第12話 エリカとヘレナ

 その数日のルカの生活は、実際、実に楽しいものだった。朝の仕事を終えるとそのまま港の桟橋で魚釣りに興じ、帰って魚を捌いてもらっては鱗を干し、乾いた鱗を集めて粉にする。昼に前後して市場に出かけ、薬草その他魔法の材料になるものを買い集めては加工する。


 この箱庭では貨幣はあれど、妖精たちに課されたお遊戯のようなもので、今回のルカの素性を知った住人たちはルカが欲しいものはだいたい快く譲ってくれた。おかげで魔法の材料は順調に集まっていったが、住人全員が入るような魔法陣を描けるだけの分量にはまだ遠い。


 土曜の朝の魚釣りを終える頃、ウォルターが桟橋に顔を出した。虹色の魚を今日も数匹手に入れてご機嫌なルカに、水筒の紅茶を分けてやりながら提案する。


「お嬢ちゃん、俺の他にも似たような人間がいるんだが、会っとくかい?」

「ええ、ぜひ! やっぱり何人かはいるのね」

「俺の知ってる限り、十人くらいはいるよ。別に有益な情報はないだろうけど、まあ、世間話程度にさ」


 ルカはウォルターを小舟に乗せて、教えられるままに水路を進んだ。いつもの仕事のルートを途中で逸れ、静かな住宅地の小さな船着き場に上陸する。落ち着いた色合いの可愛らしい家のドアをウォルターがノックして、返事とともにドアを開けた女性が、ルカの姿を見て驚いた。


「ええっ、本物のルカだ! ちょっとヘレナ、どうしよう」


 女性は家の中を振り返って興奮気味に叫んでから、慌てて二人に向き直り、問いかけるようにウォルターを見た。ウォルターは頬をかきながら、


「この子面白いんだよ、ちょっと話したらどうかなって」

「初めまして、突然お邪魔してごめんなさい。怪しい者ではないから安心して」


 努めて大人っぽくルカは微笑んだ。女性はぱちぱち瞬きし、二人を家に招き入れた。

 出迎えてくれたのがエリカで、こぢんまりとしたダイニングで大慌てで茶菓子の準備をしていたのがヘレナという女性だった。エリカは黒髪、ヘレナはこげ茶色の髪で、二人とも似たようなおさげ髪だ。双子みたいだなと思いながら、勧められるままにルカも席についた。


「あなたたちも人間だって聞いたわ。そうなの?」

「そうよ、ウォルターと同じよ」

「ねえ、あなた本当にルカなの? いつものルカと違うわよね」


 エリカとヘレナは身を乗り出すようにしてルカを見た。


「私もウォルターと似たようなものよ。魔法使いから転移魔法を使われて、通行証なしでここに来ているの」

「へえ……ルカでもそういうことあるんだ」

「よく知らないけど、そうみたい。でも王子様みたいな男の子との恋愛ごっこなんてごめんだし、みんなと一緒に脱出してやるつもりなんだけど」

「王子様との恋愛ごっこはごめんなの?!」


 そんなことを言う人間は初めて見たとでもいうように、エリカとヘレナは目を丸くして口元を押さえた。あまりに動きがシンクロしているので、やはり双子みたいだとルカは思った。


「そりゃごめんでしょう、監視までされてるなんて気味が悪いし。代わってほしいくらいだわ」


 冗談めかして言うルカに、それは結構、とエリカもヘレナも首を振った。またもや息がぴったりだったので、三人してぷっと吹き出して笑った。ウォルターは黙って紅茶をすすっている。


「私たち、ここで二人でいられれば幸せだもの」


 そう言って幸せそうに微笑み合うエリカとヘレナを見て、なるほど、とルカはなんだか納得した。王都で女性同士のカップルに出会ったことはない。想像もしていなかったが、こういう人たちにとって王都は住みづらい場所だということかもしれない。


