第3話 オウムのマイクと海の端

 朝回ったのと同じ水路を、今度は明かりを灯して回る。最初の街灯に手をかざし、明かりを灯す魔法を唱え、きちんと灯った淡い明かりを見てほっとする。


 それにしても一体誰が、明かりを灯して回るという仕事を、こんな少女にやらせようと考えるのだろうか。王都の治安ではまず無理だ、一日か二日で人さらいに遭ってしまうだろう。けれどここは物語の中で、そういう治安の悪さには全くもって出会わない。


 元の船着き場に戻る頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。家々から漏れる明かりが水路の暗い水面にも映り込み、談笑の声が遠く聞こえる。


 ルカは肩を落として、船着き場を小舟で通り過ぎた。

 持ち場のルートを外れ、港の方に向かう。漁にでも出ていたであろう船の群れも今は岸に繋がれて、時折かもめの空しい声が響くばかりだ。


 波の音に誘われるように、吸い込まれるように、沖の方へと漕ぎ出す。

 少女の力で漕ぐ小舟は、波に弄ばれて簡単には進まない。それでも少しずつ街から離れ、ふと手を止めて振り返る。街はまるで、暗く寂しい海に浮かんだ一個の大きなランプのようだった。


 どうしてこんな夢を見るのだろう。

 友達と楽しくはしゃぐ青春も、素敵な少年との絵にかいたような恋も、望んでいなかったといえば嘘になる。だがそれよりもっと、自分には大切なものがあったはずだ。死んでなお見せられる幻想が、よりによってこれだなんて。


 そう、自分は死んだはずなのだ、王宮の舞踏会の夜、自分で放った氷の槍に貫かれて。


 暖かい明かりを囲んだ団欒も、婚約者との美しい恋も、何もかも、自分にはもう望むべくもないと突きつけられたはずなのだ。


 オールを持ち直し、街の明かりに再び背を向け、暗い海をずんずん進む。

 夢の中でもう一度死んだら、今度こそちゃんと死ねるだろう。天国か地獄かならばきっと自分が行くのは地獄なのだろうが、それだって、叶わないものを見せつけられる夢よりもずっとましだ。

 街の明かりが遠くなる。月明かりを頼りに小舟を進める。


 ふいに、視界がちらつく。瞬きして目を凝らす。

 見間違いだろうか?

 少し先の正面に、光を淡く反射する、何か壁のようなものが──


「お嬢さん! お嬢さん! そっちに行ってはいけないよ!」


 けたたましい声が空から突然降ってきて、ルカは心臓が飛び出るかというくらい驚いた。夜空を見上げれば、黄色い何かがぱたぱたと必死に近づいてくる。


「お嬢さん! お嬢さん! ほら、悪いことは言わないからさ!」


 ルカの小舟の先っちょに留まってようやく、ルカには、そいつがオウムだということがわかった。黄色い体に、尾と頭にだけ美しい水色の羽根。オウムはばたばたと翼を振り回しながら、この静かな夜に不似合いな甲高い声で話しかける。


「そっちに行ったっていいことないよ! 知ってるだろ、海の端ってやつは恐ろしい高さの滝になっていて、飲み込まれたが最後、奈落の底まで真っ逆さまだ! お嬢さんにおいらみたいな羽でもあるなら話は別だけどさ!」

「……あなたは一体誰?」

「おいらはマイク、陽気なオウムのマイクさまさ!」


 ルカは首を傾げて、マイクと名乗ったお喋りなオウムをじっと見つめた。


「海の端なんて見たことあるの?」

「見たことないよ、でもご主人様にそう言えって言われてるんだ!」


 ご主人様? ルカは目を細めた。こんなに喋るオウムなんて見たことはないが、そういえば魔法使いの使い魔にはよくある動物だとは聞いたことがある。


「心配ご無用よ、こんな小さなボートでは海の端になんて行けないわ。それこそ私に、あなたみたいな立派な羽があるなら話は別だけど」

「え、おいらの羽が立派だって?」

「ええ、立派な羽じゃない! オウムはこれまで何十羽も見たけれど、あなたみたいに素敵な羽の子には会ったことがないわ」


 なんとなくはったりで適当な誉め言葉を口にしてみると、陽気なオウムのマイクさまは得意げに飛び上がり、空中で一回転してまた小舟に留まった。


「お嬢さん、見る目があるねえ!」


 マイクの声はとても嬉しそうだった。気を良くして、ルカはできるだけ可愛らしく微笑んでみせた。


「あなたみたいに立派なオウムなら、私が本当に海の端っこまで行ってしまっても、ひょいと助け出してくれるのでしょうね。そういうわけで、もうちょっと行ってみるわ」

「そりゃそうだよ、おいらが本気を出したらお嬢ちゃんを引っ張り上げるくらいどうってことないんだ! この前だってご主人様を……ってちょっと待って!」


 ルカがしれっと小舟を進めるので、マイクは慌てたようにばたばたと羽ばたいた。ルカは手のひらに明かりを灯して掲げた。やはり見間違いではなくて、まだもう少し遠くの方に、薄いガラスの壁のようなものが見えた。


「だめだめ、とにかく戻りなよ! 悪いこと言わないからさ、ちょっと固いかもしれないけど、ベッドでゆっくり寝た方がお肌のためにもいいよ! ほらっ」


 そうけたたましく言って、オウムのマイクは飛び上がり、ルカの小舟の周りをぐるぐると目まぐるしく回った。あまり勢いがいいので、ルカは慌てて目元を覆った。途端、ぐらりと揺れる気配がして、気がつくとなんとルカの部屋のベッドの上にいた。


