愛する人とのキスは、もっと、甘くて優しいものだと思っていた。

 しかし実際は、夢みていたキスとはほど遠い、すべてを奪われるようなキスだった。

 抵抗しようと握った拳はあっさりと封じられ、頑なに閉じていた唇はシルヴィオの熱い舌に暴かれる。

 何度も角度を変えて、深く、強く、唇が重なり合う。


「愛しています」


 呼吸の仕方すら分からないリリーディアが酸欠になりそうなときには、シルヴィオの愛の言葉が吹き込まれる。

 息を吸っても吐いても、リリーディアが取り込むのはシルヴィオから注がれる愛情だけで。

 隙間なく重なるそれは、熱くて、痛くて、苦しくて。

 リリーディアの意識を侵していく。

 記憶のないリリーディアに、シルヴィオの存在を刻むように。

 このままでは、彼からの激しい愛情に溺れて死んでしまうのではないか。

 本気でリリーディアはキスで殺されると覚悟した。

 唇はもう痺れて感覚が曖昧だ。

 ただシルヴィオの熱だけを感じている。

 それだけしか許されない。

 リリーディアにできることは、彼が飽きるまでひたすら耐え続けることだけ。

 頭が空っぽになって、心も無にして、まるで人形のよう。

 これが、シルヴィオの復讐なのだろうか。

 愛の言葉を囁きながら、リリーディアの心を殺していくことが。

 心を捨ててしまえば、楽になれるだろうか。

 どこか投げやりな気持ちになった時――。

 ふいに、リリーディアの頬が濡れた。

 ぽたぽたと、あたたかな何かが次から次へと流れていく。

 ゆっくりと瞼を開くと、それは美しい金の双眸から零れ落ちていた。


(……どうして、シルヴィオが泣いているの?)


 泣きたいのはこちらの方だ。

 記憶を奪われ、母国を奪われ、自由を奪われ、唇を奪われ――。

 次は命を奪われるのではないか、と恐怖しているのはリリーディアなのに。

 シルヴィオが泣いていた。

 眉間にしわを寄せて、苦しそうに顔を歪めて。

 いまだにシルヴィオの唇はリリーディアの唇に触れていて、声をかけることもできない。

 涙に濡れる金の瞳を見つめていると、そっと唇が離れていく。


「姫……俺を嫌いになりましたか?」


 心底後悔しているような表情で、そんな風に問うなんてずるい。

 否定の言葉をあげたくても、唇は痺れてうまくしゃべれない。


(シルヴィオのこと、嫌いになれたらよかったのに……)


 リリーディアは、小さく首を横に振った。

 けれど、彼がしてきたことは許せない。

 許せないのに、憎めない。

 好きな気持ちが消えないのだ。

 彼を憎もうとする度に、胸がズキンと痛む。

 その痛みは罪悪感を伴っていて、リリーディアは直感する。

 記憶にないかつての自分が訴えているのだ。

 彼を憎んではいけない、と。

 嫌いになれない理由付けをしたいのかもしれないけれど。

 シルヴィオがこんなにも歪んでしまったのは、きっと――。


(私のせいなのね)


 しかし、シルヴィオはその原因すらも忘れさせた。

 何も知らず、素直なままのリリーディアを望んだのだ。

 シルヴィオが愛を囁くのは、彼が望むリリーディアの人形。

 それがとても悲しくて、今更になってリリーディアの目から涙が零れ落ちる。

 ちゅっと優しく唇が頬に触れて、シルヴィオがリリーディアの涙を拭う。


「申し訳ございません。姫が俺を嫌いだと言っても、俺はあなたを手放すことはできない」

「……や、ん」

「俺を拒絶しないでください」


 シルヴィオの涙は止まっていた。

 金の双眸は鋭く、リリーディアの動きを制す。


「大丈夫ですよ。姫が苦しいのなら、もう一度忘れさせてあげますから」


 にっこりと、シルヴィオの唇が弧を描く。

 リリーディアのキャラメル色の髪をすくい、口づけた。

 そして、その大きな掌がリリーディアの額にあてがわれる。

 あたたかくて、優しい光がふわりとリリーディアを包み込む。

 魔術が発動している。

 そう気づいたのに、激しいキスのせいで酸欠気味の頭は朦朧として、痺れる唇ではまともに言葉を紡げない。

 それでも。

 このままではまた、同じことの繰り返しだ。


「いやっ、シル、ヴィオ……忘れたく、ない……っ!」


 目覚めてからの日々は、記憶がなくても幸せだった。

 シルヴィオはいつも優しくて、リリーディアを気遣ってくれた。

 きっと、最初から好きだった。

 以前の自分が彼に何をしたのかは分からないけれど、シルヴィオが側にいてくれることに喜びを感じていた。

 記憶は消されてしまったが、恋心は消せなかったのだろう。

 それなら。せめて。自分の心に従おう。


「だいすき」


 呂律の回らない告白。

 シルヴィオが向けてくれるほどの熱情はない。

 それでも、心からの言葉だった。

 どうか届いてほしい。

 そう願って、リリーディアはギリギリで保っていた意識を手放した。

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