「じゃあ、あなたたちは望んでここに来たの?」


 ルカの慎重な問いかけに、エリカとヘレナは顔を見合わせた。うつむくヘレナの背に手を添えて、エリカが曖昧に微笑んだ。


「私たち、元々は同じお屋敷でメイドとして働いていたの。ご主人様にも同僚にも隠れて、こっそり付き合っていたんだけど」


 机の下で、彼女らがぎゅっと手を握り合っているのが分かった。


「私の実家で縁談があって、家に戻らないといけなくなって」


 沈んだ声でエリカが言った。


「男の人との結婚なんか嫌で……ヘレナと離れたくなくて、どうしようか悩んでたら、ヘレナが」

「……私が、お屋敷のご主人様に、その、襲われて」


 うつむいたままで声を震わせるヘレナの肩を、エリカがしっかりと抱き寄せた。


「もう生きててもしょうがないから、二人で一緒に、橋から飛び降りて死のうとしてたら」

「魔法使いの人が通りかかって、それならこういうこともできるよって」

「『水の都のルカ』の世界の隅っこなら、誰にも邪魔されずに、二人で生きていけるって」

「…………」


 顔を上げた二人は笑顔だったが、痛切な雰囲気を隠し切れずにいた。無言のウォルターの隣で、ルカは重い息を吐いた。


「……辛いことを思い出させて、ごめんなさい」

「いいえ、聞いてくれてありがとう」

「ルカが聞いてくれたと思ったら、なんだかすごく嬉しいわ。何しろここに来て、ルカと直接話すなんて初めてだもの」


 二人は静かに微笑んだ。ルカは眉間を寄せた。

 初めて、この世界があって良かったと思った。しかし、会ったこともない屋敷の主人には怒りを覚えて仕方がなかった。


「それじゃあ、二人は、ここから出るのは嫌かしら」


 目線を落としながらルカは尋ねた。妖精たちを元の住処に返したい、その気持ちには変わりがない。けれど巻き込まれて不幸になる人がいるのはいかがなものか。


「元の場所には絶対に戻りたくない、というか、戻れないけど」

「穏やかに暮らせる居場所があるなら、外に出るのも悪くはないよ」


 エリカとヘレナは優しく答えた。黙って聞いているウォルターだが、大きく頷いてルカを見た。二人もウォルターと同じような感覚なのかもしれない──過ごしやすい理想郷だとはいっても終わりはいつか来るわけで、それを思うとそら恐ろしい、というような。


「ねえ、私の夢はね、偉大な魔法使いになることなの」


 ルカは顔を上げてそう言った。エリカとヘレナが、意外そうに目を丸くした。


「女の子なのに?」

「女だから諦めかけてたけど、やっぱり諦めたくないの。私がいつか偉くなって、自分のお屋敷が持てるくらいになったら、あなたたちを迎えに行くわ。私のところで働けるように」


 思わず黙る二人に、それか、とルカは言い直す。


「それまでだって、私の実家に行ったらいいわ。父の名誉にかけて、フリーマンの家はあなたたちにひどいことをしない……ああ、フリーマン商会っていうのが実家なんだけど。それも怖いなら、しばらく妖精の村にいたらいいわ。妖精の村の近くには、私の師匠も住んでる。この世で一番優しい人よ。ねえ、そういうのはどうかしら」


 情熱的にまくし立ててから、不快ではなかっただろうかとルカは反省した。しばらく顔を見合わせていたエリカとヘレナは、ルカに向き直り、手を取り合って頷いた。


「ルカ、ありがとう。考えさせてもらうわ。でもそもそも、ここから出るなんて無理でしょう?」

「それは私が何とかするのよ」

「ルカが?」

「ええそうよ、なんたって私は、未来の偉大な魔法使いなのよ」


 ルカは胸を張ったが、愛らしい少女の姿ではちんちくりんである自覚はあった。エリカとヘレナはぷっと吹き出して、それから爽やかに笑い合った。ずっと黙っていたウォルターは、ひとり腕を組み、満足そうに頷いた。


 *


 小舟でウォルターを送ってからアンジェラおばさんの下宿に戻り、今朝獲れた魚をアンジェラおばさんと一緒に捌き、鱗を一枚ずつ丁寧に洗い、網に広げてまとめて干す。キリで穴を開けるやり方は時間がかかるので、網に広げるやり方に改めた。


「捌くのもだいぶうまくなったねえ」


 アンジェラおばさんが明るく褒めてくれるので、ルカは自慢げに微笑み返した。それにしてもルカが毎日魚を釣ってくるので、下宿の食事は毎回のように魚料理だ。アンジェラおばさんが早速臭み抜きの下ごしらえを始める横で念入りに手を洗うルカに、後ろ頭に手を組んだジャックが、


「また魚かよ、俺もう飽きた! ああ、花の蜜とか、新鮮な野菜とかあればなあ」

「花の蜜なら公園ででも吸えるじゃない」

「そうじゃなくて、お腹いっぱいさあ」


 ぶー垂れていたジャックだが、ふと玄関の方を見て、急にルカをぐいぐい押した。アンジェラおばさんの後ろ側に押し込まれたルカが不満の声を出すより先に、


「こんにちは、アンジェラおばさん! ルカはいるかな」


 数日聞かないうちにすっかり耳に新しい、爽やかな呼びかけが聞こえた。

 アンジェラおばさんの後ろで思わずしゃがみ、ルカは聞き耳を立てた。ジャックが玄関の方に歩いていって、二階からはアニーとマーティンも顔を出した。アンジェラおばさんが陽気な微笑みを浮かべ、下宿の玄関で姿勢よく立つトーマスに、


「おやトーマス、旅行から戻ったのかい。ルカは今いないよ、市場にでも行っているかもねえ」

「日曜の予定だったけど、一日早く戻ったんだ。それじゃあ、ルカに伝言をお願いできるかな。明日の朝、明かりを消すのが終わったら、街を一回り一緒に散歩しようって」


 言うだけ言って、じゃあ、とトーマスは去っていった。友好的に手を振って見送った後、トーマスの姿がお屋敷に入っていくのを確認して、ジャックがアンジェラおばさんの方に戻ってきた。


「だってさ、デートのお誘いだよ! どうするの、ルカ」


 アンジェラおばさんの後ろから顔を出したルカは、それはもう面倒そうな顔をしていた。ジャックは大笑いして、アンジェラおばさんは肩をすくめた。階段の上で、アニーとマーティンが顔を見合わせた。

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