第7章 箱庭の崩壊
1
赤い蝶がふわりと舞って、リリーディアに見せた幻覚は。
魔物の血と自らの血に濡れた、赤い自分の姿。
そして、すべてを――飼い殺しにされていた地獄を思い出した。
激しい記憶の波に飲み込まれ、リリーディアは思わず悲鳴を上げた。
慌てて現れたシルヴィオの手には赤い血がついていて、いまだ幻覚と現実の区別がつかない頭でリリーディアは再び絶叫した。
「いやあああああ……っ!」
「どうしたのですか、姫。落ち着いてください」
なだめようとシルヴィオがリリーディアに触れる。
――駄目、私に触れないで。
穢れた自分に触れたら、きれいなシルヴィオまで穢れてしまう。
視界は赤い血に染まっていて、リリーディアは首を横に振り続ける。
「いや、あ、あぁ……駄目よ、どうして……」
見られたくなかったのに。こんな、腐った魔物の血を浴びた自分なんて。
助けなくてもよかったのに。シルヴィオに酷いことを言った自分のことなんて。
あぁ、ついにシルヴィオの前に晒してしまった。
「ねぇ、どうして……私は生きているの?」
シルヴィオのことが大好きだから。
きれいな自分しか見せたくなかった。
可愛い自分しか知ってほしくなかった。
きれいなまま、彼が守りたい可愛い姫のまま、殺して欲しかった。
最期の我儘だったはずなのに、今、リリーディアは生きている。
「――殺してって言ったじゃない」
シルヴィオにとってどれだけ残酷な言葉を口にしているのか、混乱しているリリーディアには分からない。
彼の表情を見る余裕もなかった。
「殺さない。俺は、絶対にリリーディアを殺さない」
「そんな、だめ、早く逃げて。私をおいていって。でないと、シルヴィオが処刑されてしまう……っ!」
耐えられない。シルヴィオが処刑されるなんて。
リリーディアの意識はまだ混乱していて、あの日のまま時を止めていた。
混乱し、恐怖に震えるリリーディアをシルヴィオが強く抱きしめる。
「君を傷つけた奴らはもういない。だから、もう怯えなくていいんだ」
「でも、でもっ……私が死ねば――」
リリーディアが死ねば、きっとシルヴィオを縛るものはなくなる。
どこへでも自由に逃げていけるはず。
彼を縛り付けているリリーディアでなければ、解放することはできない。
だから。だから。だから、もう一度手放さなければならないのに。
無意識にリリーディアの手はシルヴィオにすがっていて、彼の大きな手に包み込まれる。
あたたかい。
「リリーディア」
シルヴィオに名を呼ばれるだけで、胸がきゅっと締め付けられて涙があふれた。
「君の命は俺のものだ。もう誰にも渡さない」
――リリーディア自身にも。
そう言って、シルヴィオは少し乱暴にリリーディアの唇を奪う。
「駄目っ、私は穢れてて……っ」
「きれいだ。リリーディアは、きれいだよ」
重なる唇に冷たい涙が伝う。
シルヴィオも、泣いていた。
拒絶しようとしていた拳が、唇が、彼の涙に解かされるように緩んでいく。
何度も角度を変えて、ずっと見えなかったリリーディアの本心を誘い出すようにシルヴィオは深いキスをする。
「愛している」
確かめるように、思い知らせるように、シルヴィオはリリーディアの体にその愛を教え込む。
激しくも優しいキスは、苦くて、とてつもなく甘い。
ただただ“愛している”ことを体に刻むようなこのキスを、リリーディアは知っている。
どれほど自分がシルヴィオに愛されているのか。
ようやく、思い出した。
地獄の果て――まっさらで、真っ白な自分の中にそれはあった。
「……ごめん、なさい」
シルヴィオはずっと、リリーディアの側にいてくれた。
殺してくれと懇願したリリーディアの願いをすり替えて、記憶を奪って。
王女として大切に扱われなかった境遇を忘れさせ、ただのリリーディアとしての幸せを与えようとしてくれた。
リリーディアは、シルヴィオを守ることもできず、酷く傷つけてしまったのに。
それでもなお、こうしてシルヴィオはリリーディアに愛をくれるのだ。
「ごめんなさい、シルヴィオ。私、あなたに酷いことばかり言ったわ」
本当は、待っていた。心のどこかで、シルヴィオが来てくれるのを。
必ず迎えにくると言ってくれたから。
彼と幸せになれる未来を想像しては、あり得ないとかき消して。
シルヴィオの優しさを思い出しては涙を流して。
魔物の血を飲んで、肉を食べて、苦しくて、訳の分からない実験に付き合わされて。
死にたいと何度も思った。死のうとしたこともある。
それでも、生きて耐えていたのは。
もう一度だけでも、シルヴィオに会いたかったから。
「謝罪はいらない。俺が欲しいのは、リリーディアの未来だ」
「私が、シルヴィオの知る私ではないとしても……?」
「あぁ。俺はリリーディアのすべてが欲しい」
神秘的な金の瞳が、涙に濡れている。
泣かないで――美しい涙に唇を寄せた。
置いていかれる者の気持ちも考えず、自分一人で死のうとして。
それがどれだけ自分勝手で、酷い裏切りだったのか、今になって気づいた。
――その魔力ごと、あなたを私にちょうだい!
先にシルヴィオのすべてを欲しがったのは、リリーディアだったのに。
「あげる。私の全部、シルヴィオにあげるわ」
リリーディアは、初めて自分から口づけた。
びくりと震えたのはシルヴィオの方で、リリーディアに激しいキスを与えた人とは思えないほど顔を真っ赤に染めていた。
胸に広がる愛おしさが、ズタズタになった心の傷を少しずつ塞いでいく。
すぐに痛みを忘れることも、なかったことにすることもできないけれど。
もう二度と、自分から愛しい人を捨てたりしない。
シルヴィオからの反撃のキスに溺れながら、リリーディアは誓った。
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