第7話 練習

 シモンズ先生の名を見て黙ったルカに、グレゴリーおじさんが穏やかに話しかけた。


「とても優しい先生だよ。私たちの村のことをいつも気にかけて、色々融通してくれていた。もうだいぶお年ではあったが、たぶん、今も村のそばの森にお元気で住んでいるんだろうね」


 ルカは顔を上げて、グレゴリーおじさんに微笑みを返した。それから本に目を戻し、目次を見て内容をざっと確認する。

 転移魔法の章は確かにある。しかし現実的に考えて、学校にも行っていない人間がいきなり使える魔法ではない。何ができれば使えるものかなんて、もちろん簡単には分からない。


「転移魔法を使うとして、タイムリミットってあるのかしら」


 ふと気になってルカは尋ねた。グレゴリーおじさんは首を振り、


「分からないが、ルカが……あなたがオウムに目をつけられたなら、あまり長くはないかもしれないね」

「……まあ、試してみないと始まらないわよね。この本、借りてもいい? 自分の部屋で読みたいわ」

「いいけど、カルロに見つからないかな」


 アニーが顔をしかめる。ルカもああ、と肩を落とすが、すぐに気を取り直して微笑んだ。


「そこはまあ、うまいことやるわ。この場所だって秘密なんでしょう? 通って読むよりは安全だと思う」

「それもそうだね。ねえルカ、市場に寄って帰ろうよ。本を隠すのに使えるものを探そう」


 アニーは元気よく立ち上がった。ルカも立ち上がり、広場にいた皆に手を振って、アニーに続いて元来た道を戻る。分厚い本をとりあえず大事に抱え、森の中に浮かんだようになっている扉をくぐり、街の地下をぐるぐると登り、地上に出て眩しさに目を細める。


 アニーは慣れたように、小さな路地を何回も曲がって市場に出た。途中ほとんどずっと何らかの屋根の下を通って来られたのには驚いた。市場を少し歩き、果物屋でオレンジを買い、大きな布袋の底に本を敷いてその上にオレンジを詰めた。

 本とオレンジが入った重い袋を二人で頑張って運ぶ。途中何回かよろけ、その度にアニーはからからと笑った。深刻な話をした後のはずだが、妖精とは軽やかな生き物だ。


 下宿に戻れば、ダイニングの肘掛け椅子で本を読むアンジェラおばさんが、大きな布袋を持って帰ってきた二人を見て笑った。


「おや、随分たくさん買い物をしたんだねえ!」


 アンジェラおばさんの膝に灰色猫のカルロが丸まっているので、アニーとルカはどぎまぎしながら愛想笑いをした。

 ルカの部屋に向かう二人に、アンジェラおばさんの膝から降りて、カルロが黙ってついてくる。ルカの部屋の前で、アニーがしっしっとカルロを追い払う仕草をする。


「ほら、猫はオレンジなんか嫌いでしょ! 私たちはこれからオレンジピールを作るんだから」


 カルロは金色の目を細め、しぶしぶ引き返して階段を降りていった。部屋の扉を閉めてため息をつき、二人は急いで布袋の底からシモンズ先生の本を取り出した。余っていた服に包んで、クローゼットの下の方に押し込んだ。


「これでひとまずは大丈夫ね! ルカ、読む時はカルロがいないのをよく確かめてね。オウムが窓から覗いていないかどうかもね!」

「そうするわ、ありがとう」


 窓の外ではもう日が傾いている。オレンジが入った布袋をクローゼットの前に置いて、二人は部屋を出た。外からしっかり鍵を閉め、ルカは明かりを点けて回る仕事に出かける。

 もう何日も回った水路も、ここが空間魔法の箱庭だと思うと全く違った景色に見えた。途中思い立って小舟の縁から水面に指をつけ、思い切って舐めてみたが、思った通りに淡水だった。そりゃそうだ、王都に海なんかないのだ。

 水路から見える家々の明かりも、あれはみな、故郷を失った妖精たちの団欒なのだろう。そう思うと何とも切なく、同時に腹が立ってくる。


 水路の明かりを灯し終わって、下宿に戻って夕食を食べる。妖精たちの隠れ家での会話などなかったように、アニーはこれまで通りに振舞っている。ジャックもマーティンもそうだったが、ルカはジャックの顔を見ては吹き出しそうになるのを堪えた──どう見てもただのいらずら坊主で、怪盗などという柄ではない。


 部屋に戻ると、扉の前でカルロが待っていた。人懐っこくにゃあと鳴いて愛らしい目で見上げてくるカルロを、ルカは仏頂面で見返した。鍵を開け、カルロが入り込むより先にすっと部屋に入り、隙間を足で塞ぎながら話しかけた。


