第6話 妖精たちの隠れ家
ルカの手をしっかり握ったアニーは、アンジェラおばさんの下宿の方向に歩き出した。途中何度も空を見て、あの緑のオウムがどこにもいないのを確かめた。
小さな路地を曲がったところで、ルカが一度も入ったことがない小さな建物の扉を開ける。
扉の先は通路になっていて、よくある中庭に続いていた。中庭に出る前の扉をくぐり、その先は、ルカが目が回るくらい何度も扉を開けて通路を進み、階段を下っていった。扉の数を数えるのをルカがとうに諦めた頃、開いた扉の先に広がっていた光景に、ルカは息を飲んだ。
そこは森だった。いや、確かに街の地下のどこかを進んでいたはずなのだが、アニーが丁寧に閉めた扉以外は、目に入る光景が全くもって森の中だった。白樺の木をつたが登り、柔らかい下草に、木漏れ日が淡く差し込んでいる。
アニーがほっとしたようにため息をついて、さらに奥へと進んでいった。獣道のような小道を少し行くと、開けた場所に出た。アンジェラおばさんの下宿の前の小さな広場くらいの広さの、日差しが心地良い空き地。その周りには木でできた小さな屋根と椅子とテーブル、ベンチなどがまばらに並んでいて、まるで、森の中の休憩所のようだった。
「おや、ルカじゃないか」
空き地の隅で草をいじっていたのは、グレゴリーおじさんだった。他にも数人の人がいて、みな物珍しそうにルカを見る。
「おじさん、どうしよう! ルカが連れて行かれちゃうかもしれない」
アニーはグレゴリーおじさんに駆け寄り、涙声で抱きついた。事態が飲み込めず困惑するルカに、グレゴリーおじさんはふむと思案げな眼差しを向けた。
「一体何があったんだい。ここは安全だから、ひとつずつ説明してみなさい」
市場で話した陽気な雰囲気とは対照的に、グレゴリーおじさんの物腰はとても穏やかだった。勧められるままに近くのベンチに座り、改めて、ルカは二人に話しかける。
「私の推測を聞いてほしいのだけれど。……ここは、王都よね。王都のどこかに作られた、空間魔法の箱庭だと思うのだけど、合っているのかしら」
「そうだよ、ルカ。……それを、知らなかったんだね」
グレゴリーおじさんが頷きながら問いかける。ルカは眉根を寄せながら、
「つまり、普通は知っているということよね。普通のルカは──ここは『水の都のルカ』に寄せて作られた箱庭で、貴族のお嬢様が「ルカ」のロールプレイを楽しみに、代わる代わる来ているとか。そんなところでしょう」
グレゴリーおじさんは頷いた。さっき泣きそうになっていたアニーも、ごくりと唾を飲んで頷く。
「分からないのは、連れて行かれるということよ。ルカにしてはおかしな振舞いをしたら、オウムにつまみ出されるとでも言うの?」
「ルカはどうだか分からないわ、何せ、あなたみたいに面白い人は初めてだから」
アニーははっきり言ったあと、言い方がおかしかったかもと肩をすくめて舌を出した。ルカはちょっと笑った。いい具合に、緊張がほぐれた。
「でも私たちは簡単につまみ出されるの。振られた役割と違う振舞いをしたら、この箱庭の外に……外に行った仲間がどうしているかも分からない、たぶんとても怖い目に遭っているんだよ」
「ねえ、あなたたちは誰なの? 人間じゃないような気がするのだけど」
アニーとグレゴリーおじさんは顔を見合わせた。いつの間にか、空き地の周りにいた数人も見物にやってきている。頷き合ってから、アニーが口を開いた。
「あなたにだから教えるよ。私たちは、妖精なの。みんな同じ村に住んでいた、妖精の仲間たちなの」
*
ルカは少しの間何も言えず、ただまじまじとアニーやグレゴリーおじさんを見返した。それから、あまり無遠慮に見過ぎたのではないかと恥じ、居住まいを正した。
「妖精って、もっと小さいものだと思っていたわ」
「本当は小さいよ。でも、ここはそういう箱庭なの。あなただって、本当は違う姿なのでしょう」
言われてみればそれはそうだ。ルカは自分の、栗色の髪の少女である容姿を見下ろした。
「みんな妖精なの? ここにはたくさんの人がいるように思うわ、全員と会ったわけではないでしょうけど」
「だいたいみんな妖精だよ。中には、人間や魔物も混じっているけど」
妖精、魔物。それらはみな、強すぎる魔法に当てられて、偶発的に知性を得た存在たちの呼び名である。
元が何であったかで、人間が呼び変えて区別している。地水火風の自然現象が元ならば精霊、植物や昆虫が元ならば妖精、動物が元ならば魔物。乱暴な区別だが、それぞれの特徴をざっくり述べるには便利である。
例えば、人間に通じる知性を得たとて、寿命は元の姿に影響を受ける。昆虫が元になった妖精は、どんなに長くても元の数倍、せいぜい数年が寿命になる。
「あのオウムは魔物ってこと? 魔法使いの使い魔なのかしら」
「そうだよ、あの緑のオウムは、この箱庭を作った魔法使いの使い魔なの。私たちを監視してるんだ」
「黄色いオウムも?」
何のことかと首を傾げるアニーを見て、ルカはこの話題を一旦飲み込んだ。陽気なオウムのマイクさまにも主人がいるということだから、何か仕事をしているんだろう──たぶん何か嫌な仕事を!
