第五章 絶望と幸福の狭間で

 あたたかな日差しが降り注ぎ、草木の匂いが鼻をかすめる。

 屋敷の庭園に、リリーディアはシルヴィオと二人で木苺を摘みに来ていた。


「わぁ、こんなにたくさん木苺を育てていたなんて」

「姫は木苺ジャムが好きですからね」

「ありがとう。嬉しいわ」


 リリーディアが口元に手を当てて笑うと、チャリ、と音がした。

 リリーディアの手首には、シルヴィオによってつけられた銀の鎖――繊細な銀のチェーンとピンクの小さな宝石が埋め込まれた、とても美しいブレスレットがある。

 ずっと二人で一緒にいる、ということの証明のために、シルヴィオから贈られたものだ。

 シルヴィオにしか外すことができないブレスレットは、リリーディアをこの屋敷に――シルヴィオの側に繋ぎ止めるための鎖。

 そうすることでシルヴィオが安心できるというのなら、リリーディアは鎖で繋がれても構わなかった。


(いつも私を気遣ってくれていたから、今度は私があなたの心に近づきたいの)


 記憶を奪われたことにも、屋敷に囚われていることにも、シルヴィオが抱える闇にも気づかず、リリーディアは偽りの幸福を享受していた。

 シルヴィオの意思を変えない限り、このリリーディアの生活は変わらないだろう。

 彼は、記憶を奪っていつでもリセットすることができるのだから。

 それに、リリーディアは、シルヴィオから逃げたい訳ではない。

 シルヴィオの側にいたいから、彼のすべてを知りたいのだ。

 そのために、何があったのかを知りたい。

 ただ、それだけ――。


「姫、見てください。森にいたリスが遊びにきていますよ」

「まあ、本当だわ! かわいい~」

「木苺をあげてみては?」

「えっ、いいのかしら?」

「大丈夫ですよ。ほら、大きな目で物欲しそうに見ています」

「ふふ、それじゃあ……」


 木苺を両手に包んで、リリーディアはそっとリスの前で手の平を広げた。

 すると、リスは待っていました! とばかりに木苺へと駆け寄ってくる。


「シルヴィオ、見て! 私の手の上にリスがいるわ!」


 手の上でもふもふと動く尻尾や、木苺を頬張る様が可愛すぎて、リリーディアは興奮気味にシルヴィオを振り返る。


「はい、とても可愛いですね」

「でしょう!? ふふ、くすぐったいったら」


 木苺を食べ終わったリスが、リリーディアにねだるようにすり寄ってきて、こそばゆい。

 リリーディアが堪えきれずに笑っていると、シルヴィオが追加の木苺を持ってきてくれた。


「ふふ、シルヴィオも一緒にどう?」

「いえ、俺はリスと戯れる姫を見ている方が楽しいですから」


 いつものように、シルヴィオは一歩下がろうとする。

 しかし、これではシルヴィオの心に近づくことはできない。

 リリーディアはおもいきって、彼に命じる。


「シルヴィオ、手を出しなさい」


 予想通り、シルヴィオは反射的にリリーディアの命令に従った。

 差し出されたその手にそっとリスを移し、リリーディアはしたり顔で笑う。


「ふふ、どう? 近くで見るともっと可愛いでしょう?」

「……は、はい」

「もふもふの尻尾も堪らないわね~! 可愛いわっ!」

「そ、そうですね……」


 なんだかシルヴィオの受け答えがぎこちない。

 そのきれいな顔を見上げると、シルヴィオは手の中のリスから思い切り顔を逸らしていた。

 どこか青ざめているような気もする。


「もしかして、リスが苦手なの?」


 まさかと思い聞いてみたが、シルヴィオはかすかに頷いた。


「えっ!? 嘘でしょう!?」

「……本当です。姫、お願いですから、早くリスを引き取ってください」

「あ、ごめんなさい……」


 慌ててリリーディアはシルヴィオの手からリスたちを自分の手に誘導する。

 木苺がもらえないことに不満気なリスたちに、リリーディアは木苺を摘んだ籠の上に降ろしてやった。

 その後、シルヴィオを見ると、ふうと大きく息を吐いているところだった。


「もしかして、シルヴィオがさっき断ったのは、私と距離を置いた訳じゃなくて、リスが苦手だったから?」

「…………」


 シルヴィオは無言で頷いた。


「どうして、素直にそう言ってくれなかったの?」

「姫にこんな情けないところを見せられる訳ないでしょう?」

 

 いつも背筋をピンと伸ばして柔らかな笑みを浮かべているシルヴィオが、今は眉根を下げて肩を落としている。


(もしかして、今までも私の前でかっこつけるために我慢していたことがあったのかしら?)


 なんでもできる完璧な従者だと思っていたが、それはシルヴィオの努力によって作られたものだったのかもしれない。

 シルヴィオにだって、苦手なことやできないことがあるのだ。

 それをリリーディアの前では隠していた。

 好きな人に情けない姿を見られたくないから。


「ふふ、かわいい……」

「へ?」

「ねぇ、シルヴィオ」

「何ですか?」


 微笑みながら名を呼べば、拗ねたような声が返ってきた。


(す、拗ねてる、あのシルヴィオが! かわいい……っ!)


