3
愛する人とのキスは、もっと、甘くて優しいものだと思っていた。
しかし実際は、夢みていたキスとはほど遠い、すべてを奪われるようなキスだった。
抵抗しようと握った拳はあっさりと封じられ、頑なに閉じていた唇はシルヴィオの熱い舌に暴かれる。
何度も角度を変えて、深く、強く、唇が重なり合う。
「愛しています」
呼吸の仕方すら分からないリリーディアが酸欠になりそうなときには、シルヴィオの愛の言葉が吹き込まれる。
息を吸っても吐いても、リリーディアが取り込むのはシルヴィオから注がれる愛情だけで。
隙間なく重なるそれは、熱くて、痛くて、苦しくて。
リリーディアの意識を侵していく。
記憶のないリリーディアに、シルヴィオの存在を刻むように。
このままでは、彼からの激しい愛情に溺れて死んでしまうのではないか。
本気でリリーディアはキスで殺されると覚悟した。
唇はもう痺れて感覚が曖昧だ。
ただシルヴィオの熱だけを感じている。
それだけしか許されない。
リリーディアにできることは、彼が飽きるまでひたすら耐え続けることだけ。
頭が空っぽになって、心も無にして、まるで人形のよう。
これが、シルヴィオの復讐なのだろうか。
愛の言葉を囁きながら、リリーディアの心を殺していくことが。
心を捨ててしまえば、楽になれるだろうか。
どこか投げやりな気持ちになった時――。
ふいに、リリーディアの頬が濡れた。
ぽたぽたと、あたたかな何かが次から次へと流れていく。
ゆっくりと瞼を開くと、それは美しい金の双眸から零れ落ちていた。
(……どうして、シルヴィオが泣いているの?)
泣きたいのはこちらの方だ。
記憶を奪われ、母国を奪われ、自由を奪われ、唇を奪われ――。
次は命を奪われるのではないか、と恐怖しているのはリリーディアなのに。
シルヴィオが泣いていた。
眉間にしわを寄せて、苦しそうに顔を歪めて。
いまだにシルヴィオの唇はリリーディアの唇に触れていて、声をかけることもできない。
涙に濡れる金の瞳を見つめていると、そっと唇が離れていく。
「姫……俺を嫌いになりましたか?」
心底後悔しているような表情で、そんな風に問うなんてずるい。
否定の言葉をあげたくても、唇は痺れてうまくしゃべれない。
(シルヴィオのこと、嫌いになれたらよかったのに……)
リリーディアは、小さく首を横に振った。
けれど、彼がしてきたことは許せない。
許せないのに、憎めない。
好きな気持ちが消えないのだ。
彼を憎もうとする度に、胸がズキンと痛む。
その痛みは罪悪感を伴っていて、リリーディアは直感する。
記憶にないかつての自分が訴えているのだ。
彼を憎んではいけない、と。
嫌いになれない理由付けをしたいのかもしれないけれど。
シルヴィオがこんなにも歪んでしまったのは、きっと――。
(私のせいなのね)
しかし、シルヴィオはその原因すらも忘れさせた。
何も知らず、素直なままのリリーディアを望んだのだ。
シルヴィオが愛を囁くのは、彼が望むリリーディアの人形。
それがとても悲しくて、今更になってリリーディアの目から涙が零れ落ちる。
ちゅっと優しく唇が頬に触れて、シルヴィオがリリーディアの涙を拭う。
「申し訳ございません。姫が俺を嫌いだと言っても、俺はあなたを手放すことはできない」
「……や、ん」
「俺を拒絶しないでください」
シルヴィオの涙は止まっていた。
金の双眸は鋭く、リリーディアの動きを制す。
「大丈夫ですよ。姫が苦しいのなら、もう一度忘れさせてあげますから」
にっこりと、シルヴィオの唇が弧を描く。
リリーディアのキャラメル色の髪をすくい、口づけた。
そして、その大きな掌がリリーディアの額にあてがわれる。
あたたかくて、優しい光がふわりとリリーディアを包み込む。
魔術が発動している。
そう気づいたのに、激しいキスのせいで酸欠気味の頭は朦朧として、痺れる唇ではまともに言葉を紡げない。
それでも。
このままではまた、同じことの繰り返しだ。
「いやっ、シル、ヴィオ……忘れたく、ない……っ!」
目覚めてからの日々は、記憶がなくても幸せだった。
シルヴィオはいつも優しくて、リリーディアを気遣ってくれた。
きっと、最初から好きだった。
以前の自分が彼に何をしたのかは分からないけれど、シルヴィオが側にいてくれることに喜びを感じていた。
記憶は消されてしまったが、恋心は消せなかったのだろう。
それなら。せめて。自分の心に従おう。
「だいすき」
呂律の回らない告白。
シルヴィオが向けてくれるほどの熱情はない。
それでも、心からの言葉だった。
どうか届いてほしい。
そう願って、リリーディアはギリギリで保っていた意識を手放した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます