第2話 水の都のルカ

「ルカ、せっかくだから一緒に少し散歩しようよ! こんなに天気が良かったら、きっと時計台からの眺めも素敵だよ」


 トーマスはベンチに歩み寄ってきて、ルカに手を差し出した。素直に手を取って立ち上がり、引かれて歩き出しながら、ルカは必死にこの少年絡みのストーリーを思い出す。


 ええと、確か。トーマスは、アンジェラおばさんの下宿の向かい、広場に面した立派なお屋敷のお坊ちゃんだ。良い季節の間だけバカンスのように滞在するので、きっと遠い都の貴族なのだろうと噂されている。けれど、自分では正体を教えてくれない。

『水の都のルカ』の一巻の終わりがけに、ルカはトーマスと、どこかで運命的な出会いをしたのだ、確か。


「気持ちの良い風だね、この季節が一番好きだな」


 ルカの手を引いて気分よく歩きながら、トーマスは嬉しそうに言った。年齢はルカとそう変わらないはずだ、つまり、せいぜい14、5歳の少年だ。育ちの良さそうなふっくらした頬、ルカより少し高いすらりとした背。くりくりとした丸い目に、いかにも優しそうな眉。庶民の中に混じっていても違和感はない服装だが、仕立てが上等そうなのはぱっと見て分かる。首元には魔石のペンダントが光っていて、なんだか特殊な仕立てではある。


 まじまじと見ても、瞳の色以外は、王族方にこういう容姿の人物がいたとは思われない。

 ルカはため息をついた。どうせ夢の中なのだ、深く考えたって無駄だ。


 トーマスは慣れた様子でずんずん歩いていく。やがて二人は市庁舎前の大きな広場に出た。人通りが増えてルカはたじろぐが、トーマスは気にせずしっかりルカの手を握ったまま、広場を堂々と横切って市庁舎横の時計台に入っていった。

 時計台を上まで登ると、さすがに息が切れる。貴族のお嬢様にはダンスの練習以外で体力を使う用事なんてないのだ。展望台まであと一歩の場所で、立ち止まって息を整えるルカを、トーマスは平気な様子で微笑んで見守った。ルカが落ち着いた頃、また手を引いて展望台まで上がる。


「ほら見て、今日は一段といい眺めだね!」


 わあ、と思わずルカも歓声を上げた。

 色とりどりに思えた街は、上から見ると赤茶色の屋根の群れだ。密集した屋根の艶のある煉瓦に五月の空が映え、それらの向こうに、海がある。


 王都で暮らしていて最も縁遠いもののひとつが、海だ。

 内陸にあって、隣国とは基本的に山か大河を隔てている王都では、普通に暮らしていれば海は一生目にすることがない。自分は実家の父に連れられてあちこち旅行した時に、何度か目にしたことがあったが。


 展望台をぐるりと回れば、どちらの方向にも海があるのが分かった。街全体が島のようになっている。どこかに近くの大陸の岸が見えそうなものだが、それも見えない。


 何にしても、確かに素晴らしい眺めだ!


「元気出たみたいで良かった。ルカ、今日ちょっと落ち込んでるみたいだったから」


 展望台の壁に腕を置いてもたれ、トーマスは微笑んだ。ルカはぱちぱち瞬きし、遠慮がちにトーマスを見返した。


 思えば、男性からこんな風に素敵にエスコートされたことはない。


 こちらが素っ気なかったせいだろうが、ノエルはいつも素っ気なかった。親が決めた婚約者への義務感が、いつもありありと伝わってきた。


 改めて見ると、トーマスは、控えめに言っても素敵な少年だ。どうしても年下に思えてしまうが、美少年であるのは間違いがない。


 でも、とルカは顔をそらした。

 展望台の壁に手をついて、明るい真昼の街を見下ろして、ため息をついた。

 なんて下らない夢なんだ。

 こういう夢のような話はないと、およそ考えうる最悪の形でつきつけられたばかりではないか。


 ぼんやりと空を見上げる。太陽はさんさんと、緯度の低い地域らしく天高く輝いて……そこで、あれ、とルカは目を大きくした。

『水の都』は南の国だ。五月の南国の真昼にしては、いやに低い太陽だ──まるで王都の五月のような。


「ルカ! トーマス! おーい!」


 遠くから元気な声で呼びかけられて、ルカは広場に目を向けた。少女が一人と少年が二人、時計台を見上げて手を振っている。誰だったかぴんと来ないルカの横でトーマスは大きく手を振り返し、


