第4話 灰色猫のカルロ

 アンジェラおばさんの下宿の向かい、広場を臨む角地にあるトーマスのお屋敷の前で、ルカは迷った挙句に普通に呼び鈴を鳴らした。

 王都でこういう邸宅にお邪魔する時は、こうすれば使用人が取り次いでくれるものである。といっても自分から進んで社交をした経験がルカにはほぼないわけで、養父や養母がやっていたものを見よう見まねだ。


 少しの間があって、立派な玄関が開いた。ちゃんとメイドが顔を出したので、ルカはほっとして、招かれるままにお屋敷の中に入った。


 そこは小さな街の市街地にある邸宅らしいサイズ感の、つまりはこぢんまりとしたお屋敷だった。サイズ感に反して調度品はかなり凝っていて、ラザフォードの家や、たまに訪れた婚約者(だった)ノエル・イーグルトンの家と引けを取らないほどだった。


 一階の奥のサロンにトーマスはいた。落ち着いたワインレッドの絨毯が印象的なサロンだ。ソファにゆったり座るトーマスは、少年なのに主人らしい風格があった。


「ルカ、来てくれてありがとう。昨日は楽しかったね」


 トーマスは少年らしく微笑んだ。勧められるままにはす向かいのソファに腰かけながら、ルカは薄く微笑み返し、トーマスの紫色の目をじっと見た。メイドが黙って紅茶を運んできて、それぞれのソファのサイドテーブルに置いて去った。


「来てもらったのは、お願いがあって……猫を預かってほしいんだ」


 トーマスがそう言うと、隣の部屋から、尻尾を立てた猫がするりとサロンに入ってきた。灰色の長毛が美しいその猫は、金色の目でじっとルカを見つめた。その目に一瞬の違和感を感じたものの、ルカは大人の対応で猫に微笑みかけてから、説明を求めるようにトーマスに向き直った。


「伯母さんと一緒に何日か家を空けるから、アンジェラおばさんのところで面倒を見ていてほしいんだ。カルロ、ルカに懐いてるでしょ」


 カルロというのがこの灰色猫の名前らしい。──読み返したばかりだから分かる、小説には出て来なかった猫だ。懐いてるなんてとんでもない、初対面だ。


 カルロはにゃあと人懐っこく鳴いて、ルカの足元にすり寄ってきた。ふわふわの長毛が心地良くて、考え事をしていたルカも思わず笑顔になる。


「ご飯はどうしたらいいの?」

「何でも食べるから大丈夫だよ。アンジェラおばさんにお願いしてみて」

「トーマスはいつ帰って来るの」

「たぶん次の日曜には」


 次の日曜。そういえば、今日は何曜日なのだろう。思慮深く瞬いてから、ルカは静かに尋ねた。


「今日って何日だっけ」


 トーマスは一瞬、優しげなその眉をぴくりと動かした。それから何でもないように答えた。


「五月の十二日だよ」


 ルカは微笑んで、そうだった、と呟くように返した。

 辻褄が合う。あの舞踏会が催されたのは、五月の十日の金曜日の夜だった。つまり今日は日曜日で、トーマスはまた、次の日曜日にここに戻るというのである。


 かまをかけてやろうかと思って、ルカは思い留まった。

 どうやら、ただの夢にしては込み入っている。色々なことに少しずつ違和感があるが、真実には今一つ近づけない感じがする。


 ──面白くなってきた。

 ラザフォードの家ではありえなかった謎解きだ!


「分かったわ、カルロを預かるわ。カルロ、しばらくよろしくね」


 ルカはできるだけ少女らしく微笑んでみせて、足元にすり寄るカルロの背中を優しく撫でた。猫の金色の目がまたじっとルカを見つめ、それからふいと、ついてこいとでも言うように部屋の入口の方に向かった。


 慌てて立ってカルロを追いかけながら、ルカはトーマスを振り返り、じゃあまた、と微笑んで会釈した。


 ──残されたトーマスは、ソファの肘掛けで頬杖をついた。紫色の目を細めて、面白くなさそうに、ふん、と鼻を鳴らして立ち上がる。二階に上がり、書斎に入り、部屋の隅を丸く仕切る黒いカーテンをざっと開け、中に入って目を閉じる。


 *


 トーマスのお屋敷を出たカルロは、まっすぐアンジェラおばさんの下宿に向かった。勝手知ったる様子で食堂に姿を現したカルロに、アンジェラおばさんがまあ、と歓声を上げる。


「もしかしてお願いっていうのは、猫ちゃんを預かってほしいってことだったのかい?」

「そういうことだったみたい。アンジェラおばさん、ご飯とかトイレとか、どうしたらいいのかしら」


 小走りについてきたルカは、アンジェラおばさんの足元でカルロが止まったのを見てほっとした。甘え上手な猫だ。彼は金色のくりくりとした目でアンジェラおばさんを見上げ、心得ているとでもいうようににゃあと鳴いた。


「ああ……カルロは賢いから、何とでもなるよ。そうだ、ちょうど魚を切らしていてねえ。市場に行って、カルロに良さそうな適当な魚を買ってきてくれないかい? ほら、駄賃だよ」


 アンジェラおばさんは嬉しそうにカルロを撫で回してから、エプロンのポケットから5ペタロ硬貨を取り出してルカに渡した。ペタロ──『水の都のルカ』では金銭のやり取りは出て来なかったが、紛れもなく、ペタロは王都の通貨である。