「猫は? あのトーマスの、灰色猫のカルロ」
「あれはトーマスの使い魔だよ」
ルカは愛らしい目を大きくした。トーマスも魔法使いだということか。
「トーマスは人間だよ、ルカと同じ……空いていたら代わりばんこで色々な人が来るけど、最近は独り占めしている貴族がいるみたい。カルロは今のトーマスの使い魔! 一体どうして、新しく使い魔を持ち込んだりするのかしら」
自分の肩を抱くようにしながら、アニーは辟易した顔で身震いした。考えてみれば、正体が昆虫である妖精にとって、猫の使い魔はあまり近寄りたくないものかもしれない。
「トーマスをやりに来る人だって、目的はルカと同じだよ、『水の都のルカ』のロールプレイをしたいだけ。ただ、いつものルカはトーマスのことは本当のヒーローだと思っているんだ。トーマスは、自分にときめくどこかのお嬢様を見て、悦に入ってるか馬鹿にしてるか、とにかくそういう悪趣味な楽しみ方をしてるってわけ!」
ルカはなるほどと納得した。トーマスがとても素敵に見えるのは、そのように意図して振舞っているからなのだ。ときめきかけた自分にこっそり腹を立てながら、ルカは顎に手を当てる。
「……じゃあ、ルカの本棚に『水の都のルカ』があったのも、どうぞ思う存分楽しんでねってことなのかしら。世界観を確認するために……」
だんだん気味が悪くなってきて、ルカは半目になって言った。同じような半目になりながら、アニーも肩をすくめて頷いた。
「そうだよ。噂によると、『水の都のルカ』の作者が、続きが書けなくてスランプなんだって。そこで王妃様か誰かが、箱庭を作って妖精たちにでも脇役をさせて、そこからアイデアをもらえばいいじゃない、とか何とか言ったみたい。貴族のお嬢様たちからしたら、憧れの小説の舞台で遊べて、ひょっとしたら自分の恋が二巻の筋書きを作るかも……みたいな、都合のいい遊び場なんだって!」
何となく養母の顔が思い出されて、ルカは深く大きくため息をついた。そもそも貴族からすれば、庶民の生活なんてどうでもよく、まして妖精など、思いやるべき存在だという発想もないのだろう。
「元の住処はどうなったの? アニーたちみんな、同じ村から来たんでしょう」
「……村がどうなっているかは分からない。たぶん廃墟よ、荒れ放題だと思う。もう半年もここにいるんだよ、私たち」
ルカは言葉を失った。妖精の半年は、たぶん、人間の寿命で考えれば10年以上の年月だ。
「帰れないの? みんなの村に……」
アニーの手に手を重ね、ルカは震える声で尋ねた。アニーはうつむいて首を振る。
「この箱庭を自由に出入りできるのは、通行証になる魔石を持っている人間だけ。私たちが外に出るには、転移魔法でも使わない限り、無理だよ」
転移魔法。
それは延命魔法と並んで、最も難易度が高いとされる魔法のひとつだ。ルカがついさっき読み切った入門の教科書には、最後に名前が出てくるに過ぎない。この国でも使える人間は一握りで、余程のことがないと使われない。か弱い妖精たちに使えるはずもない。
「でもルカは……あなたは、どうやってここに来たの?」
アニーに尋ねられ、ルカは顔をしかめた。思い出したくもないが、今なら、あの舞踏会の夜に何が起きていたのか理解できる。くすんだ金髪の魔法使いが、杖を掲げて声高に呪文を叫んでいた、その光景がよみがえる。
「たぶん、転移魔法で飛ばされたんだわ……魔法使いがそれらしい呪文を唱えていたもの」
「どうして? どうして飛ばされちゃったの」
「王宮で、私、ちょっと暴れちゃって」
そう言葉にした拍子に、ルカの頬を涙が一筋流れていった。アニーははっとして、ルカをぎゅっと抱き締めた。
