¬(異世界転生悪役令嬢のチートスローライフ)

ちょけ丸

第1話 舞踏会の夜から水の都の朝へ

「来ないで! 近づかないで、それ以上!」


 夜の王宮のバルコニーに、ヒステリックな女の声がこだました。


 五月の夜にしては異様に寒い。それはそうだ、それも全て、どうやら自分のせいだ。

 フェリシア・ラザフォードはバルコニーの壁に背を押し付け、ぎゅっと拳を握った。


 彼女の周りでバルコニーは凍り付き、床からはにょきにょきと氷の柱が、彼女を守るようにそびえている。

 睨む先に立っているのは、フェリシアの婚約者──婚約者であるはずの男、ノエル・イーグルトンだ。青い燕尾服に身を包み、すらりとしてひときわ素敵ないでたちなのに、今は哀れにも困惑と恐怖に顔を引きつらせている。


「フェリシア、落ち着いてくれ。まだ話の途中だろう」

「貴方がいかに美しく段取りをつけるつもりなのかなんて聞きたくもないわ! どうせ終わりなのでしょう、だったらもう放っておいて」

「フェリシア、そうじゃない。聞いてくれ、こっちへ来て」


 ノエルが一歩踏み出した。フェリシアが腕を振ると、にょきにょき生えた氷の柱から、手のひらほどの大きさの氷の槍がいくつも姿を現した。どう考えても自分が発している魔法だが、こんな魔法は、知らない。使ったことがない。ヒステリックな感情と同じく、悲しいことに、制御できない。


 ノエルは踏み出したところで体を引いた。彼の後ろで、淡い水色のふわりとしたドレスに身を包んだ、小柄で華奢なお嬢さんが、ひどく怯えながらしっかりノエルの腕をつかんでいる。

 ああ、そういうことなんだろう。

 女性とは、かようにか弱く、可愛らしく、守るべき存在でなければならないのだろう。


 フェリシアは振るった腕の拳を再び握り、それを必死に胸元に引き寄せた。伴って、ノエルに標準を合わせていた小さな氷の槍が、ぐぐぐと向きを変えていく。青白くなった唇で細く呼吸し、せめて、と心に念じる。


 夢は叶わない。

 生まれ持ったものはどうにもできない。身分も、性別も、何もかも。

 けれどせめて、終わりにするなら、自分だけにしなければ。


「ノエル、私がちっとも可愛くない婚約者だったのは分かったわ。それでも、貴方と過ごして楽しかった。お望み通り私は消えるから、どうかせいぜい、お幸せにね」


 ああ、いつの間にかギャラリーがたんまり増えている。当たり前だ、よりにもよって王宮で催される舞踏会の夜に、こんな茶番を演じることになるなんて。


 氷の槍はすっかりフェリシアの方を向いている。握った拳を解けば、きっと全てがおしまいになる。フェリシアは目を閉じた。燃えるような赤いブロンドの、顔の脇に垂らした後れ毛が、五月の夜風に儚く揺れた。


 生まれ変わったら、自分の運命くらい、自分で決められるようになりたいな。


 目を開ける。深い青色の瞳に、もう一歩踏み出そうとしているノエルの姿が映る。フェリシアはふっと微笑んだ。そして固く握った拳を、ゆっくりそっと解こうとした。


『────運べ!!』


 耳慣れない呪文を叫ぶ高らかな声とそれに続く眩しい光が、氷の槍がフェリシアに突き刺さろうとするのを留めた。

 驚いて見ると、上階のバルコニーで杖を高く掲げる男の姿があった。月に照らされる魔法使いのローブ、くすんだ金色の髪。瞬きする間もなく、フェリシアの体が光に包まれた。反射的に目を覆い、浮遊感に混乱し、意識が遠のく。



 どれくらいの時間が経ったのだろう。


 ぼんやりする頭を振って恐る恐る目を開けた時、目に入ったのは、どこか見慣れた雰囲気の天井だった。


 フェリシアはゆっくり何度か瞬きした。古びた木組みの天井には、ところどころ隙間が空いている。ネズミが走れば埃が落ちてきそうな、年季の入った天井だ。素っ気ない白で塗られた壁にもあちこちに、年月を感じさせるひびやくすみ。狭い部屋、小さな固いベッド、古い木の匂い。


 フェリシアは体を起こした。そして、気がついた。

 ドレスがない。どうせ似合いもしないのにと嫌々着たあの青いドレスではなく、フェリシアが着ているのは、庶民の簡素な寝間着だった。それどころではない、慌てて見比べれば、手のひらも、足も、あるはずの膨らみがないぺたりとした胸も、どう考えても自分のものではない。


