第9話 釣り人のウォルター

 グレゴリーおじさんからもらった釣り道具をすっかり片付けてからは、ルカはまたシモンズ先生の本を読んで過ごした。


 転移魔法の他にも、本にはいくつもの重要な魔法について書いてある。そのどれもを吸い込むように読み解いて、試せそうなものはノートに魔法陣の図形を書き取る。そうこうしている間に夕方になり、水路の明かりを灯して回るために下宿を出る。


 すっかり慣れた水路を回りながら考える。フォシュトケリの粉を液体に溶いて、インクのようにしたら便利そうだ。王都には別の素材を用いた似たようなインクもあるのだが、フォシュトケリの場合に何に溶いたらいいかが分からない。


 それからやはり、うんと大きな魔法陣を描くには、うんとたくさんの材料が必要だ。


 明かりをつけ終えて、通い慣れた船着き場に戻る。下宿の前まで来たところで、トーマスのお屋敷の窓から、見慣れない銀髪の少年が見下ろしているのに気づく。


 ルカは思わず立ち止まった。少年の金色の目がルカを見てにこっと笑った。初対面だが、変に見覚えがある。

 少年の姿はすぐに窓辺から消え、我に返ったルカがさっさと下宿に戻ろうと歩き始めたとき、トーマスのお屋敷の玄関がぎいと開いた。中から顔を出したのは先程の少年で、


「おいで」


 ルカに手招きをし、猫のような目で可愛らしくウインクした。警戒すべきなのだろうが、ルカは顎を引いて近寄った。玄関先まで来たルカに、少年はずっしりとした布袋を渡した。


「貸してあげる。秘密だよ」


 中を見ると、それは数冊の本だった。たぶん、トーマスのサロンで棚に並んでいたような本だ。目を大きくしてぱちぱち瞬きするルカに、じゃあね、とだけ言って少年は引っ込んでいった。


 ルカは何となくこそこそと自室に戻り、銀髪の少年に渡された本を開いた。シモンズ先生の本と入門書の隙間を埋めるようなレベルの教科書や、魔法の材料について詳しく書かれた本もある。そこにはまさに、魔法陣作成用のインクの材料や、フォシュトケリの粉を使う場合の配合なども載っていた。

 にゃあという声にドアを開けると、灰色猫のカルロがお行儀よく座っていた。ルカはカルロを抱き上げて、頬ずりしながら言った。


「カルロ、あなたって案外いい人ね! いいえ、いい猫ね」


 その日も夜更けまでずっと、ルカは数冊の本を見比べながら勉強した。カルロはその足元に丸まって、ルカをじっと見上げたり、うとうと眠ったりしていた。


 *


 翌朝の仕事を終えてから、ルカはそのまま小舟を操って港までやってきた。

 漁船が出港したあとの港は穏やかだ。桟橋には先客の釣り人が数人いるだけで、かもめが遠く鳴いている。

 桟橋に適当に小舟を繋ぎ、釣り道具一式を小舟から下ろして、グレゴリーおじさんから教わったのを思い出しながら釣り針に餌をつける。


 釣りなんてごく幼少の頃に別荘地の池でやったくらいだ。餌つきの針をなんとなく水面に放り込むが、待てど暮らせど何も起こらない。


「お嬢ちゃん、それじゃだめだよ」


 顔を上げると、見かねて声をかけたというような様子のその男は、帽子の下のぎょろりとした目を見開いた。ぼさぼさの髭面になんとなく見覚えがあり、ルカはあら、と声を上げた。


