ノックの音がしたかと思うと、甘い香りとともにシルヴィオが入ってきた。

 焼き立てのアップルパイがリリーディアの目の前のテーブルに置かれる。

 そして、彼は一緒に持ってきたティーセットで、紅茶を淹れ始めた。

 流れるような美しい所作に、リリーディアは思わず見惚れてしまう。


「どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

「俺は姫の従者です。敬語はいりませんよ」

「……で、でも。何も、覚えていない、ので」

「分かりました。それでは、俺に慣れるまでは敬語でもかまいません」


 頷いて、シルヴィオはリリーディアの隣に座った。

 ナイフとフォークで器用にアップルパイを切り分けたかと思うと、彼はリリーディアの口の前にフォークを差し出す。

 ご丁寧に、ふうふうと粗熱を冷まして。


「さぁ、お食べください」

「えっ!? あの、自分で食べられます」

「駄目ですよ。姫に食べさせるのも俺の仕事ですから」


 シルヴィオは、にっこりと笑みを浮かべて当然のことのように言う。

 リリーディアが戸惑っているうちに、美しい青年従者がアップルパイを手に迫ってくる。


「はい、あ~ん」


 その勢いに負け、リリーディアはおずおずと口を開いた。

 シナモンの風味が効いた甘い林檎と、サクサクのパイ生地が口の中で程よく混ざり合う。

 甘くて、美味しい。

 なるほど、これはたしかに好物かもしれない。

 リリーディアは思わず笑みをこぼしていた。

 その様子を、幸せそうにシルヴィオが見つめている。

 シルヴィオの視線に気づくと、羞恥に頬が熱を持つ。


「あの、そんなに見ないでください」

「どうしてですか?」

「恥ずかしいからです……」

「すみません。姫が可愛いので、つい」

「……っ!?」

「はい、もう一口どうぞ」


 とんでもない一言をさらりと言って、シルヴィオは何食わぬ顔でアップルパイを差し出す。


「……以前の私も、本当にこうして食べていたのですか?」


 そうだとしたら、とんでもなく強心臓の持ち主だ。

 今のリリーディアは、シルヴィオの金の双眸に見つめられるだけで落ち着かないというのに。

 しかし。


「いいえ。今の姫は記憶喪失なので、食べさせてあげようかと」


 ただの行き過ぎたお節介だったようだ。


「た、食べ方は覚えているので大丈夫です!」

「そうですか。残念です」


 本気で残念そうに肩を落とすシルヴィオに罪悪感を覚えるが、一口食べるごとにドキドキしていては心臓がもたない。

 せっかくの美味しいアップルパイの味も分からなくなりそうだ。

 リリーディアはナイフとフォークを手に、自分でアップルパイを食べ始める。

 シルヴィオから注がれる視線には気づかないふりをして。


「美味しかったです。あの、ごめんなさい。食べきれなくて……」


 どうやらリリーディアは小食のようで、半分以上残してしまった。

 シルヴィオが自分のために作ってくれたのに。

 申し訳ない気持ちでいっぱいで、リリーディアは謝罪する。


「いいんですよ。一口でも食べてくれれば」

 

 シルヴィオは気を悪くした様子もなく、にこやかに答える。

 カップに残った紅茶を飲み干して、リリーディアはシルヴィオをまっすぐ見つめた。


「……私に何があったのか、教えてもらえませんか?」


 記憶がないせいで、リリーディアという存在が自分の中で迷子になっている。

 “リリーディア”を見つける手がかりは、目の前のシルヴィオだけだ。

 彼が知る自分の過去を知れば、何か思い出すかもしれない。

 どうして記憶喪失になったのか。

 どうして森の中にいるのか。

 どうしてこんなにも健康状態が悪いのか。

 どうして王女である自分の側にシルヴィオしかいないのか。

 自分の置かれた状況が分からなければ、これからどうすればいいのかも分からないから。


「目覚めたばかりの姫にあまり無理はさせたくないのですが……」

「何も分からない方が不安です」

「そうですよね。もしかしたら、もうお気づきかもしれませんが、姫は元々体が強くありません。クラリネス王国の王都には魔素が多く、魔素に耐性のない姫は療養するためにこの森へ来たのです」

