イッツ・ア・スモールトーキョー
左肩にかけた脚立が留め具を留め忘れていたようでカシャンと喧しい音を立てた。留め具をかけるために一旦肩から脚立を下ろそうとすると後ろから伸びて来た手がその留め具をかちゃりとかける。振り向けばそこには美女がいた。
「ありがとうございます」
「倉庫に行かれるんですよね。倉庫から荷物出すの手伝ってもらえませんか?」
「もちろんいいですよ」と答えると彼女は「ありがとうございます」とにっこりと笑い、俺の隣を歩き始める。それから数歩も歩かないうちに「楽しいですか?」と脈絡もなく問いかけてきた。「小さな出版社の雑誌の物撮りカメラマンなんて勿体ない」とこの仕事を始めてから何度か言われていた。だから些か唐突ではあったものの、問いそのものに驚くことはなかった。
「楽しいですよ。それに毎月決まったお給料が振り込まれるなんてこんなに有り難いことはないです」
「紫史くんの写真、社内でも好評だけど紫史くんってもともと人を撮る人なんでしょう?」
俺の返答をほとんど待たずに彼女は喋り出す。彼女の言葉には勘ぐるとか憐れむといった他意が含まれていない。だから彼女と喋ることは気が楽だった。なぜ俺がもともと人物を撮ることを得意としていたカメラマンなのに物撮りをしているのかと疑問に思い、そしてその物撮りを、延いてはいまの仕事を楽しんでいるのかと言葉の意味のままに訊いてきているのだ。そのため、どんな回答であれ俺が答えれば彼女はそれに大抵の場合納得してくれる。
「ほら、あのコンテストで最優秀賞をとった写真。あの写真私すきだなあ」
「私ってあんまり写真に興味がないんだけど」と言ったあとで失言だったと言うようにはっと目を見張ったが、俺が「俺もあんまりカーテンやらダイニングテーブルやらには興味がないから」と笑って見せると彼女もにっこりと笑って見せる。
「そんな私でも紫史くんの写真って知ってるってことはあの写真すごく有名なんじゃないんですか? 引っ張りだこだと思うんだけど」
「そう世の中は甘くないみたいですね」
個展を開いたあと、実際には有難くも幾つかの名の通った事務所が契約を結びたいと名乗りをあげてくれた。でも、その事務所の全てが時生を通しているものだったこともあり俺はそれらを全て断り、フリーランスも辞めて主に家具・インテリア雑誌を手掛ける小さな出版社の契約カメラマンになった。もちろん俺が今迄通り全てを時生に任せきりにしていたから契約に名乗りをあげた事務所が時生経由になったのであり、そのことに関して時生に責任は全くない。そもそも個展を開いたときには時生と距離を取ろうという考えなど俺にはなかったのだ。
かめちゃんは個展に来なかった。
「変な意味だと思ってんの?」「マーケティング入門」「なんか夢があるんでしょ、知らないけど」言葉を思い返せば当然の報いだろう。なにせ俺は彼に二十八万円の現金を手渡したのだ。正直なところ、俺たちは心を通い合わせていると思っていた。いま思えばなにをもって心を通わせているなどと考えたのか、その思考そのものの理解に苦しむが、そのときの俺は信じるという言葉をわざわざ使うまでもなく当たり前のように信じていた。
結局、あのとき封筒から引き抜いた二万円にも手を付けられていない。あれから約九ヶ月が過ぎようとしている。今年は例年よりも夏の訪れがはやいと言うが、最近では汗ばむ日も増えてきて季節は彼と出会った頃からほとんど一周していた。我ながら随分と情けないと思う。
「どうしたの、ため息なんて吐いて」
「吐いてましたか、ため息なんて」
「吐いてましたよ、随分物思いに耽って」
「今夜の夕飯どうしようかなって考えたんですよ、一人きりだとつくるもの面倒だしどうでもよくなっちゃう」
脚立を肩から下ろして倉庫に仕舞い、彼女が取り出してきた段ボール箱を受け取った。今日の仕事はあと幾つかのインテリアを撮影すれば終わりだ。
「あら。ディナーを一緒にする彼女も彼もいないの? 紫史くん格好いいのに」
「残念ながら。格好いいのに」
「じゃあ私立候補しようかな」
「僕のカレシにですか?」
彼女が悪戯っぽく言ったから俺もそんな軽口を返すと彼女は嬉しそうに破顔する。少々際どい冗談だったがどうやらお気に召したようだった。この職場で直属の先輩にあたる彼女はすらりと背が高く端整な顔立ちをしている。年齢はおそらく俺より少し年下だろう。女優やモデルだと言われても不思議には思わないと率直な第一印象を伝えたら、学生時代に演劇部で男子部員がいるにもかかわらず王子様の役を勝ち取って演じたという話を聞かされた。