「レディの寝室に一晩中いるのは考えものよ、カルロ! 明日の朝には遊んであげるから、ほら、今日は暖炉の前ででも寝なさい」


 カルロはじとっとルカを見上げてから、しぶしぶ階段を降りていった。ルカはほっと息をつき、扉を閉めてまたしっかり鍵をかける。


 注意深くカーテンを閉め、クローゼットに隠していたシモンズ先生の本を取り出す。

 その本には所々に、本の持ち主によるメモ書きがされていた。自分の理解を深めるためだろうというメモも、後から読む者のための注記だろうというメモもある。

 とりあえず転移魔法の章を開いて読むが、やっぱりいきなり読んでもちんぷんかんぷんだ。何せ、最高難度の魔法のひとつなのだ。

 分からない単語や知らない魔法をひとつずつ遡って確認する。どうしても整理が必要な部分のために、本棚からノートを、机の引き出しからインクつぼとガラスのペンを発掘し、まとめながら勉強を進める。


 そして重大なことに気がつく。転移魔法を使うのには、魔法陣が必須だ。風を起こす程度の魔法なら、指で空中に描く魔法陣でも事足りるのだが、転移魔法のような精密な魔法ではそうはいかない。


 すでに読んだ入門の教科書とも見比べながら、魔法陣を描くための材料を調べる。そうこうしているうちに眠気に負けて、気がつけば、本の上に突っ伏したままで、もう朝である。


 カーテンを少しだけ開けて、オウムがいないのを確かめてから窓を開ける。虹色の鱗を干していたものが心地良い風に揺れる。触ってみれば、鱗はもうすっかり乾いている。

 これを粉にして、魔法陣の材料にしよう!

 ルカは干した鱗をうきうきと外して、机の上に置いた。窓を閉めて部屋を出て、とりあえず、明かりを消して回る仕事に出発する。いつもの水路を回りながら、どうやって鱗を粉々にしようかと考える。薬屋にでも行けば薬草をすり潰す道具を借りられるだろうか、そもそも、この箱庭に薬屋はあるのだろうか。


 仕事を終えて下宿に戻り、自室のドアを開けて、ルカはびっくりして小さく悲鳴を上げた。シモンズ先生の本を開きっぱなしの机の上に、カルロが行儀よく座っていた。

 身構えながら近づいて、ふと、カルロの足元に小さな深皿があることに──そこに虹色の粉があることに気づいて、ルカは今度は歓声を上げた。


「まあ、カルロ、あなたが鱗を粉にしてくれたの?」


 答える代わりに、カルロはにゃあと鳴いた。ルカは思わずカルロを抱き締めて頬ずりした。それからはっと顔を離して、金色の目をじっと睨んだ。


「でも、丸っきり信用したわけじゃないからね!」


 カルロはふんと鼻を鳴らして、ルカの机の上から軽やかに飛び降り、するりと部屋を出て行った。態度が悪かったかしらと気を揉みながらも、ルカは注意深く部屋の扉を閉め、転移魔法の勉強に戻った。

 昼頃まで机にかじりついていて、ざっくりとした概要と注意点は分かった。あとは色々練習したい。のびをしたところに、ちょうどアニーが扉を叩いた。


 食堂で一緒にランチを食べているところ、下宿の玄関からマーティンがひょいと顔を出した。ルカとアニーを見て微笑んで、


「ルカ、アニー、グレゴリーおじさんが鍛冶屋に遊びに来ないかって」

「本当? 行く行く! ね、ルカ」


 ルカも頷く。なんとなく一度部屋に戻り、カルロが粉にしてくれた虹色の魚の鱗を小瓶に詰めて、自室にしっかり鍵をかけてから、アニーと一緒に出かける。


 グレゴリーおじさんの鍛冶屋は、市場を少し過ぎたところにあった。陽気な笑顔で迎えられ、炉のある部屋に案内される。

 鍛冶の道具が隅に片付けられていて、かなり広い空間ができていた。炉の火も今は消えていて、厚い壁に囲まれた暗い空間は少しひんやりしている。


「広い部屋ね」

「この箱庭は西都の街を写し取って作ったそうだ。そこの鍛冶屋は大繁盛しているらしいが、私にはここは広すぎるよ」


 小さな木の椅子に大きな体で座り、葉巻のようなものを吸いながら、グレゴリーおじさんは穏やかに微笑んだ。たぶん、妖精たちのあの隠れ家で育てていた薬草か何かを吸っているのだろう。


「ルカ、魔法の練習をしたいなら、ここはちょうどいいはずだ。外からあまり見えないし、多少乱暴なことをしても壊れない部屋だ。好きに使いなさい」


 ルカはアニーと顔を見合わせたあと、笑顔で頷いた。


 例の粉を持ってきてちょうどよかった。まずはこの粉が使えるかを確かめるため、簡単な魔法陣を描く。手のひらほどの大きさで二重に円を描き、その内側に六芒星を描き、いくつかの単純な線を足し、隙間についでの図形を描く。