 急いでベッドから出て、ドアの近くの姿見に駆け寄った。

 そこに映っていたのは、どこか見覚えのある少女の姿だった。


 髪は燃えるような赤ではなくて、大人しい栗色のボブである。冷たい女と揶揄されることの多かった切れ長の瞳は、少女らしく愛らしい大きな瞳になっている。頬はぷにぷに、背は低いし、手足もどこかあどけない。瞳の色だけが、元の自分と同じ、深い青色だった。


 呆然として頬を押さえる。


 ふと賑やかな声が聞こえて、窓辺に駆け寄る。開け放たれていた窓辺では白いカーテンが揺れている。どうやらここは二階だ。通りを見下ろして、フェリシアは息を飲んだ。


 小さな通りには不揃いな石畳が敷かれ、両脇に所狭しとノスタルジックな建物が立っている。どれも王都で見るよりずっとこぢんまりとしたものだ。家々のバルコニーには草花が飾られ、黄色やピンクの花々が、白い壁と木組みの柱に映えている。

 通りの両脇では花やら雑貨やらが売られていて、どこもかしこも人々で賑わっている。左側には小さな広場があり、小さな噴水の周りで、少年少女が楽しそうに走り回っている。


 知っている。見たことがある。ここはまるで、子供の頃に一度だけ訪れた、西都のウンダータのようだ。けれどウンダータそのものではない、なぜなら自分のこの姿は。


「ルカ! ルカ、起きているのかい」


 ノックの音と同時に扉の向こうから呼びかけられて、それでフェリシアの記憶は焦点を結んだ。そうだ、これはルカの世界──ウンダータをモデルにした架空の都市が舞台の少女小説、『水の都のルカ』の世界だ。


 いや、一体、どういうことだ。


 薄い胸に手を当てて、フェリシアは深呼吸した。扉を開けに行くと、廊下に立っていたのは恰幅の良い中年の女性だった。彼女はフェリシアが呆然としているのを見て、


「珍しくお寝坊さんだね、ルカ! 楽しい夢でも見ていたのかい? ほら、急いで朝食を取って、朝の仕事を片付けちまいなよ」


 フェリシアの──ルカの頭をがしがしと撫で、音の出そうなウインクをした。ルカは必死に記憶をたどり、恐る恐る呼びかけた。


「アンジェラおばさん……」


 果たして女性は、厚い唇の端を上げてにっこり笑った。どうやら合っているらしいと、ルカもほっとして微笑んだ。


「おはよう、寝坊しちゃった……すぐに着替えて降りるね」

「オーケー、スープを温めて待ってるよ!」


 階段をぎしぎしと降りていくアンジェラおばさんを見送り、ルカは一度扉を閉めた。クローゼットを探って見覚えのある衣装を取り出し、コルセットも薄い下着も必要ない庶民の服をばさばさと着た。改めて姿見の前に立ち、それですっかり確信した。

 ルカだ。

 どういうわけか、フェリシアは──ラザフォード家の養子として貴族生活を送ってきた、フェリシア・ラザフォードという18歳の女は、ルカという、この14歳の無邪気な庶民の少女に生まれ変わってしまったようだった。


 *


『水の都のルカ』は、近頃王都で流行している少女小説である。

 あまりに流行しているので、自発的にはそういうものに手を出さないフェリシアのところにも、養母が茶会の差し入れの菓子を添えて笑顔で持ち込んだのだった。養母から渡されたものには一通り目を通してそれらしく感想を述べなければならず、しぶしぶ通読したものだ。


 ルカは得意の魔法を使って、水路に毎晩明かりを灯し、朝には消して回るという仕事をしている。天真爛漫で冒険心に溢れるルカが、水の都で起こる様々な事件を解決していく姿は、多くの読者を夢中にさせる。


 その記念すべき第一巻が出版されたのが確か一昨年で、なかなか続編が出ない、と噂されているところだったはずだ。


 ルカが住むのはアンジェラおばさんが営む下宿屋である。食事時にはレストランにもなるダイニングが一階にあり、アンジェラおばさんはだいたいいつもカウンターキッチンの中か、ダイニングの肘掛け椅子にいる。


「今朝はシチューだよ、ルカ! たんと食べて、さっさと出かけなよ」


 木の丸椅子に恐る恐る座るルカの前に、中をくり抜いた丸パンにシチューを注いだものが運ばれてくる。ルカはぱちぱちと瞬きし、躊躇った。意を決して固いパンのふちをちぎり、シチューに浸して口に入れ、その素朴な美味しさに思わず微笑んだ。