「ごめんねルカ、嫌なことは思い出さなくていいよ。でもそうか、だから通行証を持っていないのね。……だったらあなたも同じよ、私たちと同じ。二度と外には出られない」
アニーを抱き締め返して、ルカはぎゅっと目を閉じた。
楽しい夢なんかではなかった。どんなに居心地が良くたって、二度と出られないなら、それはもう牢獄だ。
「……作者の意図から外れることをしたら、つまみ出されるということだけど。何か決まった筋書きでもあるの?」
どこかに脱出の糸口はないものかと、ルカはアニーに尋ねる。口を開いたのは、ずっとそばで優しく見守っていたグレゴリーおじさんだった。
「基本的には、それぞれが演じるべき性格だけが決まっているんだが……君には伝えてもいいだろうね。もうじき、怪盗が暴れるというイベントがあるんだよ」
「怪盗?」
平和な世界観にあまりそぐわないような言葉を聞いて、ルカは怪訝な顔をした。グレゴリーおじさんは頷いてから、やれやれとため息をついた。
「市庁舎で仮装パーティをするんだ。その時に、怪盗がルカの大事なものを狙って、挑戦状を出すらしい」
「そんなこと、分かっているならいくらでも防げるじゃない」
「いいや、逆なんだ。自分たちで考えないといけないんだ。怪盗が何を狙って、どうやってそれを防ぐのか。怪盗役も決まっているんだ、やんちゃで単純なジャックなんだが」
家々の屋根の上を元気に走り回っていたジャックの姿を思い出し、ルカは思わずぷっと吹き出した。怪盗というイメージからはあまりにかけ離れている。
「どうにしろ、転移魔法でも使わないと、ここからは出られないのは確かだ。そもそもこの箱庭だって、いつまでもつのか分からない。この箱庭がおしまいになったら、私たちだって、いよいよおしまいだ」
グレゴリーおじさんはそう言って、諦めたような顔をした。
空間魔法は便利なものだ。例えばスーツケースを縮めて、別のスーツケースの中に入れるようなこともできる。古くから住居や倉庫や輸送に使われてきた魔法だが、できが悪いと急に破裂する──スーツケースに入れたスーツケースで言えば、勢いよく元の大きさに戻って、外側を粉々に破壊してしまう。
この『水の都』のような大きな空間魔法が王都のどこに配置されているのか分からないが、不用意に破裂すれば、市街地が丸々吹っ飛んでしまうくらいの威力は持つだろう。その時に、中にいる人たちがどういう目に遭うのかなんて、想像するだに恐ろしい。
「転移魔法……転移魔法を使えばいいのね」
しばらくぐるぐると考えていたルカは、ふと顔を上げて言った。アニーと目が合って、そばかすの浮いたその顔がきょとんとするのを見る。
「ルカ、まさか転移魔法も使えるの?」
「まさか、できないよ。でも勉強して、練習してみたい。それしか手段がないのでしょう」
妖精たちは黙って顔を見合わせた。女がこんなことを言うのはさぞおかしいだろうな、とルカは唇をかんだ。
グレゴリーおじさんが立ち上がる。木立の隙間から広場を出て、少しして、一冊の本を手に戻ってきた。古びた分厚いその本を、ルカにそっと手渡した。
「村の近くに住む魔法使いが、私たちに貸してくれていた本だ。ここに連れ去られる時に、偶然一緒に持ってくることができた。転移魔法についても、書いてあるかもしれない」
グレゴリーおじさんは真剣な目でルカを見つめた。ルカは唾を飲んで頷いて、どきどきしながら、分厚い本の表紙をめくった。タイトルページの余白に書かれた名前に、思わず、あっと声を上げた。
そこにはケヴィン・シモンズと書いてあった。──実家にいた頃にお世話になった、魔法の師匠の名であった。
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