「魔素……?」

「あぁ、魔素のことも忘れているのでしたね。魔素とは、魔術を使うために必要な魔力の元になるものです」


 魔素とは、この世に存在するすべてのものの中に存在する。

 空気中であったり、物質の中だったり、生き物の中であったり。

 人間の体にも少なからず魔素は存在しているが、魔素が生命力となる生き物が魔物と呼ばれる。

 人間が酸素を吸って呼吸をしているように、魔物は魔素で生きているのだ。

 そして、魔術師は魔素を使って様々な魔法を駆使する。

 シルヴィオの説明をリリーディアは空っぽの頭に詰め込んでいく。


「姫が記憶喪失になったのも、王都で魔素の影響を強く受けてしまったからでしょう」


 王女でありながら、リリーディアは魔素に耐性がなかったようだ。

 少し身体がやつれているのも、体力がないのも、食が細いのも、魔素の影響なのだろうか。


(記憶を喪ったり、体調にこんなに影響があるなんて……)


 目に見えない魔素に不安を抱いていると、シルヴィオが優しく微笑んだ。


「安心してください。この屋敷には魔素を寄せ付けない結界を張っていますし、周囲の森には魔素を弱める木が生えていますから、これ以上影響はないはずです」


 そうでなければこんな森の中に王女を一人で住まわせるわけがない。

 心配することは何もないのだとシルヴィオが断言する。

 シルヴィオの言葉に、リリーディアはホッとする。


(そういえば、他の人はいないのかしら……?)


 目が覚めてから、シルヴィオ以外の人間を見ていない。

 アップルパイも彼が作ってくれたようだし、この屋敷にはシェフがいないのだろうか。

 さすがに王女の身の回りの世話を彼一人に任せたりはしないだろう。

 だったら、他の人にも挨拶をするべきではないのか。

 もしかしたら、何かのきっかけで思い出すかもしれない。

 そう思い、リリーディアは口を開く。


「あの、私の世話をしてくださる他の皆さんにもご挨拶をしたいのですけれど……」

「姫、その必要はありませんよ」

「え、どうして……」

「姫の側にいるのはこの俺だけですから」


 にっこりとシルヴィオが微笑む。

 王女と従者の二人だけで、こんな森の奥にある屋敷に住んでいるのか。

 驚くリリーディアに、シルヴィオが説明する。


「これは、姫が望んだことでもあるのですよ。あまり大勢の人間に囲まれていると緊張して療養にならないからと、従者である俺だけを連れて療養することを決めたのです」

「そうだったのですね……でも、一人で大変ではありませんか?」

「いいえ、まったく」


 きっぱりとそう言って、シルヴィオは改めてリリーディアに目線を合わせる。


「いいですか、姫。ここには療養にきています」

「はい」

「ですから、これだけは守ってください」


 ――無理に記憶を思い出そうとしないこと。

 ――この屋敷から一人で出ないこと。


 シルヴィオは真剣な表情で忠告する。

 その言葉や表情のすべてから、彼がどれだけリリーディアを心配しているのかが伝わってきた。


「いいですね?」

「……はい」

「よかった」


 リリーディアが頷くと、シルヴィオは安堵の笑みをこぼす。

 彼の笑顔に目を奪われて、リリーディアの心臓はまた落ち着かなくなる。


(従者相手にドキドキしてしまうなんて……)


 これもきっと、記憶がないせいだ。

 以前の自分は、シルヴィオとどのように過ごしてきたのだろう。

 無理に思い出そうとするな、と言われても気になってしまう。

 自分のことよりも、シルヴィオのことが。

 彼のことを知りたい。

 心の奥底から沸き上がった感情に、リリーディアはどきりとする。

 この感情は、喪った記憶とつながっているような気がしたから。

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