「おはようございます、姫」


 ベッドから起き上がると、シルヴィオの笑顔があった。

 室内にはバターとはちみつの香りが漂っている。

 今日の朝食はハニートーストのようだ。


「おはよう、シルヴィオ」


 いつものように挨拶を返すが、なんだか体の調子がおかしい。

 瞼は腫れている気がするし、唇にも違和感がある。

 何があったのか。

 まだ覚醒していない頭でぼんやりと考えて、ハッとした。


(そうだ、私……思い出したいと願って、シルヴィオに……)


 唇を奪われた。激しく、深く、強く。

 シルヴィオの方が辛そうな表情をしていたことが記憶に残っている。

 昨日のことを思い出し、リリーディアは内心で首を傾げた。


(でも、どうして、覚えているの……?)


 シルヴィオはリリーディアの今の記憶すら消そうとしていた。

 記憶を封じる魔術が失敗したのだろうか。

 それとも、リリーディアの懇願を聞いてくれたのだろうか。

 意識を失う前に告白したことも思い出し、リリーディアは赤面する。

 それに、キスだって初めてだったのだ。

 あんなに激しくて苦しいものだったなんて、驚いたけれど。

 じっとリリーディアが黙り込んでいると、シルヴィオに声をかけられる。


「姫? 冷めてしまいますよ」

「え、えぇ……」


 テーブルについて、リリーディアはハニートーストを食べ始める。

 甘くて美味しいはずなのに、緊張のせいか、味を楽しむ余裕がない。

 紅茶を淹れると、シルヴィオもリリーディアの隣で食べ始める。


(ど、どうすればいいの……!?)


 シルヴィオは、無理やり姫の唇を奪ったとは思えないほどいつも通りの優しい笑みを浮かべている。

 もし、記憶を封じる魔術が失敗したのだとすれば、リリーディアは昨日のことを知らないふりをした方がいいかもしれない。

 このまま何事もなかったかのように振舞えば、きっと昨日のような強引な手段はとらないはずだ。

 しかし、シルヴィオがリリーディアの懇願を聞き届けてくれたのだとしたら、話し合う余地があるかもしれない。

 リリーディアは、自分がどう振舞うべきなのか頭を悩ませる。


「姫、あまり食が進んでいませんね。美味しくありませんか?」

「……いいえ、とても美味しいわ。でも、今日は食欲がないみたい」

「どこか体調でも悪いのですか?」


 心配そうに向けられる金の双眸から、リリーディアは思わず顔を逸らす。


「……そ、そうかもしれないわ。だから、少し一人で休ませてもらえる?」


 一人で考える時間が欲しかった。

 

「分かりました。では、ゆっくり休めるようにハーブティーをご用意します」

「いいえ、大丈夫よ」

「ですが、体調が優れない姫を一人にする訳には」

「本当に大丈夫だから。今は、一人になりたいの」


 首を横に振って、リリーディアはシルヴィオの申し出を拒否する。

 シルヴィオは「そうですか」と言ったきり、じっと黙り込む。

 ショックを受けているその様子に、出て行けとは言えず、リリーディアはどうしたものかと焦る。


(どうしよう……でも、シルヴィオが一緒だと何も考えられないわ。あぁでもでも、このまま拒否を続けていたら、今度こそ記憶を消されてしまうのかしら……?)


「姫」


 ただ呼びかけられただけでびくりと体を震わせると、くすりと笑われた。


「姫は本当に考えていることが顔に出ますね」

「えっ?」

「まぁ、これは俺の自業自得ですね……昨日は酷いことをして、すみませんでした」


 そう言って、シルヴィオはリリーディアの顔を見つめた。

 彼が言う酷いこと、とは無理やりのキスのことだろうか。

 それとも、記憶を封じる魔術を発動したこと?

 リリーディアがどう答えればいいのか逡巡していると、シルヴィオの手で視界が塞がれた。

 かと思えば、あたたかな光を感じ、目の腫れや唇の違和感が消えた。


「今のは……?」

「安心してください。治癒魔法です」

「あ、ありがとう。シルヴィオはすごいのね」


 治癒魔法で、リリーディアの泣き腫らした目と唇を治してくれたのだ。

 シルヴィオが魔術師だというのは本当らしい。

 記憶を奪われたと知った時には、魔術に対して恐ろしいイメージを持ってしまったが、治癒魔法はあたたかくて優しい魔法だ。

 人を傷つけるだけではないことが分かって、リリーディアはホッとする。

 しかし、素直にお礼を言ったリリーディアを見て、シルヴィオは呆れたようなため息を吐く。


「姫は、あんなことがあったのに俺を責めたりしないんですね」


 シルヴィオの言葉で、記憶を封じる魔術が失敗した訳ではないのだと知る。

 ということは、つまり。

 リリーディアの記憶を奪うことをやめてくれたということで。


(シルヴィオは、私の意思を尊重してくれた……?)


 故郷を滅ぼされ、閉じ込められ、無理やり唇を奪われたけれど。

 優しいシルヴィオが偽りではないのだと信じたい。


「泣かせたい訳じゃなかったんです。俺は、姫を心から愛していますから」

「シルヴィオ……」

「姫にはいつも笑っていてほしい。姫の幸せが俺の幸せです」


 激しすぎるシルヴィオの愛は、キスで十分に実感した。

 シルヴィオに愛されていることは嬉しい。

 しかし、何も知らずに微笑んでいることが、リリーディアの幸せだと言えるのか。


「どうして、記憶を奪うことが私の幸せだと思ったの……?」

「姫が望んだことですから」

「私が……?」

「そうです。だから、過去のことは忘れて、これからの幸せのために俺と二人だけで生きていきましょう?」


 執着を宿した金の双眸がリリーディアを映し、その大きな手がリリーディアのなめらかな白い頬にそっと添えられた。

 もう片方の手はリリーディアの腰に回され、シルヴィオの腕の中に囚われる。


 ――ここで彼を拒否すれば、今度こそ記憶を奪われる。


 それだけは直感した。

 だから、リリーディアの選択肢は一つしかなかった。


「えぇ」


 リリーディアが頷くと、嬉しそうに微笑んだシルヴィオの顔が近づいて、唇が重なる。

 あの時の激しいキスとは違う、ただただ甘く、優しいキスだった。

 宝物のように自分に触れる唇と優しい手。

 彼が幸せだというのなら、このままでもいいではないか。

 頭の片隅で、そう願う自分もいて。

 知らない方がいいこともある。

 シルヴィオのことだけを考えて生きていけばきっと、彼と二人で幸せになれる。


(でも、それで本当にシルヴィオは幸せなの?)


 彼の心を歪めて、彼にだけ責任を押し付けて。


(こうなったのはすべて、私のせいかもしれないのに……?)


 リリーディアだけが知らない、自分の過去。

 優しいシルヴィオが抱える闇さえ理解できずに。


(やっぱり……私が望んだことだとしても、このままシルヴィオと一緒にはいられないわ) 


 リリーディアの脳裏には、クロエにもらった赤い蝶がちらついていた。

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