3
愛しい彼女に背を向けて、シルヴィオは自室に戻った。
はあ、と長い息を吐きながら、床に座り込む。
「……あんなの、真正面から受け止めたら死ぬ」
天使のごとき微笑みで、リリーディアはシルヴィオを好きだと言った。
何も知らない無垢な笑顔に胸が締め付けられて。
好意を向けられたことが嬉しくて。
可愛くて、抱きしめたくて、でも触れるのが急に怖くなった。
これは、都合の良い夢だから。
絶望した世界を塗り替えて、シルヴィオが作った、まやかしの夢。
リリーディアと二人だけの世界。
愛しくて、大切で、純粋に幸せを望める優しいこの世界は、楽園そのもの。
それを作るために、シルヴィオはすべてを捨てた――はずだったのに。
「まさか、俺を追ってくるとはな」
眉間にしわを寄せ、シルヴィオは独白する。
サウザーク帝国の魔術師になったのは、リリーディアを守れるだけの強さを手に入れるためだった。
かつてのシルヴィオには、彼女を守り切るだけの力がなかったから。
しかし、彼女を手に入れた今、サウザーク帝国には未練も興味もない。
シルヴィオは目的を果たして辞めてすっきりしていたが、サウザーク帝国はまだ自分を諦めていないらしい。
「皇帝も勅命など、余計なことを……」
リリーディアの笑顔を見守るだけの日々を永遠に続けていきたいシルヴィオにとって、クロエという追手は非常に面倒だった。
彼女は、魔術を感知することと、結界をかいくぐることを得意としていた。
シルヴィオの魔術の気配をたどり、この屋敷までたどり着くことができたのはさすがと言ったところだ。
クロエは派手な美女ではあるが、魔術師としても優秀だった。
己の美貌を武器にして、魔術を行使することもあった。
サウザーク帝国にいた頃、シルヴィオにも色仕掛けを実行してきたこともある。
まったく心を動かされることはなかったし、術式の粗について指摘すれば、顔を真っ赤にして怒っていた。
リリーディア以外の人間は皆等しく興味がわかない。
彼女に害をなすものがあれば、全力で叩き潰す。
それは人でも同じこと。
だから、ついこの間まで味方として任務をこなしていたクロエのことも、シルヴィオは敵とみなしていた。
――彼女に何を話した?
――あなたが従者ごっこをしているようだったから、お姫サマに真実を教えてあげたのよ。
クロエは、リリーディアに余計なことを話してくれたようだ。
真実なんていらない。
それがどれだけの絶望を生むのか理解もせずに。
軽々しく、何も知らない他人が、この楽園に踏み込んでくるなんて許せない。
――他人の記憶を封じるなんて、そんなことが許されると思っているの!?
強制的に結界から締め出す直前、クロエは哀れみのこもった瞳でシルヴィオにこう言った。
正論なんて、もっといらない。
シルヴィオが許しを乞うのはただ一人。
しかしそれでも、シルヴィオはやめないだろう。
別に許されなくてもいい。シルヴィオにとっての最善を選んだだけだ。
彼女が存在している”今”があればいい。
だから、後悔なんてしていない。
後悔なんて。もう二度とするものか。
シルヴィオは血がにじむほどの強さで拳を握る。
――シルヴィオ。あなたはもう私には必要ないわ。
三年前、シルヴィオはリリーディアに捨てられた。
国外追放され、シルヴィオが行きついた先がサウザーク帝国だった。
リリーディアを諦めきれなかったシルヴィオは、実力主義のサウザーク帝国で魔術師となり、実績を上げたのだ。
「俺はもうリリーディアの側を離れない」
それがたとえ彼女の意思に反していたとしても。
そのために、この屋敷はシルヴィオが完璧に作り上げた。
部屋の壁に立てかけた鏡には、一人でキッチンに残るリリーディアが映っていた。
この屋敷内で、リリーディアの動向が把握できない場所はない。
シルヴィオの部屋一面には、びっしりと複雑な魔法陣が描かれている。
だから、シルヴィオが魔術師だということも知らない彼女には、この部屋は見せられない。
室内に調度品の類はほとんどなく、魔法を行使するためにしか使っていない。
外部から屋敷を隠し、部外者をはじくため、複数の魔法を重ねている。
シルヴィオは魔法陣なしで魔法を使えるが、常時発動しなければならない魔法については魔法陣が最適だ。
しかし、クロエの侵入を許してしまった。
魔法陣を書き換える必要がある。
リリーディアからの好意をまっすぐに受け止められず、逃げ出すように部屋に帰ってきたのはそのためだ。
魔法陣の術式を組み直すことに集中していたシルヴィオは気づかなかった。
リリーディアの目の前に、赤い蝶が現れたことに。
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