読んでいた本を閉じた時、ノックの音がした。

 返事をすると、シルヴィオが笑顔で入ってくる。

 その手にはお菓子を乗せたトレーがあり、もうおやつの時間かとリリーディアは時計を見た。

 振り子時計は午後三時を指している。


「姫、今日は何を読んでいたのですか?」

「眠り姫の物語です」

「面白かったですか?」

「はい。愛する王子様に救われて、ハッピーエンドだったからとても安心しました」

「そうですか。それはよかったですね」


 目覚めてから、一週間が経っていた。

 屋敷から出ることができないリリーディアのために、シルヴィオはたくさんの本を用意してくれた。

 以前のリリーディアの趣味は読書だったのだという。

 文字が読めるか不安だったが、日常生活に関わることは覚えているようだ。

 だから、文字の読み書きも、食事のマナーも、ドレスの着替えも、シルヴィオに教えてもらうまでもなく、自力で何とかできた。

 その日から、リリーディアの日課は読書になった。

 そして、シルヴィオはといえば、リリーディアが読書をしている間にお菓子を作ったり、屋敷の掃除をしたり、買い出しに行ったり、料理をしたり――忙しく動き回っている。

 この屋敷には、シルヴィオ以外の使用人はいない。

 すべてを一人でこなすシルヴィオに、リリーディアも何かできることはないかと申し出たが、断られてしまった。

 療養中の姫に頼める用事などない――と。

 それが少し寂しかったが、シルヴィオはいつもリリーディアの側にいてくれる。


「このクッキー、花が咲いているわ!」


 テーブルの上に並べられたクッキーには、紫の花が咲いていた。

 見た目も可愛いクッキーに興奮し、思わずリリーディアは声を上げる。


「姫が喜ぶだろうと思って、食用の花を育てていたんですよ」


 紅茶を淹れると、シルヴィオも向かい側に座った。

 二人しかいないこの屋敷で、主従が同じテーブルにつくことを咎める者はいない。

 三時のティータイムも、朝食と夕食も、リリーディアはシルヴィオと食卓を囲っている。

 そうして二人で他愛ない話をすることが、とても好きな時間だった。


「食べられるお花があるなんて、驚きました。でも、可愛くて食べるのがもったいないわ」

「その花は姫に愛でてもらえて幸せですね。羨ましいです」

「ふふ。大げさです」

「本心ですよ。でも、せっかく作ったので、愛でるばかりでなく是非食べてみてください」


 一瞬、シルヴィオに向けられる視線を熱く感じて、胸がきゅっと締め付けられた。

 しかし、シルヴィオはすぐにいつもの柔和な笑みを浮かべてしまう。

 気のせいだ。

 リリーディアは胸に残る切なさを忘れるように、花のクッキーを手に取った。


「ん、美味しいっ」


 花のクッキーは、ほんのりと花の香りが広がって、リリーディアの不安を消し去るような甘く優しい味わいだった。


「こんなに可愛くて、美味しいクッキーが作れるなんて、本当にすごいですね」

「俺は別にすごくないですよ。でも、姫のお口に合ったようで何よりです」


 そう言って微笑み、シルヴィオもクッキーを口にする。

 二人でクッキーを頬張り、紅茶を飲む。

 ゆったりとした穏やかな時間が流れていた。


「……あの、私が本を読んでいる間、シルヴィオは何をしていたの?」


 ここ数日で努力していることの一つに、シルヴィオへの敬語をやめることがある。

 敬語で話す度に、シルヴィオが少し寂しそうな顔をするから、呼び捨てと敬語なしで話すように練習しているのだ。


「俺はいつも姫のことばかり考えていますよ」


 愛の告白のような言葉を真剣な眼差しで言われてしまい、心臓が暴れ出す。


「そ、そういうことを聞いているのではなくて……!」


 何故だかとても顔が熱い。

 リリーディアが赤く染まった顔で否定すると、シルヴィオは楽しそうに笑う。

 きっと、からかわれたのだ。

 悔しくなって、リリーディアは唇を尖らせる。


「姫はどんな表情をしても可愛いですね」

「……~~っ!?」


 恥ずかしくなって、リリーディアは両手で顔を覆う。

 しかし、シルヴィオの手がそれを阻んだ。


「隠さないでください。可愛い姫を独り占めできるのは、従者である俺の特権ですから」


 その一言でさらに顔は熱くなり、心臓は鼓動を速める。

リリーディアはいっそ気絶してしまいたかった。


(だ、駄目よ。ここで気絶したら、また大変なことになるわ)


 この一週間で気づいたことだが、シルヴィオはリリーディアに過保護すぎる。

 階段でつまずいただけでシルヴィオのエスコート(お姫様抱っこ)でなければ屋敷内を歩けない日もあったし、少し咳込んだだけで一日中ベッドに張り付かれたこともあった。

新しいドレスを着た日には世界で一番可愛いと絶賛されて、なんだかとても恥ずかしい思いをした。

 もしここで気絶したら、またベッド生活に逆戻りだ。

 せっかく最近は屋敷の中を歩いてもいいと許可をもらったのに。


「そ、そういうことを言うのはやめて」

「どうしてですか?」

「は、恥ずかしいから!」

「恥ずかしがっている姫も可愛いのでやめられません」


 駄目だ。何を言っても甘い言葉が返ってきてしまう。

 リリーディアは内心で頭を抱えた。

 いっそ作戦を変えるべきかもしれない。


「……シルヴィオは、意外と意地悪ですね」


 リリーディア絶対主義者の節があるシルヴィオの手綱を握るためには、少しばかり冷たい態度も必要かもしれない。

 そう思い、リリーディアはため息を吐いて顔を背けた。

 本気でシルヴィオを傷つけてはいないかとドキドキしながら。


「姫、怒りましたか?」


 つい先程までの態度が嘘のように弱々しい声が聞こえてきた。

 効果はあったようだ。

ほんの少しの罪悪感はあるけれど、シルヴィオの過保護ぶりに困っているのも事実。

リリーディアは覚悟を決めて口を開く。


「べ、別に怒ってはいません。ただ、シルヴィオは私を甘やかしすぎですわ!」

「そんなの当たり前ですよ。姫をたっぷり甘やかすのが俺の仕事ですから」


 幸せそうに笑うシルヴィオを見て、リリーディアの心はズキンと痛んだ。

 そうだ。シルヴィオがリリーディアの側にいるのは、従者で、仕事だから。

どれだけ甘やかされても、勘違いしてはいけない。

仕えるべき姫を彼は誠実に大切に守ってくれているだけ。

療養生活の世話についても、きっと給金が払われているはずだ。

 この関係は、仕事上のもの。

 気づかないふりをしていたこの事実に、心が悲鳴を上げている。

 シルヴィオが今のリリーディアの世界のすべてだから。

 それに――。


(私は、シルヴィオのことが……きっと、昔から)


 彼に抱く気持ちは同じだったはずだ。

 そうでなければ、目覚めてすぐに出会った人にこんな感情抱かない。

 シルヴィオのことが好き――好きになってしまった。

 かつての自分の感情に、少しだけ触れた気がした。

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