「冗談。ディナーにですよ」
「知ってますよ」
彼女の行きつけだという店でディナーと言う程厳かではない食事をすることになった。
その店は撮影所の目と鼻の先にあり、十九時を回る前には既に彼女と俺はカウンターの席に着いてビールで乾杯をしていた。
まだ時間もはやいため、常連客が好みそうな奥まった場所にある照明の暗いテーブル席も空いていたが、カーテンウォールから目の前の大きな通りが一望できるカウンター席が彼女の特等席とのことだった。
彼女は仕事ができるうえに加えて美人だ。だから、彼女が定時である十八時半を待ち構えていたかのような速度で「これから紫史くんとディナーに行くのだ」と言いながら退社しても誰も文句を言う者はいなかった。あったとするならば俺への「なぜおまえが彼女と」という視線だけだ。
「七時前にビール煽ってるなんていい身分よね」
彼女はこくこくと喉を鳴らして美味しそうにビールを飲む。彼女を見ているとビールがこの世で一番美味しい飲みものではないのかと錯覚しそうになる程だ。
「平日の真昼間に公園でソフトクリームを食べてるのとどっちが楽しいですかね」
「私は紫史くんとなら仕事終わりの七時前に飲むビールがいい。なにを話すんです? 平日の昼間にソフトクリームを食べながら」
彼女はまたも言葉の意味のままに俺に問う。三十路を目の前にした男が平日の昼間に公園でソフトクリームを食べながら口にする話題に興味があるのだ。まともな三十一と二十八の男が口にする話題など俺にはわからないからこの話が彼女を楽しませてるのかもわからない。
「鳥はソフトクリームが食べられるのかとか、そういうこと」
「それって面白い?」
「さあ。どうなんだろう」
公園で撮影した時間が楽しいものだったのか、ソフトクリームを食べながら交わした会話が面白いものだったのかはよくわからない。
それにあの鳥がどうなったかは俺たちは知らない。俺が落としたソフトクリームをつついた所為であの鳥が万が一死んでしまったようなことがあればそれは決して面白い話ではないだろう。
あの鳥はどうなっただろうか、と人が溢れる大きな通りにその鳥がいるはずもないのにつまみのピスタチオを弄んでいた手元から外の景色に目を向けると、不意によく手入れが行き届いたモンクストラップの革靴が目に飛び込んできた。
「ねえ、あの靴どこの靴だかわかる?」
店の目の前の通りで信号待ちをしている人があのモンクストラップの革靴を履いていた。信号が切り替わったのか、その靴は通りの向こう側へと歩き出す。
「どこのって?」
「ブランドですよ。上等な革靴だから絶対ブランド品なんだろうけど、俺ブランドに疎くてわからない」
「あの靴って?」
焦れた声が出てしまう。堪らずもうそこには誰もいないのに身を乗り出してガラスの外を指差した。
「あの、さっきそこの前の道で信号待ちしてた男の人。モンクストラップのヴィンテージっぽい革靴」
「見てなかった」
彼女も身を乗り出すようにしてガラスの外を見つめたからもしかしたらあの靴のブランドがわかるかもしれないと思った。それなのにあっけらかんと「見てなかった」と言われ肩透かしにあった気持ちになる。思わずげんなりした顔を彼女に向けてからカウンターチェアに座り直しビールを煽ってしまった。嫌味たらしい仕草だった。案の定、彼女は「しょうがないじゃないですか、そんないきなり言われたって」と少しむすりとする。
べつに革靴のブランドがわかったところでなにも得るものなどなかった。
「すみません」と俺が詫びるとそこで会話は途切れ、暫く無言のままに二人ともビールを煽っていた。
「なるほど」
ピスタチオをつまんでいた彼女が不意にそう呟いた。
「そうなんだ、忘れられない彼がいるんだ」
彼女は俺の顔色を伺うでもなくひとりで納得したようにうんうんと何度も頷いて美味しそうにビールを煽る。俺はそれになにか言葉を返す気にはなれなかった。
なぜその姿を確かめなかったのか。
外は暗くなり始めているとはいえ、靴に目を止めたくらいなのだから少し視線を持ちあげさえすればその革靴を履いた人物の顔も見えたはずだ。でも、俺はそうしなかった。彼だったら怖いと思ったのか、それとも彼じゃなかったら怖いと思ったのか。どちらにしろこの期に及んで馬鹿らしいことこのうえなかった。
「東京は広いのにな」
