5
赤い蝶は扉をすり抜けて、屋敷の外の森へと向かう。
一人では絶対に出てはいけないと言われていたけれど、リリーディアは足を踏み出した。
「どこまで行くの?」
話しかけても、当然蝶は答えない。
しかし、リリーディアが立ち止まると、蝶も止まる。
リリーディアをどこかへ連れて行きたいという意思を感じた。
だんだんとリリーディアの中にはある可能性が浮かんでくる。
シルヴィオだけしか知らなかった時には分からなかっただろうが、今は彼以外の人を知っている。
シルヴィオが絶対に話してくれない過去を話してくれそうな人を。
そして、蝶を追いかけながら、リリーディアは自分の体が問題なく動けていることを不思議に思う。
体力がついたのはもちろんだが、屋敷を離れると魔素の影響があるのではなかったか。
「……魔素への耐性がついたの? それとも」
初めから、魔素の悪影響など受けていなかった……?
どくん。どくん。
森が静かすぎて、やけに心臓の音が大きく感じる。
目覚めた瞬間から、シルヴィオの言葉を疑ったことなどなかった。
言えない何かがあるのだろう、とは感じていたが、シルヴィオへの信頼が揺らぐことはなかった。
療養中の姫である自分に王都から一切の連絡がないことも、護衛が誰一人いないことも、外部から完全に隔離されていることも……。
シルヴィオを信じているから。これは、過去の自分が望んだことだから。
しかし今、リリーディアの目の前には赤い蝶がいる。
この蝶は、普通の蝶ではないだろう。
きっと魔法で生み出された蝶だ。
本当に魔素に耐性がないのなら、きっともう体は異常を起こしている。
どく、どく、どく、どく。
鼓動の音が速くなる。
気温は暑くないのに、額には汗が浮かんだ。
リリーディアの足が止まる。
蝶が導く先にいる人物は、リリーディアに真実を教えてくれるだろう。
その真実はきっと、シルヴィオがずっと隠し通したいと思っていること。
知るのが怖い。
信じていたものすべてが嘘だったら……?
リリーディアは現実を受け入れられるのだろうか。
でも、知らなければ、シルヴィオの心が見えないままで。
リリーディアは彼が何を抱えているのかも知らずに、能天気に笑っているだけ。
そんなの、嫌だ。
「……私は、シルヴィオのことを思い出したいだけ」
たとえ過去に何があったとしても、シルヴィオを想う気持ちは変わらない。
そう覚悟を決めて、リリーディアは再び蝶を追いかける。
そして、屋敷の影が見えなくなる場所まできて、赤い蝶は白く美しい手にとまった。
「よく来てくれたわね、お姫サマ」
赤い蝶の主人は、予想通りの人物だった。
サウザーク帝国の魔術師クロエは、憐れむような眼差しでリリーディアに微笑みかけた。
「あの、どうして私を呼んだのですか?」
わざわざ魔法の蝶を使って。
シルヴィオに気づかれないように。
問う声は緊張で震えていた。
リリーディアの拳には無意識に力が入る。
「あなたと話していることがシルヴィオにバレたら、今度こそ殺されてしまうから、手短に話すわね」
「え? シルヴィオはそんなこと……」
「するわ。彼はあなた以外の人間は平気で殺せる人よ」
クロエが真剣な表情で言うものだから、リリーディアはそれ以上否定の言葉を紡ぐことができなかった。
「それに、シルヴィオはあなたを守るためだけに側にいる訳ではないと思うわ」
「それは、どういう……?」
「あなたの記憶を奪ったのは、シルヴィオよ」
リリーディアはクロエの言葉に息をのむ。
しかし、そこまで驚きはしなかった。
その可能性は考えていたし、覚悟していた。
あぁやはりそうか、とどこかで納得している自分もいる。
怖いのは、その先だ。
何故、リリーディアの記憶を奪う必要があったのか。
(聞かなきゃ……いけないのに……)
聞きたくない。知りたくない。
頭の中では強く警鐘が響いている。
喉が詰まって声にならない。
リリーディアの体が、思い出すことを拒否しているようだ。
このまま、何もなかったことにして、逃げ出したい衝動に駆られる。
(逃げちゃダメ……何のためにここまで来たのよ)
どんなことがあっても彼を信じて、現実を受け入れようと覚悟を決めたはずだったのに。
リリーディアのピンクの瞳に涙が浮かぶ。
本当は、味方かどうかも分からないクロエに涙なんて見せたくはない。
それでも、無意識に涙という形で体はリリーディアに訴えてきている。
思い出してはいけない、と。
胸が苦しい。
そんなリリーディアに近づいて、クロエは優しく頭を撫でた。
「何も知らない可哀想なお姫サマ。わたくしではシルヴィオの術を解くことはできないけれど、綻びを作ることぐらいはできるわ」
「……っ!?」