「降りようか」


 きらきらと微笑んでルカの手を取った。階段を降りてまた息を切らし、広場に出る前にトーマスはぱっと手を離した。明るい茶色の髪をポニーテールにした少女が駆け寄ってきて、内心誰だっけと首を傾げるルカの両手をきゅっと握った。


「どこにいるかと思ったら、秘密のデートしてたなんて!」

「だってルカが元気なかったんだもの。嫉妬しないでよ、アニー」


 トーマスが名前を呼んでようやく、ルカにもその少女の名がアニーというのだと分かった。確か、ルカの親友のような少女だ。そばかすの浮かんだ顔で、アニーはルカの顔を覗き込んだ。


「ほんとだ、ルカなんだか元気がないね。今朝も寝坊したみたいだし、一体どうしたの?」


 アニーの後ろから歩いて追い付いてきたのは、トーマスよりも背が高い痩せた少年と、ルカとそう変わらない背丈のがっしりした体つきの少年だった。やっぱり名前は思い出せないが、たぶんアニー含めてアンジェラおばさんの下宿の仲間である。


「マーティンが朝ごはん一緒に食べられなかったって寂しがってたよ」


 がっしりした方の少年が、頭の後ろで手を組んでからかうように言った。なるほど、背の高い方がマーティンだ。マーティンはもう一人の頭をばしっとはたき、


「ジャックの方こそ、昼ご飯くらい一緒に食べられるかなって気を揉んでたじゃないか」

「誰だってルカとは一緒にいたいだろ!」

「じゃあ俺だってそういうことだ」

「ふん、年上だからってすかしやがって」


 舌を出してみせるジャックに、マーティンは肩をすくめてから、照れたようにハンチング帽を深く被り直した。じゃあと短く言ってすたすた去って行く背を見送ってから、アニーがルカに向き直り、肩をすくめて両手を広げた。


「グレゴリーおじさんのおつかいの途中だったのに、ルカに会いたくて一緒についてきたのよ。素直じゃないんだから」


 流れるようなアニーの言葉を聞いて、ルカはなるほど、と納得した。

 これはそういう小説だった。たぶんメインのヒーローはトーマスなのだが、誰も彼もルカに気を持っているような世界なのだ。天真爛漫に振舞いたい、ちょっとした冒険をしてみたい、それでいて、誰からもありのままの自分を愛されたい。そういう願望と相性がいいので、貴族・庶民を問わず、王都の女性の間で大流行している小説なのだ。


 ルカは大きくため息をついた。

 死んでなお見る夢が、よりによってこれだとは。


「ねえ、公園でサンドイッチを食べようよ! お昼に食べなってアンジェラおばさんが持たせてくれたの。ルカの分も、トーマスの分もあるよ!」

「僕の分も?」

「もちろんよ、アンジェラおばさんがきっともう一個いるよって」

「あはは、おばさんは何でもお見通しだなあ」


 楽しげに歩き出す三人について行きながら、ルカはうつむいた。


 *


 五月の爽やかな陽射しと風に包まれた公園は、確かにランチを食べるのに最適だった。


 みんなと並んでベンチに座り、ルカはハムとレタスを挟んだだけのサンドイッチをじっと眺めた。

 貴族生活では、慈善活動の最中か、もしくは兄たちの鷹狩りにでも付き合わない限り、こういう食事を食べることはまずない。朝のシチューもそうだった。だがこれらは本来、実家で過ごした頃にはごく親しみのあるものだった。


 みんなは先に食べ始め、談笑している。大口を開けても咎める人などいない。

 ルカは思い切って、サンドイッチにかじりついた。

 美味しかった。それはそれは、美味しかった。ばかみたいに広い、それゆえ窮屈な邸宅の、大きすぎるテーブルでの息の詰まるような食事より、ずっとずっと美味しかった。

 息が入ってくる思いがした。コルセットをしていないせい、だけではなかった。


「ねえルカ、せっかく良いお天気だからあちこち散歩しようよ!」


 サンドイッチを食べてしまってほっと一息つくルカの手を、アニーが握って嬉しそうに微笑んだ。アニーに引っ張られてルカが歩く後ろを、頭の後ろで手を組んだジャックと、どう振舞っても品のいいトーマスがついていく。


 細い水路をまたぐ小さな橋をいくつか超えて、少し大きな華やかな通りに出る。店の奥に大きなパン窯が見えるパン屋、児童書の類が軒先に賑やかに展示された本屋、魔法の道具みたいな小瓶が並ぶ薬屋。仕立て屋の窓を覗けば可愛らしい服がいくつか見えるし、ティアラやらネックレスやらの装飾品を売る店もある。

