第13話 魔法使いのアラン
「絶対に裏がある」
思いっきり顔をしかめながら、自分のベッドに腰かけてルカが言った。隣に座ったアニーが頷き、腕を組んで壁にもたれるマーティンも同意した。ルカの自室で、カーテンを閉めての作戦会議である。
「やっぱりカルロの仕業かな? ほいほいデートに出かけたら、邪魔者めって消されちゃいそう」
「でも私にはカルロが悪い奴には思えないのよね。告げ口したのはオウムよ、きっと」
「何にしたって、一人で行くのは危険じゃない? 誰か一緒に連れて行きなよ、ほら、あのぎょろ目のウォルターとか」
心配そうなマーティンの横で、しゃがんでいるジャックが、でもさあ、と気楽そうな声を出した。
「案外、本当にただのデートのお誘いかもしれないよ」
「それはない! だって彼、たぶん私の素性は全部知っているわ」
ルカの予想では、彼は王族の遠い親戚の貴族だ。あの舞踏会の夜に居合わせて、哀れな女を嘲笑うため、わざわざ追いかけて箱庭に来たのだ。予想と違う動きをしている自分を粛正するつもりなのでなければ、
「まあ……ただ単に、素敵な男の子とのデートに浮かれる滑稽な女を馬鹿にしようって魂胆かもしれないけど」
「俺の予想ではその線だね! だってあいつ、たいそうな策略を練りそうな風には見えないぜ。いつも澄ました顔してるけどさ、たぶん本当はけっこうバカ!」
ジャックがふざけて舌を出すので、アニーもつられてぷっと吹き出す。マーティンだけが、カーテンの外にオウムがいないかを慌てて確かめる。
「それなら実害はないけど……ああ、考えただけで億劫だわ」
ルカはげんなりと肩を落とした。大規模な転移魔法のための材料が集まるまでには、恐らくまだひと月ほどはかかる。その間できるだけ怪しまれないようにするためには、できるだけトーマスの思い通りに動かなければならないのだろうが。
「ときめいている振りをして、わざわざ馬鹿にされるのなんて……」
「ねえルカ、逆にときめかせちゃうのはどう? うんと素敵に振舞ってさ!」
うずうずと言い出したのはアニーで、ルカはますます顔をしかめた。女心と秋の空とは言うが、妖精の気まぐれさもなかなかのものである。
「私がトーマスをときめかせるって言ってる?」
「そうよ、ルカならできる気がする! だってあなた、大きなお屋敷のお嬢様だったんでしょ」
アニーは楽しそうに言って、おもむろにルカの部屋を飛び出した。しばらくばたばたと下宿の中を走り回る音がして、戻ってきたアニーの手には数着の可愛らしいワンピースがあった。
「こういうのとか着てさ!」
「……どこから出してきたの? 言っておくけど、嫌よ」
ピンクや淡い水色のふりふりのワンピースばかりなのを見て、ルカは苦笑した。嫌だが、アニーが楽しそうなのは微笑ましい。
「グレゴリーおじさんの奥さんが得意でよく作ってくれるんだよ! ルカは何色が好き? ねえほら、これとか似合いそう」
アニーはルカに次々とワンピースを当てる。ルカとしては、着飾るのも、可愛らしく振舞うのも得意ではないが、こう色々と盛り上がってくれる友人がいるのは嬉しくってこそばゆい。
「まあ、ともかく……ちょっと考えるわ。みんなありがとう」
「簡単に断れないだろうけど、本当、気をつけてね。俺たちにとっちゃ、ルカが無事でいてくれないと困るんだからさ」
マーティンが真剣な顔で言って、ジャックも頷いた。ルカも頷き返し、作戦会議をお開きにする。
一人になった自室で、ルカはぼんやり考える。なんとなく、ノエルの顔が思い出される。
ノエルとデートに出かけたことなんてあっただろうか。いや、なかったわけではないのだ。確か17歳の誕生日、ドレスの仕立てなんてお抱えの仕立て屋にさせればいいものを、一度だけ、目抜き通りの仕立て屋に出向いて一緒に選んでくれたこともあった。
ノエルは確かに素敵な男性だったし、自分にも優しかったのだと思う。でも政略結婚への義務感はいつも見えたし、自分の方も、夢を叶えるための道具のように振舞ってしまっていたかもしれない。
男性とデートしてときめかせるなんて、自分にはとてもできそうに思えない。向き不向きで言えば確実に不向きだし、何より、それは自分がしたいことではない。
