第5話 私は魔法使い

 虹色の鱗を干した後は、ルカは魔法の教科書の続きを読んで過ごした。

 それは本当の教科書だった。ルカは夢中で読んだ。これが夢だとして、教科書が出てくるというのは理解できる。ラザフォードの屋敷で、決して触らせてもらえなかったものの一つだからだ。


 実家にいた頃は、近くの森で隠居している魔法使いの先生のところに通い、色々と魔法を教えてもらったものだった。その時に、この教科書も最初の数章だけは読ませてもらった。ただし実技を試す時間はほとんどなく、養子に出てからは教科書の続きを読むことも、先生に会うことも許されなくなった。


 熱心に教科書を読むルカを、カルロはずっとそばで見ていた。膝の上に丸まったり、棚の上にひょいと飛び乗って、ルカが見ているページを眺めたりしながら。


 あっという間に夕方になり、慌てて水路の明かりを灯しにいく。少しずつ道順も覚えてきたので、最初よりは随分スムーズに回れるようになった。下宿に戻ったところで、食堂で紅茶を飲んでいたアニーがうきうき声をかけてきた。


「ねえルカ、一緒に銭湯に行かない?」


 ルカは大きな目でぱちぱちと瞬きした。銭湯?


 アニーに連れられ、公衆浴場に向かう。確かにこの長い夢が始まってから一度も入浴しておらず、夢ならそのあたりうまいこと処理してくれればいいものだが、さすがに気持ち悪くなってきていた。


「私も毎日来たいくらいだけど、混むから二、三日に一度にしているの」


 公衆浴場の脱衣所で入浴用の肌着に着替えながら、アニーはにこにことそう言った。ここでもルカは不思議に思う。『水の都のルカ』には公衆浴場など一度も出てこなかったし、そもそもが王都人にはあまり発想がない施設だ。


 広く取られた入浴場は、いかにも古典的な西都風のものだった。中央に石材で囲まれた大きなバスタブがあり、ここは女湯なので、少女から老婆まで十数名ほどが悠々と湯に浸かっている。バスタブの四隅には古風な柱が立っていて、ガラスの天窓から見える宵の空と相まってエスニックな雰囲気を醸している。

 壁際には洗い場がずらりと並ぶ。ルカはアニーと並んで体を洗い、それからゆっくり湯に浸かった。侍女が手動で満たす湯桶も悪くはなかったが、広々とした湯舟は全く違う気持ち良さがあった。王都ではまずあり得ない経験だ。


「気持ちいいね~」


 アニーが実に幸せそうに言うので、ルカもうっとりして頷いた。裸に近い格好で他人と同席するのは思い切りが必要だが、それを帳消しにするくらい、気分が良い。


 そしてはたと気づく。当たり前のようだが、淡水だ。虹色の魚の件といい、周りの海は本当に海なのだろうか。明日あたり、海水の味を確かめてやろう。


 さっぱりしていい気分で自室に帰ると、例の灰色猫はルカのベッドで丸まっていた。ルカをちらりとだけ見て、興味なさそうにすぐ目を逸らす。いかにも猫らしい振舞いと言えばそうなのだが。


「カルロ、私はあなたが好きなところに出かけて行ったって、全然構いやしないのよ」


 荷物を置いて質素な木の椅子に座りながら、ルカは素っ気なく話しかけた。カルロはそのふさふさの尻尾を一度揺らしたが、その他はちっとも身動きをしなかった。ルカもそれ以上何も言わず、本棚から魔法の教科書を取り出して続きを読み始めた。


 多少は読んだことがあるといっても、改めてちゃんと読めば分かっていないことばかりだ。風を起こす魔法、水を動かす魔法、土や植物を動かす魔法ときて、火を起こす魔法のところまで読み返したところで、眠気に勝てずに本を閉じた。棚に戻してベッドに横になる。カルロはベッドの隅にいて、ルカが寝息を立て始めるのを見て、ゆらりと再び尻尾を揺らした。


 次の朝も目は覚める。日の出に前後して持ち場の水路をすっかり回って明かりを消して、自室に戻って教科書の続きを読む。最後のページまで目を通して、感無量で本を閉じた時、ようやくノックの音に気付く。


「ルカ、お昼ご飯食べた? もう昼過ぎだよ」


 ドアノブを押し開けたままの格好で、アニーがそう言って目をぱちくりした。そういえばお腹が減っている。一緒に食堂に降りながら、アニーは、どこか夢見心地なルカに話しかける。


