2
森の空気は澄んでいて、耳をすませば小鳥のさえずりが聞こえてくる。
気温は暑すぎず、寒すぎず、あたたかな木漏れ日が心地いい。
リリーディアは今、屋敷周辺の森の中をシルヴィオと二人で散歩中だ。
動きやすいようにと、膝下丈のワンピースに着替えている。
ピンクの布地に花柄の刺繍が施されたワンピースは、一目で気に入った。
花モチーフのバレッタも、茶色の編み上げブーツも。
シルヴィオが選んでくれた物はどれも可愛くて、さすがリリーディアの好みを熟知しているだけある。
(やっぱり外に出ると、気分転換になるわね)
目が覚めて、リリーディアが外に出るのは今日が初めてだ。
自分の足で一歩踏み出すごとにワクワク感が沸き上がってくる。
上を見上げればどこまでも続く青い空が見え、緑豊かな森の中は空気もおいしく感じる。
しかし、隣を歩くシルヴィオは少し緊張しているのか、いつもより口数が少ない。
きっと、リリーディアの体を心配しているのだろう。
気にかけてくれるのは嬉しいけれど、シルヴィオの心配は過剰だ。
彼にも一緒に楽しんでほしいのに。
リリーディアがそう思った時、心躍る存在が目に入った。
「見て、シルヴィオ! リスがいるわ!」
木の枝に野生のリスがいるのを見つけて、リリーディアは声を上げた。
茶色の小さな体に大きなまんまるの瞳が可愛らしい。
「なんて可愛いのかしら」
木の実を両手に挟んでかじっている。
近くに巣があるのか、仲間のリスも寄ってきた。
「か、可愛いがいっぱい……!」
記憶がないから、初めて見るリスにリリーディアは大興奮だった。
そんなリリーディアの隣で、シルヴィオもにこにこと笑みを浮かべている。
いつもより楽しそうなシルヴィオに、リリーディアも嬉しくなる。
「シルヴィオも、リスが好きなの?」
「いいえ」
「え? でも……とても楽しそう」
「楽しいですよ。姫の笑顔がたくさん見られるので」
「そ、そう?」
シルヴィオの基準はやはりリリーディアのようだった。
じっと見つめられると照れてしまう。
リリーディアは再びリスに視線を戻した。
「姫が望むなら、あのリスを連れてきましょうか?」
「ううん、あの子たちの生活を人間の手で邪魔したくないもの」
「姫は本当にお優しい」
「ふふ、シルヴィオは私に甘すぎるわ」
「そんなことはありませんよ」
くすりとシルヴィオが笑う。
彼は自分がどれだけ甘いのか自覚していないようだ。
しかし、それをいちいち指摘することはもうしない。
リリーディアとて、シルヴィオと過ごすうちに学習しているのだ。
リスから目を離し、リリーディアはまた歩き出す。
そして、白く美しい花を咲かせる木を見つけた。
「まあ、とてもきれいな花!」
甘い香りに誘われるようにその木に近づこうとすると、リリーディアの手をシルヴィオが掴んで止めた。
こんな風に突然触れてくることはなかったので、どきりと心臓が跳ねる。
「姫、それ以上はいけません」
そう言って、シルヴィオは握った手に力を込める。
リリーディアはドキドキしながらも、その意味を考える。
シルヴィオの表情は真剣で、リリーディアは大人しく立ち止まった。
彼が笑みを消す時はたいていリリーディアに良くない影響を与える時だ。
屋敷の外は、リリーディアにとって安全とはいえない。
だからこそ、シルヴィオが一緒でなければこうして外に出ることもできないのだ。
それは何故か――。
「……もしかして、この木が目印なの?」
「そうです。この木が結界の要になっているのです」
屋敷に魔素を寄せ付けないためだろう、木は屋敷を取り囲むように植えられている。
魔素がないから、ここには魔物も存在しない。
しかし、この木の向こう側は徐々に魔素が増え、魔物も存在するのだという。
「じゃあ、私はこの木に守られているのね。この木は、何というの?」
少し離れた位置から木を見上げ、リリーディアは問う。
何も知らずに守られているだけの自分を少しだけ悔しく思いながら。
「ハナミズキです。ハナミズキの樹液は、魔素を中和する薬にもなるんですよ」
「シルヴィオは何でも知っているのね」
「姫に関わることですから、勉強しました」
誇らしげにシルヴィオが笑みを浮かべた。
リリーディアのせいで――と考えるのはもうやめた。
シルヴィオの幸せはリリーディアの側にあると信じてもいいだろうか。
(シルヴィオには本当に助けられているわ)
リリーディアが感謝の言葉を告げようとした時――。
「ストリヴィア師団長!」
ハナミズキの向こう側から、男性の叫び声が聞こえてきた。
(ストリヴィア師団長って、誰かしら?)
この辺りには、リリーディアが療養する屋敷しかないはずだ。
しかし、ストリヴィア師団長という人の名は聞いたことがない。
というか、リリーディアはシルヴィオ以外の人を知らない。
「ねぇ、シルヴィオは誰か知って……――?」
話しかけようとして、リリーディアは途中で息をのむ。
シルヴィオの纏う空気が変わっていた。
金の瞳には光がなく、冷たい無表情で。
笑顔のシルヴィオしか知らないリリーディアは、驚いて固まってしまう。
その間にも、近くで男性は「ストリヴィア師団長」を探している。
「……姫、この森に迷い込んだ愚か者がいるようですので、道案内をしてきます」
「え、えぇ」
「姫は先に屋敷に戻っていてください。いいですね?」
「分かったわ」
リリーディアが頷いたのを確かめて、シルヴィオは握っていた手を離した。
そして、リリーディアに背を向けて木々の向こう側へと向かう。
リリーディアが、足を踏み入れられない結界の外へ――。
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