第10話 心を読む魔法
それからの数日、ルカは勉強の傍ら、ひたすら魔法の材料を集めて過ごした。魚を釣っては鱗を干し、市場で薬草を漁って加工した。ウォルターも、釣れたフォシュトケリの鱗は全てルカに譲ってくれた。火曜に釣りを始めて、木曜にはすでにかなりの量の鱗が手に入っていた。
「たくさん集めたのねえ、ルカ」
アンジェラおばさんの下宿の食堂で、机の上に広げられた数えきれないほどの鱗を眺めて、アニーが感心して言った。ルカは借り物の天秤で鱗の重さを何枚分か測りながら、にやりと笑った。
「まだ2kgくらいだよ。たぶんまだ20倍くらいは必要よ」
「20倍も? そんなにたくさん粉があったら、くしゃみが止まらなくなっちゃうよ!」
玄関口で頭の後ろで手を組んで、いたずら小僧のジャックが冗談を言った。アニーとジャックが笑い合う。ダイニングでは魚の開きが十数匹分干されていて、それもなかなかの光景だ。
何枚か測った鱗の重さと、一匹当たりの鱗の枚数を書き留めたノートを閉じ、ルカは机に広げた乾いた鱗をバケツにざらざらと回収した。バケツの蓋を閉じ、昨日作った虹色のインクで、蓋に魔法陣をさらさらと描く。手をかざして呪文を唱えれば、バケツの中の鱗は一瞬で粉になっていた。
「ええっ、そんな魔法もあるのね」
「カルロが教えてくれたんだよ、若い魔法使いがよく使うんだって」
驚くアニーとジャックの目線の先、ダイニングの隅で、灰色猫のカルロは一生懸命魚を食べていた。彼にしたってルカがそんなに魚を集めるとは思っていなかったようで、猫は嫌いだと言っていたアニーも、へえと言ってくすりと笑った。
「私はしばらく勉強するね。ウォルターが魚を持ってきてくれるかもしれないから、その時は教えて」
そう言い残し、ルカは虹色の粉でいっぱいのバケツを持って自室に上がった。桟橋で会って以来、ウォルターもすっかりこの下宿の顔なじみになった。
部屋の隅にバケツを置いて、カルロからこっそり借りた魔法の教科書を開く。これらの本は系統立ててまとめてある代わりに、実用に移そうとすると分からないことも多い。学校に行けばそのギャップが埋められるのだろうが、シモンズ先生の本はちょうど、そういう知りたいことを詳述している。
ふと、シモンズ先生の本の隙間に、一枚だけ便箋が挟まっているのに気づく。その薄い紙をつまみ上げ、ルカは大きな目をもっと大きくして、驚いた。
その書き出しはこうだった。
私の可愛い弟子へ、もし、渡すことができる幸運があれば。
*
シモンズ先生は、フェリシアの父の古い知人だった。
若い頃は何か大きな仕事をしたという噂もあったが、フェリシアが知っていたのは王宮の裏手の深い森で隠居している姿だけだ。父にせがんで一緒に訪問したとき、シモンズ先生は、女だけども魔法使いになりたい、というフェリシアの夢を優しく頷きながら聞いてくれた。一言も否定されず、馬鹿にもされなかった。頼み込んで弟子にしてもらい、それからは、月に一度ほど通い続けた。
シモンズ先生と勉強するのはとても楽しかった。商人の娘で読み書きそろばんができたのは幸いで、魔法に必要な古語を教わるのもフェリシアには苦ではなかった。
フェリシアの才能を、シモンズ先生は非常に評価してくれた。しかし女の身では魔法学校にも行けない。先生とも色々と相談したのち、ひねり出した策が、貴族の養子になることだった。
豪商だったフリーマン家は、傾きかけた貴族の家よりよほど裕福だった。フリーマン家の取引先で、女児に恵まれなかったラザフォード伯爵家が、多額の養育費と引き換えにこの無茶な申し入れを受けたのだった。
貴族の娘ならば、優れた家庭教師を雇い、ゆくゆくは王宮で侍女の職くらい持てるかもしれない。魔法使いにはなれなくても、似た仕事はできるかもしれない。
しかし現実は甘くはなかった。ラザフォードは単に政略結婚の道具としての女児を欲していただけで、家庭教師から教わることができたのは、せいぜい家庭内安定のためのまじない程度の魔法だけだった。
