ウィスキーに羊羹

 賞金三十万円と個展を開催する権利。

 それを本気で狙っていた。だから俺の申し出を聞いたときに時生が「紫史の価値観を変える男と出会ったわけだね」と揶揄する言葉を口にしても気になどしなかった。大袈裟と言えば大袈裟だが、違うのかと言われてしまえば完全には否定が出来ないのも事実であった。

 しがないカメラマンが登竜門としているフォトコンテストがある。開催規模に対して賞金は比較的少額だが、そのコンテストで最優秀賞を獲れば個展を開催する権利を得られる。そして、その個展の費用などはコンテストに協賛する複数の企業が全て負担し全面的にバックアップするというのがそのコンテストが登竜門とされる理由だ。

 協賛する企業はいわゆる業界のトップ企業であり、その企業あるいはそこで働く人々と短期間であったとしても共に仕事をしコネクションを持つことは得難い経験と財産となる。多くの業界人が注目しているコンテストでもあるため、実際コンテストで最優秀賞を受賞したことをきっかけにいわゆる有名カメラマンの仲間入りを果たした人が幾人もいた。

 俺はそのコンテストにかめちゃんの写真を応募させてくれと時生に頼んだ。公園で小さな女の子の靴紐を結んでいるかめちゃんの写真だ。

「時生ずっとコンテストに応募してみろって言ってただろ? これなら俺出すよ」

 今迄時生がどんなに「コンテストに応募してきっかけをつくるべきだ」と主張しても一切コンテストに応募してこなかった俺がいきなり自らコンテストに応募をしたいと言い出したのだから彼は苦い顔をした。それにその写真が彼の用意した撮影場所であるホテルから抜け出して撮った写真なら尚更だろう。ホテルを抜け出したとき携帯電話の電源を切ったことについてももちろん彼は「再放送された昔の駆け落ちドラマに感化された中学生じゃないんだからさ」と俺を揶揄した。微妙な例えではあったが、俺たちがやったことはひどく子どもじみているうえに古くさいと言いたいのだろう。

「でも、時生驚いただろ?」

「もしかして俺を驚かすためだけにわざわざと彼とそんなこと画策したのか」

「まさか。かめちゃんはなんにも悪くないよ、俺が勝手に彼を外に連れ出しただけ。携帯も俺が勝手に切った」

 かめちゃんね、とにやりと時生は唇を歪める。そのあとも彼はなにが楽しいのか散々俺を冷やかしたが「たしかにこれは凄くいい写真だよ。今迄の紫史の写真の中で一番すきだ」と言った。



 撮影後、封筒を手渡そうとするとさすがに「なにそれ」とかめちゃんは少し嫌な顔をした。恥を忍んで言えば俺はその嫌な顔さえ嬉しく思っていた。

 「賞金」となんでもないような口振りで言ってはみたもののおそらく口角は上がってしまっていただろう。茶封筒の中には現金三十万円が入っている。数日前、口座に振り込まれたものをそっくりそのままホテルに来る前に下ろしてきたのだ。

「フォトコンテストで最優秀賞を取った。その受賞者に与えられるものが賞金三十万円と個展開催の権利なんだよ。コンテストの展示会がこの前の日曜日までだったんだけどね」

「そうなんだ」

「本来ならちゃんとかめちゃんにも展示会の話を通しておくべきだったよな、ごめんね。受賞のことで最近バタバタしてたからさ」

「最優秀賞ってすごいね、おめでとう」

 もう少し喜んでくれるかと思っていたがかめちゃんはひと言そう言っただけだった。写真のことは分からないけど、と度々口にする彼には俺が最優秀賞を受賞したフォトコンテストの名前を言ってもぴんとはこないだろうし、そのコンテストで最優秀賞を獲ることがカメラマンにとってどんな意味を持つのかも想像することさえむずかしいだろう。

 俺自身、嬉々として早急に話を進めているものの正直なところ実感などはなかった。うまく事が運び過ぎている。例えば「ちょっとした手違いがあり、あなたの最優秀賞の受賞は間違いでした」と言われても残念な気持ちはあるにせよ受け入れられる。それはあの写真が最優秀賞に値しないということではなく、ただ事がうまく運び過ぎていると思うのだ。それが三十万円をかめちゃんに渡そうと思った理由の一つでもある。