「フォシュトケリを売ってくれたおじさんね!」

「おじさんじゃない、まだ25歳だ! じゃなくて、あんたルカだよな」


 頷いてから、ルカは首を傾げる。25歳? そんなに長生きする妖精はあまりいないはずだ。


「あなたの名前は?」

「俺は……名乗るほどの者じゃないよ」


 しどろもどろに言ってから、男はそわそわと空を見上げた。


「心配しなくても、オウムは飛んでないわよ。緑も黄色も」

「……あんた、ちょっと変わってるよな? 釣りなんかするかい、普通」

「私は普通じゃないらしいの。それで、あなたの名前は?」


 微笑んで尋ねれば、男は観念したように肩をすくめて答えた。


「俺はウォルターっていうんだ。ご存知の通り、魚を売って、なんとかやってるよ」


 ウォルター、小説には出てこなかった人物だ。自分の仮説を一つずつ確かめていくような気持ちで、ルカはにやりと笑った。


「ウォルター、よろしくね。貴方はここで魚を釣っているの?」

「そうだよ、船なんかないからさ。それに釣れる分を売るだけだって、ここで生きてくには困らない」


 そうそう、とウォルターはしゃがんで、ルカが闇雲に投げた釣り針を引き戻した。餌をつけ直し、水面下にうっすら見える岩場を示しながら、小さく振りかぶって的確に針を投げ入れる。


「お嬢ちゃんはなんで魚釣りなんかしてるんだ? 猫の餌かい」

「いいえ、フォシュトケリの鱗が欲しいの」

「へえ、変わってるな。魔法陣でも作るのか」

「そうよ、とびきり大きな、ここのみんなが一度に入れるようなやつをね」


 そうかそうか、と頷きかけて、ウォルターはぎょろりとした目でルカを見た。その迫力にちょっと引いたが、単に驚いているだけのようだと見てとって、ルカはにっこり笑う。


「貴方がここから出たいかどうかは分からないけど」

「……本気で言ってる?」

「私は本気よ。大事な友達が、故郷に帰れないのを嘆いているのよ。ねえ、貴方の故郷も妖精の村なのかしら」


 ウォルターが顔をしかめたところで、ルカの釣り竿に引きがあった。慌てるルカの手に手を添えて、ウォルターが手際よく竿を引く。水面から勢いよく跳ね上がった虹色の鱗の魚を、ウォルターが手持ちの網でとらえる。


「すごい! フォシュトケリだわ!」

「近頃はこの辺で腐るほど釣れるんだ。どういう仕組みか知らないけどさ」


 ウォルターは魚の口から針を外し、ルカが持ってきた蓋つきの籠に入れてやった。次の餌を手に取って、


「やってみるかい、お嬢ちゃん」

「やる! 教えて」


 ルカはウォルターの真似をして器用に餌をつけ、教えられるままに針を水面に投げ入れた。うきうき待つルカを、ウォルターが微笑ましく見守る。


「ここにいる全員が入るような魔法陣を作るには、何百匹釣らないといけないんだろうなあ」

「さあね、でも計算はできそう。私、お金の勘定だって得意なの」

「あんた、どこかのお嬢様じゃないのかい? お嬢様がお金の計算なんかするかよ」

「お嬢様もしていたけどね、元々は商人の娘よ」


 ルカはウォルターを振り返ってにやりと笑った。ちょうど釣り竿がびちびち動いて、慌てて次の魚を釣り上げる。本当に、面白いほどよく釣れる!


「商人の娘かあ。どのへんの?」

「うちは魔石商よ。メリー・ステラ通りの市場の脇に店を持っていたわ」

「メリー・ステラ通りだって? ひょっとしてフリーマン商会かい?」

「そうよ、よく知ってるわね」

「知ってるも何も、フリーマン商会に卸している魔石工場で働いてたんだ、メリー・ステラ通りの橋を渡ってずっと向こうの」


 胸が高鳴るのをこらえながら、自分を落ち着かせるように、ルカはゆっくり瞬いた。間違いない、ウォルターは妖精ではなく、人間だ。それも多分、ルカと同じような境遇の!


