に立てば、あどけないルカの容姿によく似合っていた。鏡にじっと顔を寄せ、自分の深い青色の目を見る。魔法使いの目の中に見えた光景で、涙に覆われてかすんでいた実父の目と同じ色の目を。
自室を出て食堂を見下ろせば、ちょうどトーマスが訪れたところだった。深呼吸して、ルカはもう一度胸の中で唱えた。
うまくやるぞ。
顎を引いて、ゆっくり階段を降りる。一番重要なのは、怪しまれないことだ。哀れでちょろい女を演じること、それでいて、必要以上に踏み込ませないことだ。
トーマスが、階段を降りてくるルカに気づいた。彼はルカを見上げ、その美しい紫の目を少し大きくし、それから、なんだか不器用に微笑んだ。
「ルカ、おはよう。……昨日直接言えなかったけど、僕とデートしてくれるかな」
差し出される手に、ルカは表面上はにこにこと、内心ひどく緊張しながら手を重ねた。
「ええ、喜んで」
*
アンジェラおばさんに見送られ、二人は手を繋いで下宿を出た。今日の行く先も、流れるような美辞麗句すら何も言わず、トーマスはルカの手を引いてどんどん歩いていった。
心を読むには、目をじっと見つめなければならない。トーマスがずんずん前を歩いていると、なかなかそのタイミングがない。
細い路地をいくつか進み、ふと、今までルカが曲がったことのない角にトーマスは入っていった。ルカは若干不安になる。このまま、抵抗する間もなく粛正されたらどうしよう。ルカの心配をよそに、裏路地の小さな水路にかかる小さな橋の真ん中で、トーマスはおもむろに立ち止まってルカを振り返った。
「ね、見て」
促されるまま見て、あっと声を上げる。小さな水路の上に、この建物が密集した街では珍しく、向こうまで景色が抜けて見える空間があった。そのずっと向こうに遠く時計台が見え、可愛らしい建物と相まって、魅力的な眺めになっている。
「穴場なんだ、ここ」
トーマスはそう言って、いたずらっぽくウインクをした。ルカはきょとんと瞬きし、それからくすっと笑った。笑いながら、ほっとしたようなトーマスの目を、一瞬だけじっと観察した。
良かった、笑ってくれた。
頭の中に流れ込んできたトーマスの声に、ルカは面食らった。ふいと前を向いたトーマスに続き、気を取り直してまた路地を進む。
規模こそ西都のウンダータと同等であるこの水の都だが、せいぜい妖精の村一つ分くらいの住人しかいないので、実際にはいくつかの賑やかなエリアの外は閑散としている。人気のない裏路地を進むことはこの世界の種明かしをするようなものに思えるが、トーマスは構わずずんずん歩く。
そのうちに人の声がして、賑やかな市場に出た。魚屋の店番をしていたウォルターが、手を繋ぐルカとトーマスに気づいて、ぎょろ目を大きくして慌てている。トーマスは気づかずに通り過ぎる──たぶん、トーマスとウォルターは面識がない。
鍛冶屋の出店にはマーティンとグレゴリーおじさんがいて、ひらひらと手を振るトーマスの後ろで、ルカはこっそり肩をすくめた。マーティンが心配そうに手を振り返す一方、グレゴリーおじさんは目を細めている。ルカが着ている奥様のスカートを、懐かしく見ているのかもしれない。
市場の端の方の花屋で、トーマスは足を止めた。店番をしていたのはアニーで、
「アニー、あれを……」
トーマスがごにょごにょと何か言い終わるより前に、出店の奥からさっと花飾りを取り出した。ルカの耳元にうまくさしてやりながら、
「はい、ルカ! トーマスからのプレゼントだって」
呆気に取られるルカの両肩に手を置いて、アニーは嬉しそうに笑った。ルカはありがとうと微笑んでから、アニーの目をじっと見返した。アニーは心得た様子で、ぱちぱちと何度か瞬きした。
本当にプレゼントだよ。トーマスの奴、朝に慌てて注文しに来たんだから。まあ楽しんで!