 思わず勢いよく立ち上がり、窓辺に駆け寄って外を見渡した。小舟もなく、オウムもいない。空には月が輝いている。瞬きし、目をこすり、頬をはたいてみても、何も変わらない。

 ルカは諦めてベッドに横になった。夢とはこういうものだ、たいがい、わけが分からないものだ。一日歩き回って疲れはたまっていたようで、案外すんなり眠りに落ちた。


 眠ってしまったらもう二度と覚めないのではないかという恐怖もあったが、眩しさにちゃんと目が覚めた。日の出前の光が窓の外に満ちている。窓辺から見渡すと、街はまだ目を覚ます前のようだ。

 着替えて部屋を出ると、食堂ではすでにアンジェラおばさんが仕事をしている。ルカの姿に気がついて、彼女は実に人の良さそうな笑顔を浮かべた。


「おはようルカ、今日は随分早起きだね」

「おはよう……アンジェラおばさん」

「朝ごはんにするかい? 今朝は大したものじゃないけど」


 出されたパンとチーズとトマトをありがたく食べ、ルカは早速出かけていった。小舟は元の船着き場に何事もなかったように泊まっていた。昨夜のオウムとの出会いは夢だったのか? いやそもそも、寝て覚めても続く長い夢を見ているというのだろうか?


 小舟に乗り込み、自分の持ち場の水路の明かりを消して回る。明かりをつけて消すだけなんて、たぶん、魔法を使う中では世界一簡単な仕事だ。それでも、自分の魔法が何かの役に立っていると思うと気分は良かった。

 そうだ、ここでは少なくとも、誰かの役に立つことができる。


 早々に持ち場の明かりを灯し終え、ルカは元の船着き場に小舟を戻した。アンジェラおばさんの下宿に戻ると、ちょうどマーティンが出てくるところだった。ルカがいくぶん元気な顔になっているのを見て、彼は爽やかな微笑みを浮かべた。


「ルカおかえり、もう朝の仕事が終わったのかい」

「ええ、今日は早起きできたから。マーティンは出かけるところ?」

「そうさ、今日は市場に店を出す日だからって、グレゴリーおじさんが」

「そう、頑張ってね。行ってらっしゃい」


 笑顔で見送り、玄関すぐの食堂に顔を出す。ジャックとアニーが並んで朝食を食べていて、ルカの姿を見て笑顔になった。


「ルカおかえり!」

「ただいま」


 ルカが微笑んで挨拶を返すので、ジャックとアニーは顔を見合わせた。ルカはすたすたと自室に戻り、やろうと思っていた家探しを始める。


 ルカの部屋は質素だった。ドアの近くに姿見、その隣に小さなクローゼットがあって、衣服といえばそこに収まるものだけだ。クローゼットの隣にはこれまた小さな本棚と机。反対側の壁に、窓に沿うように簡素なベッドが置いてある。

 本棚にあるのはこの街の地図や、簡単な薬草の本や魔法の教科書、それにいくつかの小説や図版や家政本や刺繍の図案集などだった。そして、全てが王都語だ。全体としてまるで王都の貴族女性の本棚のようで、そこに申し訳程度に魔法関連の本が足されているという具合である。


 やっぱりおかしい。『水の都のルカ』で、ルカは刺繍などしていなかったはずである。

 これは夢だと思えばそれまでなのだが、どうにも居心地の悪い違和感がある。続けて本棚を見ていて、ふと、一冊だけ革のブックカバーがかけられた本があることに気がついた。手に取って開いてみて、ルカは目を大きくした。


 その本は他でもない、『水の都のルカ』の第一巻だった。


 *


 その少女小説をもう一度通読するのに、大して時間はかからなかった。


 ルカは本を閉じて椅子の背にもたれ、ため息をついた。だいたいの登場人物と舞台の雰囲気は確認できた。合っている、ほぼ合っている。ここはほぼ間違いなく、『水の都のルカ』の世界だ。


 しかし、物語の世界の中に、その本そのものが置いてあるなんてことがあるだろうか。今起きていることが、どうやら第一巻よりは進んだ時間軸の出来事だからって!


 ルカは改めてルカの本棚を見て、何となく、一冊だけある魔法の教科書を手に取った。端が折ってあるページに気づき、見ればそこは一番最初の、明かりを灯して消す魔法の部分である。余白にはご丁寧に、本当の初学者に向けたようなメモ書きまである。

 ここでもルカは首を傾げた。明かりを灯して消す魔法なんて、たぶん、魔法を学ぼうとする者にとっては注釈も何も必要がないほど簡単な魔法だ。それがこのメモである──まるで、ルカの仕事をこなすための、最低限のチュートリアルのようだ。


 小腹が減っているのに気づき、とりあえず食堂に向かう。アニーもジャックも出かけているようで(小説を読み返して思い出したが、アニーは花売り、ジャックは大工の見習いだった)、肘掛け椅子で読書をしていたアンジェラおばさんが顔を上げて優しく微笑んだ。


「ああルカ、ちょうど良かった。ランチを食べたら、トーマスのところに遊びに行きなよ。なんでも、ルカにお願いごとがあるんだって」


 ルカは黙って頷いた。アンジェラおばさんが用意してくれた豆のスープとパンを食べながら、トーマスの紫色の目を──小説ではただの青と描かれていた、あの美しい目を思い出していた。

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