壊れないよう慎重に、そっと撫でてくれる優しい手が好きだ。

 深い眠りから意識が浮上すると、真っ先に思い浮かんだのはそんなことで。

 リリーディアは目を開けて、すぐ側で自分の眠りを見守っていた従者を見つめた。


「お目覚めですか、姫」


 いつもと変わらない笑顔。いつもと変わらない口調。

 リリーディアも、いつもと同じだと錯覚してしまいそうになる。

 しかし、起き上がってみると、着ているワンピースは散歩に出た時のものだし、ベッドの近くに揃えて置かれた靴は茶色の編み上げブーツだ。


(あれは、夢じゃなかったのね……)


 サウザーク帝国の魔術師クロエがシルヴィオに会いに来たこと。

 彼女が話した言葉は断片的にしか思い出せない。

 ただ、はっきりと覚えているのは……。


 ――あなたが従者だと信じているシルヴィオは、あなたの従者ではないわ。


 シルヴィオが従者ではないと彼女は断言していた。

 サウザーク帝国の魔術師が何故、シルヴィオのことを知っているのか。

 そもそも、サウザーク帝国とはどこの国だろう。

 クラリネス王国とはどんな関係があるのか。

 自分の国のことすらまだ何も分かっていないのに――。

 リリーディアは知らないことが多すぎる。

 考え始めると、頭がズキズキと痛みだす。


「うぅ……頭が、痛い……っ」

「姫っ! 大丈夫です、何も怖いことはありませんよ。俺が、あなたを守りますから」


 ――今度こそ。


 頭をおさえるリリーディアをシルヴィオはそっと抱きしめた。

 この優しい手が、リリーディアを傷つけることはない。

 この優しい人が、リリーディアを騙すはずがない。

 だんだんと頭痛が収まってきたが、リリーディアは甘えるようにシルヴィオの胸に頭を寄せる。

 あたたかな温もりを感じながら、無理に思い出そうとするな――というシルヴィオの忠告を思い出していた。

 シルヴィオはきっと、こうなることを予測していたのだろう。

 本当にリリーディアのことを本人以上によく分かっている。


「シルヴィオ、お願いがあるの」

「はい。何でもおっしゃってください」


 シルヴィオは優しい声音で頷いて、リリーディアを抱く腕に力を込めた。

 鼓動すら聞こえるほど密着していることに、今更ながらリリーディアはドキドキしてしまう。

 きっと、シルヴィオにもリリーディアの速すぎる鼓動の音が聞こえているだろう。

 自分から近づいておいて、ひどく後悔した。

 こんなにドキドキした状態では話ができない。


「……あの、まずは放してもらえる? もう大丈夫だから」

「嫌です。姫は大丈夫かもしれませんが、俺が大丈夫ではありません」

「えっ、シルヴィオ、どこか具合が悪いの?」


 リリーディアが眠っている間に、彼に何かあったのだろうか。

 もしかして、魔術師に襲われて怪我をしてしまったのか。

 心配になり、リリーディアはシルヴィオの腕から抜け出して、その引き締まった体を触って確かめる。

 外傷はなさそうだ。

 それなら、とシルヴィオのきれいな顔を両手で包み、リリーディアはじっと観察する。

 突然のリリーディアの行動に、金色の瞳が見開かれる。


(顔色は悪くなさそう……)


 よく見てみると、少しだけ頬が赤いような気がする。

 熱でもあるのだろうか。

 リリーディアはシルヴィオの額に自分の額を当ててみる。


「熱もないみたいだけれど……」


 一体どうしてしまったのだろう。

 リリーディアにされるがままのシルヴィオなんて珍しい。

 やはりどこか調子が悪いのだ。

 いつもリリーディアのことばかりで、シルヴィオは自分の体調管理には無頓着なところがある。

 今までも、誰にも言わずに一人で苦しんでいたかもしれない。

 そう思うと、彼のことはリリーディアがちゃんと気にかけておかなければならないと心に刻む。


「シルヴィオ、どこが大丈夫じゃないの?」

「……姫が可愛すぎて、俺の心臓がもちそうにありません」

「え……っ?」


 まっすぐにこちらを見つめる金の双眸は熱くて、甘い。

 その熱に浮かされるように、リリーディアの頬も赤く染まる。

 照れくさくて、顔を背けようとしたリリーディアをシルヴィオの両手が阻む。

 仕返しとばかりに、シルヴィオはリリーディアの頬を優しく包み、じっと見つめてくる。


「姫は今、幸せですか?」


 唐突に、そして真剣に、シルヴィオが問う。

 大切な思い出も、悲しかった思い出も、他愛ない日常の思い出も、今のリリーディアには何もない。

 記憶喪失になったことが不幸だと感じていたならば、リリーディアは今、幸せではないだろう。

 しかし、記憶がないことに寂しさは感じても、不幸だとは思ったことはない。

 だから、正直な気持ちをシルヴィオに伝える。


「えぇ。私はシルヴィオと一緒にいられて幸せよ」


 心からの笑みを浮かべて頷くと、シルヴィオは泣きそうな顔をしてリリーディアを抱きしめた。

 そのせいで、シルヴィオの顔が見えなくなってしまう。


(もしかして、シルヴィオが甘えてる?)


 なんだか可愛い。

 リリーディアは彼の背中に手をまわし、よしよしと撫でる。

 しばらく大人しくリリーディアに撫でられていたシルヴィオだが、思い出したように抱擁を解く。


「それで、姫のお願いとは何ですか?」

「あのね、私にも掃除や料理を教えてほしいの」

「姫がするようなことでは」

「だからお願いしているの。私がシルヴィオと一緒に何かしてみたいのよ」

「……分かりました」

「ありがとう、シルヴィオ」


 本当は、真実を教えて欲しいとお願いするつもりだった。

 けれど、これだけリリーディアを大事にしてくれるシルヴィオが話さないのだから、もしかすると知るべきことではないのかもしれない。

 少し考えるだけでも頭痛がするのだ。

 シルヴィオが言うように、リリーディアに必要なことであれば、きっと自然と思い出せるはず。

 それに、リリーディアは初対面のクロエの言葉よりも、シルヴィオを信じたい。


(いつか、話してくれるわよね?)


 ――シルヴィオと一緒にいられるなら、私はいつまでも待つから。

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