「あなたはどうしてここに来たの?」

「……あんまり面白い話じゃないよ。工場はひどい労働環境だった。憧れて光技師になったはずなのに、俺みたいな下っ端は、ほとんど奴隷みたいな扱いだったんだ」


 ルカは真顔になった。


 光技師。それは、魔法を利用した工業製品の整備をする職業だ。


 この世界には魔法がある。それは紫の月と呼ばれる天体から降り注ぐ、紫の『光』を動力源としている。

 特定の回路を通すと、その『光』は回路に応じた特定の効果を発揮する。その回路の代表的なものが魔法陣であって、二重の円に囲まれた範囲に、意図する効果を引き出すための精密な回路が設計される。簡便な魔法陣は日常の様々な道具に刻まれていて、魔石に蓄積した『光』を消費することで、一般人による利用も可能になっている。


 蒸気機関は産業革命を可能にしたが、そこに『光』の回路を組み込んだ様々な製品も同時に発展した──産業機械から湯沸かし器などの日用品まで、ありとあらゆる製品が。魔法の才能がない者も使える製品は多くあるが、その生産や整備には、『光』の回路を専門に扱う光技師の存在が不可欠だ。


 逆に言えば、世の中にいる魔法を使える者の大半は、そうした光技師である。そして、魔法使いという言葉の華やかさとは裏腹に、ほとんどの光技師は楽ではない暮らしを強いられているのが現状だ。


「フリーマン商会は優良な取引先だって話だったが、そうじゃない客もいるもんだ。俺たちは安い賃金で使い捨てみたいに働かされてさ、夢も希望も、一年先の生活の保証もなかった。そんな生活が嫌で、もういっそ死のうかなと……川に飛び込もうとしたところで、どこかの魔法使いから声をかけられたんだよ。死ぬくらいなら、理想郷で遊ばないかってね」


 ウォルターは海面に目線を落としながら、沈んだ声で言った。


「ここでの暮らしは楽しいよ、元の暮らしに比べたらそりゃね。でも時々、そら恐ろしくなるんだ。空間魔法の箱庭なんだから、いつかは破裂するか、取り壊されちまうもんだろ」

「……あなたは通行証を持っていないってことね?」

「持ってるわけないよ、どうでもいいモブの一人を演じろって話なんだ」

「その魔法使いって、くすんだ金色の髪だった?」


 ルカは慎重に尋ねた。ウォルターは空を見上げるようにして、うーんと考えた。


「そんなんじゃなかったと思うけど……どうだったかなあ。黒髪で、冴えない感じの眼鏡の男だった気がする……」


 ルカを飛ばした魔法使いとは別人のようで、ルカはふむと考える。


「お嬢ちゃんは、バカンスじゃないのかい?」


 聞いていいのか躊躇うように、顔だけルカに向けて目を泳がせながら、ウォルターが尋ねた。ルカはもう一度空を見て、緑も黄色もオウムはいないことを確かめてから、頷いた。


「私もあなたと似たようなものよ、ちょっと王宮で暴れちゃって」

「王宮で暴れた?!」

「ええ、何だか我慢がならなくなったの、色々なことに……」


 ルカはそう言って半目になった。婚約者だった男の怯えた顔を久々に思い出すと、深々とため息が出る。

 でももう、いいのだ。おかげで自分のやりたいことを、強く自覚することができた。


 とんでもない人間を見る目をしているウォルターに肩をすくめてみせ、ルカはにやりと笑った。ちょうどまた引きがあって、わたわたしながら虹色の魚を釣り上げる。ウォルターに手伝ってもらって魚を外し、再び釣り竿を振ってから、ルカは改めて続けた。


「ねえ、良かったら協力してよ! 私は妖精のみんなを元の村に戻してあげたいし、私自身もこんなところ脱出したいの。私には、偉大な魔法使いになるっていう夢があるんだから」

「……あんた、元々フリーマン家のお嬢様なんだろ。なんか……立派な心意気だねえ」


 桟橋の上であぐらを組んで、ウォルターは心底感心したように言った。

 言わんとすることは分かる。ただ幸福に生きようとするなら、実家でそのまま育てば良かった。そこそこの家の男に嫁いで、そこそこに家業を手伝い、そこそこに子を産み育てれば。


「いいよ、どうせ暇なんだ。とりあえず魚釣りで良かったら、いくらでも手伝うよ」


 ウォルターはそう言って、ぎょろりとした目をくしゃっと歪めて笑った。ルカはにっこり笑い返した。握った拳を突き出されるので、少女の握り拳で突き返した。

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