第3章 それはもうすぐ終わる夢

「姫、もう少し力を入れて」

「こ、こうかしら?」

「まだ弱いです」


 こうするんですよ、と耳元で囁かれたと思ったら、背後からシルヴィオが覆いかぶさるようにして手を伸ばしてきた。

 リリーディアの手に、シルヴィオの優しい手が上から重なる。


「生地をこねる時はこれぐらいしっかり力を入れないと駄目ですよ」


 キッチンには、小麦粉とバターの香り。

 シルヴィオの指導の下、リリーディアは初めてのパン作りをしていた。

 しかし、まるで後ろから抱きしめられているような体勢にドキドキしすぎて、生地のこね方なんて頭に入らない。

 そして、シルヴィオも絶対にそれを分かって楽しんでいるような気がする。


「姫?」


 だからこうして、至近距離で顔を覗き込んできたりするのだ。

 彫刻のように整った顔立ちが恨めしい。

 鼓動を落ち着かせたいのに、これでは速まるばかりだ。


「ち、近いわっ!」

「え、そうですか?」


 悪びれない爽やかな笑顔を浮かべながら、シルヴィオはパン生地をこねていく。

 リリーディアの手も一緒に。

 その大きな骨ばった手が、小さく細いリリーディアの手の甲をそっと撫でた。

 甘いしびれが手から全身へと走り、リリーディアはとっさに手を引いてしまう。

 しかし、その手はシルヴィオの手に包み込まれる。


「姫が一緒に料理をしたいと言ったのに、どうして逃げるのですか?」

「わ、私が言った一緒にっていうのは、こういうのではなくて、その……っ」

「分かっていますよ。少しからかいすぎました。姫とパンを作るなんて初めてなので」

「え……?」

「では、窯の準備をしてきますね」

 

 そう言って笑うと、シルヴィオはつい先程までの距離感が嘘のようにあっさりと身を引いた。

 その変わり身に驚きつつ、リリーディアは内心ほっとしていた。

 あのまま密着していたら、きっとリリーディアの心臓はもたなかった。


「こうやって、手の平で形を整えてください」

「分かったわ」


 シルヴィオが形作るきれいな丸い生地を見て、リリーディアも真似をしてやってみる。

 小麦粉を軽くつけた手で、少しねばついた生地を丸めていく。

 コロコロ、コロコロ。

 リリーディアの手で丸めると、シルヴィオのものよりも小さなたねができる。

 初めてにしては上出来だ、とリリーディアの顔には自然と笑みがこぼれる。


「ねぇ、けっこう上手くできたんじゃない?」

「はい。とってもお上手です」


 シルヴィオにも褒められて、リリーディアは上機嫌でパン生地を丸く形成していく。

 楽しそうに作業をしているリリーディアをシルヴィオは笑顔で見守っていた。


「生地を寝かせている間、少し休憩しましょうか。ハーブティーでもいかがですか?」

「賛成よ。そうだ、ハーブティーも淹れてみたいわ!」


 シルヴィオが淹れてくれる紅茶やハーブティーは格別だ。

 飲むと体だけでなく、心まであたたかくなる。

 だから、シルヴィオにも淹れてあげたいと思ったのだ。

 両手をパンと合わせて、リリーディアはにっこりと微笑む。

 その拍子に、白い小麦粉がふわりと舞ってしまう。


「姫、顔が白くなっていますよ」


 そっと、シルヴィオがどこからか取り出したハンカチでリリーディアの頬や鼻についた粉を拭う。

 慈しむように見つめる眼差しにどきりとして、リリーディアは目線を逸らす。


「なんだか、いつにもましてはしゃいでいますね」

「だって……シルヴィオは私とこういうことをするのは“初めて”なのでしょう?」

「そうですが、それは姫もでしょう?」


 リリーディアの言葉に、シルヴィオは不思議そうに首を傾げた。


「私とシルヴィオでは違うわ。シルヴィオは、記憶のない私との思い出を持っているのでしょう? だから、今の私があなたと何かをしても、きっとシルヴィオにとっては多くのことが二度目だろうし、日常になってしまうもの」


 記憶喪失のリリーディアには、当然シルヴィオとの思い出はない。


(一緒に過ごしていたのが“私”だとしても、私の知らない“私”だもの)


 クロエがシルヴィオを親し気に呼ぶ姿に嫉妬したみたいに、シルヴィオを知るかつての自分が羨ましかった。


「でも、ようやく私もシルヴィオと初めてを経験できて、嬉しいなって……っ」


 最後まで言い終える前に、リリーディアはシルヴィオに抱きしめられていた。

 最近、シルヴィオによく抱きしめられている気がする。

 だからといって慣れるはずもなく、リリーディアの心臓は彼が離れるまで大暴れしていた。

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