「ちゃんと思い出しなさい。シルヴィオはあなたにとって、優しいだけの男ではないでしょう?」
クロエの手が離れた瞬間、ズキズキと頭が痛みだす。
頭の中にある記憶の箱がほんの少しずつ、動き出そうとしているような。
駄目だ。今は、耐えられそうにない。
かすかに開きそうだったその蓋をリリーディアは無理やり押さえつける。
頭痛がひどくなって立っていられなくなり、リリーディアはその場にしゃがみ込んだ。
しかし、クロエの言葉を止めることはできない。
「シルヴィオは、あなたのクラリネス王国を滅ぼした男よ?」
頭をおさえるリリーディアの耳元で、クロエが囁く。
どくどくと心臓が嫌な鼓動を立てる。
彼女は一体、何を言っているのだろう。
リリーディアが生まれ、王女となっている王国が滅びているなんて、ありえない。
信じたくなくて、かすかな希望にすがりたくなる。
「う、嘘よ。そんなはずない。だって、物資は王都から届いてるって……っ!」
「あなたは自分の記憶を奪った男の言葉を信じるの?」
「……それはっ」
だからといって、クロエの言葉も信じがたい。
クラリネス王国が滅んでいるだなんて。
たちの悪い冗談にしか聞こえない。
それに、王女の従者であるシルヴィオがどうやって王国を滅ぼしたというのだろう。
「まぁ、あなたが信じようが信じまいが、それが事実よ。クラリネス王国は、一年前にサウザーク帝国の侵略戦争に負けた。シルヴィオはサウザーク帝国の魔術師団長として最前線で戦い、多くの功績を上げたの」
「シルヴィオが……サウザーク帝国の魔術師団長? どうしてっ!?」
「彼をクラリネス王国から追い出したのは、あなただと聞いているわ。そして、わたくしは魔術師団長になったシルヴィオの補佐を務めていたの。クラリネス王国への彼の憎悪は凄まじかったわ」
シルヴィオがクラリネス王国を憎んでいた?
それに、リリーディアが彼を追い出した?
どういうことか分からない。
彼はリリーディアを恨んでいたから、クラリネス王国に攻め入ったのだろうか。
それならば何故、今のリリーディアは大切に守られているのか。
リリーディアが知るシルヴィオとかけ離れすぎて、現実に起きたことだとどうしても思えない。
けれど、もし、本当のことだったなら。
「私の、家族は……?」
かすれる声で、頭痛に耐えながら、リリーディアは必死に言葉を紡ぐ。
思い出そうとしても思い出せない、リリーディアの家族。
他にも、クラリネス王国には大切な人たちがいたかもしれない。
友達もいたかもしれない。
記憶がないせいで、リリーディアは彼らの安否を確かめることもできないのだ。
そのことに今更ながら気づき、不安と恐怖でうまく息ができなくなる。
「クラリネス王家はあなた以外、もう残っていないわ」
クロエの言葉が、リリーディアの心を刺す。
シルヴィオが記憶を奪ってまで、隠したかったのは――。
頭が痛くて、胸が苦しくて、もう何も考えられない。
考えたくない。
「そろそろ行くわ。シルヴィオから逃げたいと思ったら、この子を使いなさい」
ショックが大きすぎて蹲るリリーディアの目の前に、クロエは赤い蝶を差し出した。
「でも、私は……魔素に耐性がなくて……」
「なんだか素直すぎて心配になるわね。あなたがもし魔素に耐性がなければ、あの魔術だらけの屋敷で生活なんてできていないわよ」
クロエが呆れたように溜息を吐く。
魔術だらけの屋敷というのはあまり意味が分からなかったけれど、魔素に近づいても、触れても問題がないということは赤い蝶のおかげで分かった。
「そう、だったの……」
「それじゃあ、これからのことをよく考えることね」
そう言って、クロエは強く吹いた風とともに消えてしまった。
転移魔法だろうか。
茫然とクロエが消えた先を見つめていたが、遠くから自分を探すシルヴィオの声が聞こえて我に返る。
「これからのこと……」
シルヴィオと二人だけの、甘くて優しい生活。
何も知らないままでいたなら、きっと、彼を疑うことなく続けられた。
まだクロエから聞いた話はどこか遠い世界の話で、自分には関係ない話のような気がしている。
それでも、実際に起きた出来事で、現実なのだとしたら。
シルヴィオがリリーディアを恨んでいるとしたら……。
信じていたあの優しい手が、いつかリリーディアの命を奪う日がくるのだろうか。
クラリネス王国を滅ぼしたように。
リリーディアの記憶を奪ったように。
しかし、これだけは確かだ。
リリーディアはもう、何も知らなかった頃には戻れない。
ガラガラと幸せが崩れ出す音がした。
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