 身長は高く、しっかりと鍛えられた体を持つシルヴィオに対して「かわいい」なんて似合わないかもしれないけれど、リリーディアは彼がかわいく思えて仕方なかった。


「どうして、リスが苦手なの?」

「……リスというか、小動物が苦手なんです。力加減が分からなくて、壊してしまいそうで」


 ぶすくれたまま、シルヴィオが答える。

 自分のことははぐらかしてばかりだったシルヴィオが、自分のことを話してくれることが嬉しい。

 感情が抑えきれず、リリーディアの頬は緩みまくっていた。

 そんなリリーディアを金の瞳が映して、不満そうに口を開く。


「なんですか、その顔。ムカつくくらい可愛いです」

「ふふ。やっぱり、シルヴィオは優しいんだなぁって」

「今の話のどこでそうなったんですか……」


 呆れたようなため息がシルヴィオからこぼれる。


(えいっ!)


 むっとしたシルヴィオが可愛くて、リリーディアは思い切って抱き着いた。

 自分から抱き着くのは初めてのことで、ドキドキする。


「……なっ!? 姫っ!?」


 しかし、それ以上にシルヴィオが驚いていた。

 ぎゅうっとシルヴィオの背に腕を回せば、彼の心臓がドクドクと早鐘を打つのが聞こえる。

 その心音を聞きながら、自分の鼓動も速まっていくのを感じる。

 シルヴィオの手は、リリーディアを抱きしめてもいいのかと迷うように空をさ迷う。

 強引に唇を奪ったりするくせに、リリーディアから近づくと何もできなくなる彼がなんだか愛おしい。


「私は簡単に壊れたりしないわ。だから、大丈夫よ」


 シルヴィオの激しい愛情を向けられて怯えてしまったこともあるけれど、リリーディアはほんの少し力を入れただけで死んでしまう小動物とは違う。

 シルヴィオを受け止めてみせる。

シルヴィオが抱える闇さえも受け入れたい。


(今の私にとっては、シルヴィオがくれたものがすべてだから……)


 もし、記憶を取り戻したとしても、それだけは忘れたくない。

 シルヴィオと過ごした日々の小さな幸せ、大きな幸せ。

 そのすべてを覚えていたい。


 ――シルヴィオと一緒に。


「……姫は、やっぱり姫なんですね」


 はあ、と大きなため息が頭上から聞こえたかと思えば、シルヴィオの腕が背に回された。

 やんわりと全身がシルヴィオに包み込まれる。


「何の疑いもなく俺があげたブレスレットを付けて、俺がしたことを知っているのに怖がらずに側にいて、あげく自分から俺に抱き着くとか……そんななたが、どうしようもなく好きです」

「シルヴィオ……私も、好きよ」


 意識が朦朧として必死だった告白とは違い、冷静なまま、好きだと言うのはとても緊張する。

 リリーディアの声は震えていた。

 しかし、シルヴィオにはちゃんと届いたようで、リリーディアを抱く腕に力がこもる。


「姫はずるくて、とても酷い人です。それでも、それ以上に優しくて、心がきれいで、素直で可愛い人で、俺のすべてをかけて守りたい大切な人です。愛しています。あなただけを愛しているんです」

「えぇ……」

「だから、俺は……あなたを手放すことはできない」

「……大丈夫よ。私は、シルヴィオの側にいるわ」


 耳元でこぼれるシルヴィオの言葉は、リリーディアの胸をきゅっと締め付ける。

 あやすように、その広い背を優しく撫でる。

 シルヴィオから離れたりしない。

 その思いを伝えるように。


「姫……――リリーディア」


 初めて、名を呼ばれた。

 心臓がどくんと跳ねて、全身の体温が一気に上がる。


「……リリーディア、許してくれ」


 かすかに漏れた吐息のような声。

 懇願するその言葉は、自分に向けられたものではないと気づく。

 かつてのリリーディアへシルヴィオは許しを乞うているのだ。


(私のことを名前で呼ばなかったのは、シルヴィオの中にいるリリーディアと区別していたから……?)


 どくどくと心臓が嫌な音を立てる。

 愛されているのはたしかに自分なのに、シルヴィオが見ているのはきっと、かつてのリリーディアで。


(シルヴィオは、本当に記憶を失った私のことも愛してくれているの?)


 シルヴィオのすべてを受け入れたいと願ってしまうほど、リリーディアの心はシルヴィオに向いている。

 だからこそ、急に不安になった。

 記憶がないから、以前の自分がどんな風だったのか分からない。

 シルヴィオの言動から、以前と変わらないところがあるのは間違いない。

 しかし、今のリリーディアは以前のリリーディアと全く同じではないのだ。

 シルヴィオが愛した、リリーディアではない。

 思い出さなくてもいいと言いながら、シルヴィオの眼差しはどこか別のところに向いているような気がして。

 失ったリリーディアの面影を求められているだけならば、どれほど虚しいだろうか。

 愛されていることに変わりはない。

 けれど、どうしても。

 シルヴィオの腕の中で、リリーディアの不安は大きく膨らんでいた。

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