シモンズ先生に会うことも、手紙のやり取りすら許されなくなった。魔法使いになる夢が叶うどころか、それは永遠に閉ざされたようだった。
それでも、おとなしく政略結婚の役目を果たせば。イーグルトン侯爵家の嫡子のノエルは、優しく、聡明で、理解があった。ノエルとの婚約はラザフォードにとっては願ってもない好機で、フェリシアにとっては、魔法を学ぶという冒険を許されるかもしれない最後の望みとして、重要だった。
だからこそ、あの舞踏会の夜、あんなにも絶望してしまったのだ。
ともかくシモンズ先生は、フェリシアにとって──箱庭の今のルカにとって、唯一無二の魔法の師匠である。その彼が、可愛い弟子へ、と書き出した手紙を、ルカは震える指先でたどった。
君としばらく会えなくなるのは、私にとってもあまりに寂しい。君の好奇心、情熱、それから天性の魔法への親しさは、私がこれまで出会った誰よりも素晴らしいものだ。きっとこれからは、こんな老いぼれではなくてもっと優れた家庭教師に習うことができるのだろうが、私から言い残したことをいくつかは書いておこうと思う。
続く内容は、教科書で習うような魔法のその先についての豊富な事例だった。明かりを灯す魔法、これは皆あまりにも初歩的な魔法だと馬鹿にするけれど、その本質は魔法陣の拡張だ。最近では機械の運動と組み合わせて面白い作用を生み出そうという向きもある。君なら色々と工夫できるだろうから、頭を柔らかくして考えてみてほしい、など。
手紙は裏にも続いていた。あまり大きな声では言えない魔法だが、君にはできると思うので教えよう。人の目をよく観察しなさい。自分から能動的に魔法を行おうとするのではなく、その人の目の中の『光』を知ろうとしなさい。うまくすれば、彼や彼女が何を考えているのか、どういう魔法を使おうとしているのかが分かるだろう。
世の中には善良な人もいれば、そうではない人もいる。善良な人の善良な思いを尊重し、隠れた悪人は注意深く遠ざけなさい。
色々と書いたけれど、ここに書いたことなんて、君ならあっという間に身につけられるだろう。どうかこの老いぼれを超えて、偉大な魔法使いになってほしい。君の行く末に幸多からんことを。君の親愛なる師匠、ケヴィン・シモンズより。
読み終えた手紙をそっと本に挟み直し、本を閉じ、ルカはベッドに倒れ込んだ。
不思議と涙は出なかった。ただ、シモンズ先生の年老いた顔、この世で最も優しい微笑みを思い出し、熱くなる胸を押さえた。
そして起き上がった。自室を出て、階段を降りる。ちょうどウォルターが今朝釣れた魚を持ってきたところで、
「ああお嬢ちゃん、今朝はめっぽう釣れて……」
そう言いながら籠を開けようとするウォルターの手を止め、ルカは、ひょろりと背の高いウォルターの両肩をむんずと掴んだ。
「ちょっと待って、教えないで。頭の中で考えてちょうだい……今朝は何匹連れたって?」
全神経を集中させてウォルターの目を覗き込みながら、ルカは尋ねた。ウォルターは目をぎょろぎょろさせて困惑したが、口を結んで黙った。
目を細め、ルカは彼の虹彩を、穴が開くほど睨んだ。そしてある瞬間、ぎょろりとした目の奥から、確かに、黙ったままの彼の声がうっすらと聞こえた。
「……7匹ね、そうでしょう」
ルカはそう言って、手を離した。ウォルターはばちばち瞬きして、籠の蓋を開けた。虹色の鱗の魚が7匹、籠の中でぴくぴく動いていた。
覗き込んでいたアニーやジャックがおお、と声を上げた。灰色猫のカルロすら、にゃあと短く一声鳴いた。ウォルターは髭を剃った頬をかきながら、
「お嬢ちゃん、今度は何の手品だよ」
驚きを通り越して、呆れたように呟いた。
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