考え事をしていたらいつの間にか夕方だ。沈んだ気持ちで出かけ、持ち場の水路を明かりを灯して回る。明かりを灯すこの作業だって、時計台の上あたりから一遍にやってしまえるかもしれない、そういう魔法を試してもいいかもしれない。しかし一つひとつ地道に灯していく時間も、自分の中で何かが慰められていくような気がして、嫌いではない。
仕事を終えて下宿に戻ると、自室の前で、灰色猫のカルロがちょんと座っていた。ルカは一瞬彼を睨んだが、見上げる金色の目がどこか気遣わしげに思えて、しゃがんでカルロの頭を撫でた。
ルカが自室に入るとカルロも黙ってついてきた。いつものように勉強しようと開きかけた教科書を閉じ、ルカは早々にベッドに横になった。カルロがベッドに飛び乗って、ルカに寄り添うようにして丸まった。
「カルロ……私にはやっぱり、あなたが悪い猫には思えないわ。でもそうね、良い悪いなんて、誰にとっても同じじゃないものね」
カルロを撫でていると何だか気持ちが落ち着いて、ルカはうとうとと目を閉じた。穏やかな寝息を立て始めたルカを見つめてから、カルロもまた、静かに眠りについた。
*
時は少し戻る。
ルカにデートを申し込んだトーマスが自分のお屋敷に帰ったところで、ちょうどカルロも戻ってきた。意気揚々とした主人の様子に金色の目をしかめる。トーマスはサロンのソファにどすんと座り、使用人にしている妖精を呼んで紅茶を所望した。
「いやにご機嫌だな。わざわざ一日早く戻ってきたりして、どうしたんだ」
猫の小さな口元を動かして、カルロはトーマスに尋ねた。優雅に紅茶を飲みながら、トーマスはしたり顔で微笑んだ。
「デートは日曜にするものだろ? 用事がさっさと済んだから、ちゃんと前日に誘おうと思って戻ってきただけだ」
「あの子をデートに誘ったのか? なんで?」
「なんでって、ルカはトーマスに恋をする運命なんだ。その通りに動いてあげてるんだよ、僕は! ああ楽しみだなあ、何せ、振られたばかりの女ほど簡単に落ちるものはない」
トーマスはうっとりと言って足を組んだ。カルロは足先を揃えて姿勢よく座り、しばらく黙ってトーマスを見上げた。
「殿下」
カルロが珍しく真剣な声を出すので、トーマスはむっとして顔を向ける。
「……あの子に変にちょっかいを出すのは、できればやめてほしいんだが」
カルロはストレートに言った。トーマスは紅茶のカップを置いて、灰色猫の金色の目を、紫の瞳で睨み返した。
「お前が惚れてるとでも言うのか」
「違う。……殿下、アランが今朝どこに出かけていたか知っているか? フェリシア・ラザフォードの葬式だ」
「葬式?」
トーマスはさすがに眉を跳ねた。つい先ほどのルカの姿を思い出し──いや、そういえば自分は直接会ってはいないが。
「彼女は生きてここにいる、そうだろう?」
「彼女の両親が大慌てで葬式をしたそうだ。王宮で暴れた以上、罪をかぶって死んでもらわないと困る、ということらしい。婚約者にはあんなにひどく振られ、両親からは急いで葬式をされる娘を、お前はこれ以上傷つけるのか?」
トーマスは何も答えなかった。その顔からは困惑が見て取れたが、自分の行いを改めようという甲斐性まではないらしい。カルロはしばらくトーマスを見返していたが、ついに何も言わないのを見て、身を翻してサロンを出た。
お屋敷の二階の窓辺に丸まり、カルロはアンジェラおばさんの下宿を見下ろした。ルカの部屋のカーテンは閉ざされている。しばらくするとルカが夕方の仕事に出かけたので、お屋敷を出て下宿に入り、食堂で夕食の支度をするアンジェラおばさんを見上げる。
「おや、カルロ。トーマスのところにいなくていいのかい」
アンジェラおばさんはカルロに優しく話しかけ、しゃがんでその美しい毛並みを撫でた。黙って撫でられてから、カルロはルカの自室の前に陣取った。やがて帰ってきたルカとともに部屋に入り、沈んだ顔をするルカに寄り添い、彼女が疲れたように眠るのを見守った。
*
翌朝ルカが目を覚ましたとき、傍らにはまだカルロがくっついて寝ていた。洗いたてのシーツのような香りのそのふさふさの毛にしばし顔をうずめてまどろみ、それから、いつものように起き出して出かけた。
小舟に乗って水路を回り、明かりをひとつひとつ消しながら、トーマスからの誘いについて考える。