 ひとたび口をつけたら、ルカの手際は良かった。そういえばお腹が空いていた。あっという間に食べ終わり、立ち上がってアンジェラおばさんに礼を言い、さっき見つけた地図を部屋から持ってきて外に出た。


 春の午前らしい明るい陽射しに、ルカは目を細めた。


 二階の窓から見下ろしたのよりももっと、通りは賑やかだった。勘を頼りに広場を通り過ぎ、急に細くなる路地で地図と睨めっこし、いくつかの角を曲がって目指す水路に出る。古びた木の桟橋が作る小さな船着き場に、見覚えのある可愛らしい小舟が浮かんでいる。


 ルカは深呼吸し、小舟にそっと乗り込んだ。桟橋に繋ぐロープを外し、木のオールの重さによろけつつ踏ん張り、地図に書き込まれたメモの通りに水路を進んだ。

 水路の両脇には、確かに一定間隔で、魔法で灯すタイプの街灯が並んでいる。明るい陽射しの下で健気に灯ったままの淡い明かりのひとつに、ルカは手を伸ばした。


 そして唱えた。魔法の教科書で一番最初に習う、明かりを点けて消す魔法の、消すための部分の呪文を。


 淡い明かりが揺れて消えた。


 ルカは伸ばした手を戻し、手のひらをじっと見つめた。18歳の女の手、震える冷たい手ではなく、14歳の少女の健康に日焼けしたあどけない手を。


 顔を上げ、小舟を進める。少し進んでまた別の街灯の明かりを消す。

 持ち場の水路をすっかり回るには、地図と見比べながらだと二時間もかかった。元の船着き場に戻った時にはもう昼時で、ルカはあてもなく、アンジェラおばさんの下宿の前の広場に戻った。


 噴水のふちに座り、水面を覗き込む。


 ルカの部屋で目を覚ます前、自分は確かに、王宮のバルコニーにいた。もう死んでしまうつもりだった。けれど魔法使いが現れて、何かの魔法をかけられた。

 楽しい夢でも見ていたのかと、アンジェラおばさんは言ったけれど。王宮での出来事は悪夢のようなものだった。そうではなくて、今いるこの場所こそ、楽しい夢なのかもしれない。

 本当に目が覚めたら、王宮近くの牢にでも入れられているのかもしれない。あるいはもう、目を覚ますことはないのかもしれない。


 広場には楽しそうに人々が行き交い、昼時らしく美味しそうな匂いも漂っている。また小腹が空いている気もするが、食欲は湧かない。


 人波から逃げるように立ち上がり、アンジェラおばさんの下宿の前の通りを抜けて、少しだけ丘を上がったところに見晴らしの良い公園を見つける。

 誰もいない公園のベンチに腰かける。背をもたれて、天を仰いで、目を閉じる。


 五月の風は心地良く、日差しは暖かい。

 ひょっとしたら、ここは天国なのかもしれない。でも少女小説の世界が天国だなんてことはないだろう。天国というのは、世界樹の上にある美しい場所だというのがもっぱらの噂だ。


 何にしたって、ノエルとも、もう会うことはないんだろうな。


 閉じた瞼の端から一筋、涙が頬を流れていった。それが爽やかな風に乾いた頃、ルカは目を開け、前を見た。

 少し離れたところから自分を見つめる紫色の目と、そこで目が合った。


「…………!」


 ルカは大きな目をもっと大きくして驚いた。紫の瞳、金の髪、白い肌のその少年は、ルカが驚いたのを見て自分も驚いた。それから急いで微笑んだ。まるで王子様みたいな顔をして、その少年は口を開いた。


「ごめんねルカ、脅かすつもりはなくて……珍しく、昼寝なんかしているものだから」


 ルカは瞬きし、思い出した。こういう関わり方をしてくる金の髪の少年は、それは、『水の都のルカ』のヒーローだ。一巻ではまだルカと知り合って長くない、けれどきっと恋をするのだろうと読者には分かる少年だ。無意識に眉をひそめ、合っているか自信がなくて探り探りに、ルカは少年の名を呼んだ。


「……トーマス。こんなところで、会うなんて」


 少年が嬉しそうに微笑むので、名前は合っていたのだろう。ルカは細く息を吐いた。それから改めてまじまじと、トーマスの紫の瞳──王都では王族の皆様方にしかない美しい色のその瞳を、疑い深く見返した。

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