「カルロは留守番だよ! さあ、ルカ、行っておいで」


 アンジェラおばさんに促され、ルカは下宿を出た。船着き場と反対側の方向に歩いていけば、ほどなくして市場に出る。

 街の規模から考えると、なかなかの広さの市場である。通路を挟んで両側に簡素な出店がずらりと並び、そういう列が何列もある。


 ついでなので、ルカはあちこちの店を覗いてみることにした。当然だがラザフォード家時代にはこういう場所に顔を出す機会はなかった。しかし実家にいた頃には、市場なんて飽きるほど通ったものだ。


 野菜や果物やパンや加工肉に混じって、手工芸品や布、衣類を売っている店もある。刃物や何かを扱っている店があり、あ、という声に顔を上げる。店番をしていたのはマーティンと、髭の立派なたくましいおじさんだった。


「こんにちは、マーティン……それから、グレゴリーおじさん」

「ようルカ、市場で会うなんて珍しいねえ!」


 大きな鼻としっかりした眉、グレゴリーおじさんは一度見たら忘れないような容貌だ。少年にしては背が高いマーティンも、グレゴリーおじさんと並ぶとひょろひょろに見えて面白い。


「魚を買ってくるように言われたの。トーマスの猫を預かることになったから」

「トーマスの猫?」


 マーティンが眉根を寄せて怪訝そうな顔をし、すぐに納得したように微笑んだ。ルカはにこりとして、


「そう、旅行か何かに行く間預かってほしいんですって」

「ああ……ルカは猫好きだもんなあ」

「それほどでもないんだけどね。魚を売っている店ってこの辺にある?」


 ルカは肩をすくめて尋ねた。マーティンがまた一瞬、意外そうな顔をしたのを、ルカは冷静に確認した。


「魚ならこの通路をあっちに行った方に嫌というほどあるよ。最近よく釣れるらしくて」

「ありがとう。あら、釣り針も売っているのね」


 グレゴリーおじさんの出店の商品を眺めながら、ルカは大小色々な釣り針を指差した。どこからか葉巻のようなものを取り出していたグレゴリーおじさんがにかっと笑い、


「ああ、あんまり売れないけどな! 趣味みたいなものだよ」

「おじさん、市場で葉巻は駄目だって10分前にも言ったじゃないか」

「ありゃ、ばれたか」


 仲良さげな二人にじゃあまたと手を振り、ルカは魚があると噂の方面へ向かった。少し歩けばすぐに魚の匂いがしてきて、たくさんの魚が並ぶいくつかの店があるのが見えてきた。


 調理されていない魚を見るのは久しぶりだ。詳しい種類は分からないが、見慣れた魚が多い気もする。ふと、一際目を引く虹色の鱗の魚が数匹売られているのに気づく。


「こんにちは、この魚はどこで獲れたの?」


 髭面に帽子の店員に、ルカは思い切って話しかけた。店員の男はルカを見て一瞬ぎょっとし、ルカが指差す虹色の魚を見て、ああ、とぼそぼそ返事をした。


「そんなの、このあたりで獲れたに決まっているよ。買ってくれるのかい、お嬢ちゃん」

「この魚って美味しいんだったかしら、猫が喜んで食べてくれるくらいに」

「猫なんてだいたいどんな魚でも食べるだろ。こいつはちょっと臭みがあるから、干すか、香草焼きにした方が人間には美味しいよ」

「じゃあこれを買うわ、ありったけ」

「ありったけ? いいけど……」


 男は大きな目をせわしなく瞬かせ、硬貨と交換に、店先に並べていた虹色の鱗の魚を五匹ほど全て籠に入れて渡した。ありがとうと礼を言い、ルカは気分よく市場を出た。


 下宿に戻ると、いつものダイニングの肘掛け椅子で、アンジェラおばさんがカルロを膝に乗せて読書をしていた。帰ってきたルカに気づいて立ち上がり、籠の中の魚たちを見て笑った。


「たくさん買ってきたねえ! お金は足りたのかい?」

「ちょうどだったわ、使いすぎちゃったかしら」

「はは、大丈夫だよ。さて、さっさと捌いてしまおうかねえ」

「あ、アンジェラおばさん」


 早速魚をキッチンに持っていくアンジェラおばさんに、ルカは慌てて駆け寄った。魚の虹色の鱗を見ながら、


「その鱗、もらってもいい……? ええと、きらきらして綺麗だから、取っておきたくて」


 遠慮がちに尋ねた。アンジェラおばさんはきょとんとしてから、優しい笑顔で頷いた。


「ああいいよ、もちろん!」

「ありがとう!」


 アンジェラおばさんがてきぱき捌いた魚の鱗を、ルカは借りたたわしで丁寧に洗った。鱗はルカの親指と人差し指で作った輪ほどの大きさで、光に透かすと虹色がいっそう綺麗に見えた。

 キリと紐も借りてきて、鱗の一枚一枚に丁寧に穴を開け、紐を通した。そうして鱗の暖簾のようなものを作り、うきうきと自室に持って行って、窓辺にカーテンのように設置した。


 椅子に座り、虹色の鱗のカーテンが風に揺れるのをにこにこと眺める。早速魚にありついて腹を満たしたらしいカルロがするりとそばに寄ってきて、嬉しそうなルカをじっと見上げる。


「カルロ、知ってるかしら。このお魚はフォシュトケリっていうのよ。いいおもちゃだわ」


 ルカはカルロの頭を撫でてにんまりした。

 フォシュトケリ、それは王都人にも馴染み深い魚の名だ。鱗が魔法の材料にもなる、食べても悪くない──淡水魚である。

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