それこそ物思いに耽ってため息を吐くように呟いた。東京は広いのになにをそんなに怯えているのか、あるいは東京は広いのになにをそんなに期待しているのか。
「なに言ってるんですか、東京なんて狭いですよ。イッツ・ア・スモールワールドって歌知らないんですか」
彼女はどうやら少し酔い始めているらしい。突如として「世界は狭い 世界は丸い」と歌い出して俺をぎょっとさせた。でも、それは彼女がお洒落なバーという場所で歌を歌い出したからではなく、その歌声がミュージカル女優だと言われても驚かない程上手く綺麗な声をしていたからだった。
彼女は「忘れられない彼がいるんだ」と言っていたがそれは間違いだ。俺は彼と同じ靴を履いた人を見つけてもその顔を確かめられないくせに彼に偶然また会えるのではないかなんて考えているからだ。
珍しく携帯電話が電話の着信を知らせるべく震えた。口の中にある昼飯のとんかつを飲み下し、番号を確かめずにその着信に応じる。俺の携帯電話に電話掛けてくる人などたかが知れているし、それにいまは平日の昼間だ。
「なに?」
「なにって、素っ気ないね」
聞き慣れた声が聞き慣れた口調でそう言うが、聞き慣れたそれを聞くのも随分久しぶりのことだった。
「どうなの、真っ当な社会人生活は」
「美女と脚立の生活」
「なんだよそれ」
「右手に美女、左手に脚立。有意義だよ」
「写真辞めてないだろうな?」
「まさか」
電話口の時生は声を低めて疑うようにそう訊いてきたが、実際のところ俺が写真を辞めるなど微塵も思っていないだろう。その証拠に俺がそれを否定しても安堵や喜びの反応はなかった。
「でも、仕事の依頼なら受けられないよ。俺は真っ当な社会人だから副業禁止なんだ」
「よく言うよ」
「で、要件はなんなの?」
「ほんとうに素っ気ないな。オトモダチとして心配して連絡したんでしょうが」
「なんだか知らないけど、いきなりフリーランス辞めるっていうし契約の申し出があったところは全部蹴るし俺とはもう仕事しないって言うし」と時生は俺を責めるような口振りで続けるが、ほんとうに俺を責めようとするならそんな言い方はきっとしない。結局のところ俺は彼に甘やかされているのだ。
いま働いている出版社とは副業あるいは創作活動をすることを前提で契約を結んでいる。ついこの間の日曜日にも女優のたまごに被写体になってもらいポートレートを撮影したが出来はいまいちだった。
「もう仕事しないとは言ってない。暫く一緒に仕事はしないって言ったんだ。これでも時生に頼りっきりだったこと反省してるんだぜ。それに俺が一人減ったところで時生の仕事に影響なんてないだろ」
「ないよ。でも俺はね自慢じゃないけど、仕事仲間は多くてもオトモダチは少ないんだ」
俺が「暫く時生とは仕事をしない」と唐突且つ一方的にそう告げたとき、彼は説明を求めることも咎めることもなかった。その彼からの連絡だ。彼の中での「暫く」は経ってしまったのだろうなと思う。もういい加減に粗方のことを清算すべき頃合いなのかもしれない。
「久々にオトモダチとランチもいいかもね」
時生は「ランチ」という言葉が意外だったのか電話口で噴き出したようだった。
彼女の言うようにかめちゃんを「忘れられない彼」にしてしまうのもいいのかもしれない。
食事の日時と場所を簡単に決めて電話を切る。休憩時間の終わりも迫っていたため目の前のとんかつを平らげることに集中しようとしたが、新たなとんかつの一切れに手を付ける前にまた携帯電話が震えた。今度は見覚えのない番号からの着信だった。
なんだか騒がしい日だなと思う。会社用の携帯が支給されてからというものほとんど俺の携帯電話に電話がかかってくることはなくなった。つい先程掛かってきた時生からの電話だって最後に一緒に仕事をして以来の何ヶ月振りという久しいもので、この半年間一日に二件も電話がかかってくることなどなかった。
「紫史さん」
通話に応じると電話口で男性の声がそう俺の名前を呼んだ。彼は俺を「紫史さん」とは呼ばない。
「ご無沙汰てします」
でも、俺の名前を呼ぶその声はたしかに名前の字面を理解しているなめらかで確固たる輪郭を持った彼の声だった。
「紫史さん、ご無沙汰してます。亀田です」と言った声はたしかに耳に届いていたが、俺は暫く声を発することができなかった。
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