アニーがウインクして店番に戻るので、ルカは再びトーマスの顔を見た。どこか照れくさそうにしながら、トーマスはまた、ルカに手を差し出した。
手を繋いで歩きながら、ルカはなんとなく目線を落とした。遊びにしては手が込んでいる。悔しいことに、少し嬉しい。
次にトーマスが足を止めたのは、目抜き通りの入口にある小さな劇場の前だった。伺うようにルカを振り返り、
「音楽は好き?」
「……ええ、好きよ」
「じゃあ行こう」
ルカの手を引いたまま、颯爽と中に入っていった。小さなホールには意外にもそれなりの客がいて、ちょうど声楽の歌手がチェンバロの伴奏に合わせて歌っているところだった。
歌手もチェンバロ奏者も、どちらも素人の妖精のようだ。音楽としての完成度は随分低く、しかし、お遊戯会のようでみな楽しそうだった。客席で隣に腰かけたトーマスを、ルカはちらりと伺った。この紫の目のお坊ちゃまには、たいそう耐え難い音だろう──しかし予想に反し、トーマスの紫の目は、穏やかに微笑んでルカを見ていた。
「ルカは歌ったりするの」
「まあ、少しは……」
なんとなく視線を逸らしながら、ルカは口ごもった。もちろん、貴族女性に嗜みとして求められる程度の音楽はできる。楽しかったかと言えば、全く別の話だが。
「聞いてみたいなあ、ルカが歌うのも」
「きっと耳を塞ぎたくなるわよ」
「そんなことないよ、きっととても素敵だよ」
ちょうど曲が終わって、拍手に紛れてトーマスは立ち上がった。ルカも続いて劇場を出る。目抜き通りを反対の端まで進んで、市庁舎前の広場を臨む水路の脇のレストランに、慣れた様子でトーマスが入っていく。
二人してテラス席に座る。心地良い日差しと風で、テラス席はとても気持ちが良かった。注文もしないのに運ばれてくる水を、ルカは大人しく飲む。緊張して喉が渇く。一方トーマスは澄ました顔をしていて、水路を眺めるその横顔の、紫の目の虹彩をルカはこっそりじっと見つめる。
楽しんでくれているかな。少しでも、明るい気持ちになってくれていたらいいな。
ふとトーマスが眉根を寄せて、何かを探すように振り返る。ルカは観察をやめて、にっこり微笑んだ。
「トーマス、今日は誘ってくれてありがとう。あちこち歩いて楽しいわ」
魔法使いだといっても、トーマスはアランよりは実力がないようだ。心を読む魔法はアランには一瞬でばれたが、このお坊ちゃんは違和感を覚える程度で、まだ気づいていないようだ。
トーマスは微笑み返し、良かった、と穏やかに言った。試しにもう一度心を読んでも、聞こえてきたのは同じ言葉だった。良かった。
ほどなく運ばれてきたのはトマトのパスタで、慣れた様子で美しく食べるトーマスの前で、ブラウスに飛ばないように気をつけながらルカも食べ始めた。
「トーマスって、本当に綺麗に食べるのね」
心底感心したので、思わずルカは本音を言った。トーマスは紫の目でルカを見返して、謙遜するように微笑んだ。
「そうでもないよ。ルカだって綺麗だと思うけど」
そうでもないよ。いつだって、兄様たちと比べられてばかりだ。
ルカは瞬いて、小首を傾げた。
「私は庶民だもの、綺麗だなんてことはないわ。トーマスは本当に綺麗。ねえ、こんな街にいるけれど、本当は都の貴族なんじゃないかってみんなが噂してるのよ」
好奇心に勝てず、ルカは尋ねた。トーマスは困ったように微笑んで、首を振った。
「貴族なんかじゃないさ」
ただの貴族だったら、もっとずっと気楽だったのかな。
魔法の勉強も政治のことも、何をしたって、兄様たちには敵わない。優秀な兄が二人もいたら、王位を継ぐなんて望みもない。決められたことを正しくこなして、そのうちどこかの姫でも娶って、子をなして育てて、それで、俺の人生はおしまいだ。
内心の動揺を抑えるように、ルカはそっとフォークを置いた。王位? 二人の兄? 彼の妄想でないならば──そしてルカの魔法がうまくいっているならば、トーマスの正体は王都の第三王子、サミュエル王子殿下だ。そんな人物がどうしてここに?