「ルカ、どうしたの? 何を読んでたの」

「教科書をね……ずっと読みたかったの」


 ルカが嬉しそうに微笑むのを、アニーは小首を傾げて見返した。アンジェラおばさんが用意してくれたサンドイッチを二人して頬張り、アニーに誘われるままに散歩に出かける。


「ねえ、教科書って何の教科書?」

「魔法の教科書よ」

「ルカって明かりをつける以外の魔法も使えるの?」

「全然上手じゃないけれど。勉強したくても、できなくて」


 一昨日トーマスと出会った公園で、ルカは地面に転がる小石を蹴りながら言った。貴族の窮屈な生活を思い出し、それを蹴っ飛ばしているような気分だった。


「勉強なんて、私は全然したくならないなあ。ルカってすごい!」


 ひらひら飛ぶ蝶を目で追いかけながらアニーは笑った。ルカも一緒に笑って、それからぽつぽつと喋り始めた。どうせ夢の中ならば、誰に何を言ったって別に構いはしないだろう。


「女は勉強なんてしなくていいんだって。本も、魔法も、剣術も、全部男の人たちが独り占めしてるのよ。学校に行かせてもらえていたら、私だって今頃、立派な魔法使いになれていたかもしれないのになあ」


 ルカは空を見上げた。五月の空は爽やかだ。アニーがベンチに腰かけて、じっとルカを見つめている。


「ルカは魔法使いになりたいの?」

「魔法使いになりたいよ」

「お姫様じゃなくて?」

「……お姫様でも良かったんだよ。わがまま言って、勉強させてもらえるならね」


 そのために、そのためだけに、貴族の養子になるなんて無理を通させてもらったのに。


 ルカは黙った。顔をしかめて、握った拳を振りかぶって、中空に何かを投げる動作をした。ボールを持っていたら通ったであろう軌道の周りを、風が渦を巻いてついていく。

 目を丸くするアニーの前で、ルカは地面にかかとで円を描いた。正確に二重に円を描き、その中に、教科書で見た六芒星と古語を描く。かかとでは細かい文字が書けなくて、石ころを拾って続きを書く。出来上がった魔法陣に手をかざし、


「クラタ・マス……」


 我ながら綺麗な発音で呪文を唱えると、魔法陣から勢いよく土がせり上がってきた。大きな傘のようなきのこのような構造物が完成したところで、ルカはかざした手を引いた。すかすかの骨格のように構造物をなしていた土が、それでどしゃっと地面に落ちた。


「あはは、下手くそ」


 笑って振り向くルカの手を、ベンチから飛び上がったアニーがぎゅっと両手でつかんだ。大きな目をきらきらとさせて、


「すごい! ルカ、すごいじゃん!」

「全然すごくないよ」

「すごいよ! ねえ、もっと色々見せてよ」


 今までで一番興奮しているアニーの様子に気を良くして、ルカは近くの水路に歩いていって、水面を指でなぞって魔法陣を描いた。呪文を唱えれば水面から水の柱が立ち上がり、はるか頭上で噴水のように砕ける。ルカもアニーもしぶきに濡れて、驚いて悲鳴を上げたあと、二人して顔を見合わせて笑った。


 気合いを入れて手のひらを見つめると、今度は小さな火の球が浮かんだ。空中に放り投げれば、それはくるくると二人の周りを飛び回った。アニーがルカにしがみついて火の球の動きを目で追うので、ルカは笑って手を振り下ろし、火の球を消した。


「ルカ、あなた何者なの? こんなに魔法が上手だなんて!」

「もっと上手にできるはずだよ、練習すれば……」


 ルカはもう一度地面に魔法陣を描き、高らかに呪文を唱えた。魔法陣の周りから、今度はにゅるにゅるとつるが伸び、アーチを作って花を咲かせた。即席の花のトンネルを大はしゃぎで通り抜け、アニーは、突然短く悲鳴を上げた。


「ルカ! ルカ、戻して、早く消して」


 アニーの切羽詰まった声に困惑しながら、ルカは急いで花のトンネルを消した。縋りついてくるアニーの目線の先には、オウムがばたばたと飛んでいる。ルカは目を細めて、じっと観察した。緑の体に赤いとさか──あれは、陽気なマイクではない、別のオウムである。


 オウムは二人をじっと見ていたかと思うと、ふいにばたばたと飛び去った。その姿がすっかり見えなくなったのを見届け、ルカは、震えるアニーの肩を抱き寄せた。


「どうしよう、見られちゃった……こんなルカ初めてだから……嫌よ、あなたがいなくなるなんて嫌」

「アニー、落ち着いて。どういうこと?」


 とりあえず近くのベンチに座り、アニーの背をさすってなだめる。胸にぎゅっと手を当てて怯えた表情をしていたアニーは、しばらく経って落ち着いて、意を決したようにルカを見つめ返した。


「ルカ、私についてきて。いつもの通りに振舞って。オウムがいたらこっそり教えて」


 今までとは違うアニーの様子に、ルカは黙って頷いた。

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