そうだ、こちらにも武器がないわけではない。シモンズ先生の手紙にあった、あの、人の心を読む魔法があるではないか。誰彼構わず使うのには気が引ける魔法だが、たぶん悪意があるだろう相手なら、むしろ、いい練習台だ。
だんだん頭が冴えてきた。段取りを思い描きながら、市庁舎前の広場が見える、一際賑やかなあたりの水路を通る。いつもならほとんど人通りのない時間帯なので、橋の上に佇む人影に何となく目を向け──ルカは悲鳴を上げそうになるのをかろうじてこらえた。
そこにいたのは、軍服の上にローブを纏った、くすんだ金色の髪の男だった。ご立派な杖を右手に持った彼は、どう見ても王都の魔法使いだった。
「朝の仕事中にすまない」
身構えるルカに、彼は落ち着いた声で話しかけた。どこかで見覚えがあるような気がして、必死に記憶をたどる。
「俺はアラン、見ての通り魔法使いだ。……ルカ、君に聞きたいことがあって来たんだ」
そう名乗る声に、記憶が焦点を結ぶ。──ああ、こいつはあの夜の、あれだ。
「それはどうも。でも私はルカじゃないわ。あなたが一番よく知っているんでしょう?」
「……そうだけど、君はルカだ。いや……」
フェリシア・ラザフォードをこの箱庭に飛ばした当の魔法使いがわざわざ会いにやってくるのは、それはもう、いよいよ自分を粛正するつもりに違いない。しかしこうも歯切れが悪いのは、一体どういうことなのだろう。
「君は、もし……もしも、全然別の人生を歩むことにして。大事な人との関係を全てなくしても、それで夢が叶えられるなら、挑戦したいと思うかい」
ルカは思いっきり眉をひそめた。敵ではないのか? 少なくとも、今すぐ攻撃してきそうには見えないが、意図が読めなくて気味が悪い。
目を細め、じっと集中し、魔法使いの空色の目を、遠く離れたその虹彩をなぞるように観察する。
そして見る。
着慣れたドレスが収められた棺桶を、その前に跪いて嗚咽する赤髪の大男を。大男の口から漏れ出た、男にさえ生んであげられたら、の言葉を。
魔法使いが眉根を寄せた拍子に、それらの観察は押し戻された。この魔法を使い始めてからそのように対応されたことが初めてだったので、ルカはぱちぱちと瞬きし、驚いた。
「……驚いた、なんて魔法を使うんだ君は」
魔法使いのアランは首を振ったが、再び問うような眼差しを向けてきた。もうどうにも覗き見ようがないその目を見返して、ルカは、静かに大きく頷いた。
「そんなチャンスがあるんだったら、何でもやるに決まってる」
愛らしい少女の容貌の中で、深い青の瞳に意思が燃えるのを、魔法使いのアランは目を細めてじっと見た。
アランの右手が掲げられる。小声で何か呟いたと思ったら、彼の足元で、魔法陣が眩しい光を放った。思わず目を覆ったルカが再び顔を上げたとき、そこにはもう、魔法使いの姿はなかった。
ルカはしばし呆然とした。それからじわじわと、胸がうずくのを感じた。
魔法使いの意図が何だったのかはともかく、目の前で実際に使われた転移魔法に興奮が抑えられなかった。
私にだってできるはずだ。絶対にやる、絶対に、すごい魔法使いになってやる。
ルカは決然とオールを動かし、残りの水路を急いで回った。
*
箱庭が収められた古典趣味な部屋の、黒いカーテンの内側に転移してきたアランは、青いカウチに腰を下ろし、カウチのふちに肘をついて眉間を押さえた。
分かっている、王宮付き魔法使いとして見上げた振舞いではない。しかし、カルロの言うことにも一理ある。一理あるのだ、と自分に言い聞かせる。
薄い紫色のガラスの半球に覆われた箱庭を眺める。
ふいに、ぴし、と音がした。ぎくりと体を強張らせ、音のした方に顔を向ける。
急いで立ち上がり、黒いカーテンを勢いよく開ける。そして目を見開く。
──足元にある魔法陣、転移魔法なしに箱庭から戻るための魔法陣に、ひびが入って欠けていた。
優秀な魔法使いのアランには、それが何を意味するかくらいすぐに分かった。単なる転送装置の寿命ではない。──箱庭自身の寿命が、もう、遠くない時期に迫っているのだ。
「殿下……殿下が、中に!」
青ざめた唇を押さえ、アランは身を翻した。箱庭を一瞥してから、弾かれたように走り出して、部屋を出た。
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