「……トーマスは、魔法を勉強しているのよね」
当たり障りのないことを尋ねながら、ルカは慎重にトーマスの目を見た。本物の王子殿下なら、ますます、ルカをデートに誘う動機が分からない。──いや、想像はできる。立場上、こんなところでもなければ、責任のない恋愛ごっこはできないのだろう。
トーマスは頷きかけ、ええと、と瞬きした。
「少しはね。魔法学校にも行ってるけど、まだ慣れなくて」
危なかった、トーマスの年齢ならまだ入学してすぐだ。本当はもうすぐ卒業だ……ああ、嫌だな。卒業したら、いよいよただの、冴えない第三王子だ──
頭痛を堪えるようにトーマスが顔をしかめるので、ルカは観察を一旦やめる。深呼吸するが、心に浮かんでしまったもやもやを、我慢しておくことができない。
「魔法を勉強して、何をするの?」
少し強いルカの口調にトーマスは不思議そうにするが、
「何を……特に、これといって考えてはなかったな。使えないよりは、使えた方がいいよ」
「使い魔を可愛がる? 空間魔法で遊ぶ?」
思わずそう口に出すルカの、椅子の足元にぴしぴしと静かに氷が拡がっていくのに気づくと、
「ルカ」
身を乗り出して、フォークを置いたままのルカの手をぎゅっと握った。
ルカははっと目を見開いた。自分の足元を見下ろし、嫌な動悸がする胸を空いている手で押さえ、ゆっくり深呼吸した。落ち着いて念じれば、足元の氷はすぐに解けてなくなった。
どうしても、あの舞踏会の夜の記憶がよみがえる。自分に制御できなものが自分の中から出てくることが、恐ろしい。
「……あのね、変なことを言うけれど。もしも、ルカが良かったら」
ルカの手を握ったまま、その深い青の目をじっと見つめたまま、トーマスは真剣な声で言った。
「僕と一緒に、この街を出よう。この街を出て……明かりをつける仕事なら、僕のお屋敷ででもできるよ。それ以外だって、一緒に勉強すれば、何だって」
ルカは黙った。
黙ってトーマスの目を観察するが、聞こえてくるのは、彼がたった今言った言葉そのものだけだった。
咄嗟に言葉が出ないところ、ふと、ばたばたと羽の音がする。二人が同時に顔を向けると、
「でんか! でんか! 早く戻れとご主人様が!」
慌てふためいた様子で飛んできたのは、黄色い体に水色の尾と飾り羽根の、見覚えのあるオウムだった。
「あら、マイクじゃない」
思わず口に出してから、ルカははっとして口を押さえた。トーマスが怪訝な顔をするが、どんどん近づいてくるオウムの羽音の方がうるさかったらしい。
「でんか! でんか! ランチはおしまい! 早くお屋敷に戻って、今ならまだなんとかと、ご主人様がそんなことを」
「賑やかなオウムだね。ルカ、知り合い?」
「別に知り合いってほどじゃないわ、海の端が滝になってるなんて講釈垂れられただけ」
「ああもう、早くしてください!」
マイクはルカとトーマスの頭上をぐるぐる三周ほど飛んだあと、ぴい、と一声高く鳴いた。アンジェラおばさんの下宿の方角、つまりトーマスのお屋敷の方角に引き返しながら、
「どうしよう! どうしよう! カルロ、早くご主人を連れ戻して!」
他力本願に叫び散らした。トーマスとルカが思わず顔を見合わせたとき、
ぴしっ
と大きな音が、空の彼方から聞こえてきた。
二人は勢いよく空を見上げた。抜けるような五月の青空に、その端の方に、まるでガラスの表面にあるような小さなひびが入っていた。
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