 まるで王都の目抜き通りだ。規模は随分小さいが、歩くだけでわくわくするのは同じだ。


 その華やかな通りの端の方、テラス席をいくつも出したカフェでアニーが足を止めた。通りに面したカウンターに座る店主らしき男性と慣れた様子でひそひそくすくす会話を交わし、アニーがまず二つ受け取ってきたのは、ガラスのコップに入った不思議な色の飲み物だった。


「アニーの大好物だ!」


 にやにやするジャックにうふふと微笑んで、アニーはその、青のような緑のような色の飲み物をルカとトーマスに先に渡した。独特の甘い香りに、ルカはふと懐かしい気持ちになる。

 一口飲んでみてさらに思う。遠い昔に、どこかで飲んだことがあるような。


 テラス席に座り、青とも緑ともつかないその不思議な飲み物を四人で楽しむ。飲み終わったコップはジャックが手際よくお店に返してしまって、またぶらぶらと歩き始める。


「アニー、ちょっと運動したい気分じゃない? 天気もいいしさ、あれやろうよ、あれ」

「あれってなによジャック……ああ、あれね! ねえルカ、最近ジャックがはまってる遊びがあるんだけど」


 断る理由もない。ルカはアニーに手を引かれ、とある大きな建物の扉をくぐる。集合住宅の入口だったようで、ぐるぐると上階に向かう螺旋階段を上がれば、その先の通路は路地を見下ろす橋になっていた。路地を見下ろして物珍しそうな顔をするルカを見て、アニーとジャックが顔を見合わせてこっそり笑顔になる。


 入り組んだ通路や階段をいくつも進むと、急に屋根の上に出た。驚いてよろけそうになるルカをトーマスが咄嗟に支える。


 街の屋根はだいたいどこも似たような高さになっていて、屋根の上に立って見渡せば赤茶色の波打つ地面のようだった。同じように目を丸くしているのを見ると、トーマスにとっても新鮮な光景だったようだ。緩やかに傾斜した屋根の上には木切れでできた水平な通路が所々あって、その上を、ジャックが軽やかに走っていく。


「アニー、競争だ! あっちの広場の角までっ」

「あっこらジャック、待ちなさい! ルカ、トーマス、気をつけてね」


 二人を振り返りながらも、アニーも楽しそうに駆け出してしまった。さすがにこんな高所で遊びまわった経験がなくてたじろぐルカに、トーマスが微笑んで手を差し出した。


「僕たちも少しだけ行ってみない? 怖くなったら引き返そう」


 平気な様子のトーマスに遠慮がちに頷いて、ルカは彼の手を取った。小さく一歩を踏み出せば、木切れの通路がぎし、と軋む。ごくりと唾を飲むルカの背にトーマスが優しく手を添えて、ゆっくり数歩だけ進む。


「大丈夫? 怖い?」

「……少し、怖い」


 どきどきしながら、ルカは小声で白状した。トーマスがあははと笑って、出てきたところまでルカを連れてゆっくり戻った。ジャックとアニーの楽しそうな声がして、なぜだかいなくなったのと反対側から息を切らして走ってくる。


「屋根走りで私に勝とうなんて百年早いのよ!」

「ちぇっ、先に出発してやったのに! あ、いけね、アンジェラおばさんにお手伝い頼まれてるんだった!」


 ぽんと手を打ったジャックは止める間もなく元来た道の方に駆け去ってしまった。アニーに連れられてなんとか地上に戻り、ほっと一息ついたルカに、トーマスが微笑んで声をかける。


「僕も今日は、伯母さんにお使いを頼まれているんだ。市場に寄って帰るよ……またね、ルカ、アニー」

「またねー!」


 アニーは元気よく手を振って、路地を曲がるトーマスの背を見送った。それからルカの手を握り、にっこり笑って歩き始めた。たぶん、アンジェラおばさんの下宿の方向に。


「トーマスって素敵よね。ジャックみたいなお子様と違って!」


 そう小声で言って、アニーはルカにウインクした。ルカはつられて微笑んだ。トーマスだって本当はお子様のはずなのだが、確かに、かなり手慣れている様子である。でもそれよりも、気安い女友達の雰囲気でくすくす笑っているアニーの方が、ルカにはずっと眩しかった。


 眩しいだけに、自分には不似合いなものに思えて仕方がなかった。


 手を繋いで、二人は帰り道を歩いた。

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