 深呼吸して、魔法陣をひと撫でしながら呪文を唱える。すると魔法陣から、するすると光の木のようなものが生えてきた。ルカの腰ほどの高さまで伸びたそれは、安定して淡い光を放ち続けた。


「わあ、すごい!」


 アニーが大喜びで近寄り、手をかざしたりつついてみたりする。温かくもなく触れられもしない光の木だ。部屋が明るくなったのにも満足して、ルカは改めて、転移魔法の魔法陣を描く。


 魔法陣はある種の回路だ。当然ながら、複雑な魔法であればあるほど、その回路も複雑になる。部屋に転がっている色々な道具をあれこれ利用しながら、ルカは正円や直線や細かい文字を丁寧に描いた。両手で抱えるくらいの大きさの魔法陣が完成するまでは、飽きたアニーが市場でジュースを買って帰ってくるくらいの時間がかかった。


「これで完成なの?」


 額の汗をぬぐうルカに、椅子に座ってジュースを飲みながらアニーが話しかけた。ルカは首を振り、魔法陣から二歩ほど離れた場所に別の小さな魔法陣を描き始めた。


「転移魔法はね、ゴールの目印も必要なの」

「あ、なるほどね! 狙ったところに飛ばさないといけないものね」


 そちらはすぐに描き終えて、ルカはいよいよ、小さなコインを大きな魔法陣の真ん中に置いた。雑用を終えたらしいマーティンも来て、部屋の入口から見学している。ルカは目を閉じて深呼吸し、目を開けて、魔法陣に手をかざし、転移魔法の呪文を唱えた。

 大きな魔法陣が光を放った。からんと音がして、光がおさまり、目が慣れるのを待って見ると、確かにコインは小さな魔法陣に移動していた。


「すごい! ルカ、すごい!!」


 アニーは飛び上がって喜んだ。マーティンも目を丸くして、何が起きたのだろうと二つの魔法陣を見比べている。グレゴリーおじさんは髭をなで、ほう、と感心した声を出した。


「ルカ、ひょっとして……君はとてもすごい魔法使いだね?」


 ルカは振り返り、興奮を抑えきれない顔で胸を張った。我ながら、上出来だ!


「でもこれはお試しよ。飛ばしたものは小さいし、距離も近いし、生き物を飛ばしたわけでもないし」

「きっとルカならすぐできるよ! ああ、本当に出られるかも──」


 アニーの興奮した声は、マーティンの小さな悲鳴で途切れた。グレゴリーおじさんにひっついて縮こまるマーティンの目線の先、部屋の外の方を覗くと、そこには灰色猫のカルロがいた。アニーがしっしっと追い払うと、カルロはにゃあと鳴いてあっさり去っていった。


「もう行っちゃったよ。マーティンったら、本当に猫が嫌いね!」

「勘弁してよ、あいつら俺たちを転がして遊ぶんだもの」


 怯えるマーティンの頭をグレゴリーおじさんが撫でて苦笑する。マーティンの元の姿はコガネムシか何かなのかもしれない。アニーは部屋の外で仁王立ちして、カルロがすっかりいなくなったのを確かめてから、顔をしかめて戻ってきた。


「本当に、あまり時間がないかもね。わざわざ見張りに来るなんて、嫌なやつ!」


 頷きながら、ルカはいまいち腑に落ちない。見張りに来たと考えるのが自然だが、虹色の鱗を粉にしてくれた親切さとちぐはぐな気もする。


「今日はこのくらいにして帰りましょ、ルカ! あんまり怪しまれすぎないようにさ」

「そうね……ああ、グレゴリーおじさん」

「なんだい、ルカ」


 虹色の粉を可能な限り回収しながら、ルカはグレゴリーおじさんを見上げた。


「釣り針をひとつ借りられないかしら。フォシュトケリの鱗がもっとたくさん欲しいのだけど」

「ああ、そういうことなら、釣り道具を一揃い持って行けばいいよ。ほら」


 部屋の隅をごそごそと探って、グレゴリーおじさんは釣り道具を一式取り出した。マーティンにも持ってもらって、三人は鍛冶屋を出て下宿に戻った。

 警戒したが、ダイニングの肘掛け椅子に座るアンジェラおばさんの膝の上にも、その他どこにもカルロの姿はなかった。三人はほっとして、急いで釣り道具をルカの部屋に片付けた。


 ──実際のところ、カルロは下宿に戻っていなかった。トーマスのお屋敷の玄関を入り、二階の書斎の隅の黒いカーテンの中に入り、金色の目を閉じて小さく鳴いた。足元の魔法陣が光って、一瞬の後に、その姿は見えなくなっていた。

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