「それで、俺は個展を開催することになったのね。小さいスペースで一週間くらいだけど、かめちゃんにも見に来てほしい」

「それでどうしてこれを俺に渡すの?」

「ごめん、話が逸れたね。だから俺は個展を開催できさえすればいいからその賞金はかめちゃんに受け取ってほしい」

「賞金もしーちゃんのものだろ、しーちゃんの写真が受賞したんだから」

 かめちゃんはあくまで淡々と俺に言葉を返した。その表情は決して晴れやかなものではないが、そこに疑念や戸惑いの感情はない。

「撮影料だよ、かめちゃんの写真を出したんだ俺。公園で撮った女の子の靴紐結んでる写真。あの写真は俺の腕なんかじゃない、被写体の魅力があってこそだった」

「あの日の撮影料なら時生さんからもらってる。写真の利用権だって時生さんとしーちゃんにあるはずだ。受け取れないよ」

 かめちゃんの顔は明らかに強張っていたが、俺はそんなことはお構いなしに封筒の中から適当に二枚紙幣を引き抜いて少し戯けた仕草でひらりとかめちゃんの目の前で振ってみせた。

「それじゃあ、これで一緒に焼肉でも食べに行こう。回らない寿司でもいいよ。それが俺の賞金の取り分だ」

「行かない。行かないし受け取らない」

 かめちゃんがはっきりと口にしたその言葉はふわふわと浮かれていた俺の気持ちにひどく水を差した。微かな怒りさえ湧きあがってきた。

 もちろん不躾な真似をしているのは俺だ。それでも、かめちゃんなら俺がこうすることの意味を理解してくれると心のどこかで思っていた。彼を侮蔑する感情など一切ない俺の思いを理解してくれていると信じていた。

 かめちゃんは俺がかめちゃんを見下しているだとか軽蔑していると思っているのだろうか。そう思っているのならそれこそ腹立たしい。

 かめちゃんの表情は硬いままだった。でも、その表情は硬いだけではなく俺を軽蔑していた。

「変な意味だと思ってんの?」

「変な意味って?」俺の言葉にかめちゃんの顔が分かりやすく歪んだ。一瞬のうちに軋んだ部屋の空気に心臓が跳ねるのを感じる。「どういうことだよ?」

 彼には似合わない掴み掛かってくるような鋭い物言いを無視して「マーケティング入門」とぶっきらぼうに発音する。

 次から次へと考えるでもなく攻撃的な言葉を選択していた。気持ちが焦燥し興奮している自覚はあった。そんな言葉を彼に投げつけたいわけじゃない。でも彼に実際投げつけている言葉は俺の本心そのものだった。

「なんか夢があるんでしょ、知らないけど。それに使えばいい」

 かめちゃんの目の奥で怒りが確かなものになる。そのまま声を荒げてくれればいいと思った。俺を罵ればいいと思った。そうしてくれたら俺は不躾な一連の言動を彼に詫び、この認証欲求を満たすためのくだらない茶番などなかったことに出来る。でもかめちゃんはそうはしてくれなかった。

「話はそれで全部?」

 冷たい怒りを湛えたままの目で俺を見つめ静かな落ち着いた声で言う。俺がそれに押し黙ったまま頷けば「お金、有り難くいただきます」と彼は封筒を受け取った。

「かめちゃん、ごめん」

 俺が微かに震えた声を出したときには、かめちゃんは既に俺に背を向けて部屋のドアの前に立っていた。

「ごめん、そんなつもりで言ったんじゃない」

 彼は「どんなつもり?」とは訊き返してこなかった。どんなつもりなのだろう、俺自身にも分からない。ただ「そんなつもりじゃなかった」ことだけは確かでそれは伝えなければならなかった。

「しーちゃん、またね」

 一度だけ振り返ってかめちゃんは微笑んだ。そして二〇二号室を出て行った。

 俺には彼の腕を掴んで引き止める理由はなかったし、追いかけていく口実もなかった。

 だから「違う」「そんなつもりじゃない」「俺はただ、そんなつもりで言ったんじゃないんだ」と結局どんなつもりかも分からないまま弁解できる相手もいないのにその言葉を頭の中で繰り返すしかなかった。

 約一時間の間、飽くことなくそうしていたらしいと知ったのは「チェックアウトの時間が過ぎている」とフロントから連絡があったからだった。



 月曜日の十三時、二〇二号室。

 撮影日時と場所をそう伝えてきた時生には電話口で「相変わらず芸がない」と文句を垂れたが、月曜日の十三時に二〇二号室に赴くことに内心安堵していた。

 一週間前のことを考えれば、二〇二号室へと向かう俺の足取りは軽やかにとはならないが、重いものではなかった。

 午前中に個展の待ち合わせがあり普段は利用していない路線を利用したため、いつもとは違う駅で下車しホテルに向かう。下車した駅からホテルまでの道すがらに昔ながらの商店街のような一角があって、何気なくそのうちの一店舗に目を止めた。店先に氷水が入ったたらいが置いてあり、その上のガラスには筆ペンで書かれたような達筆な字で「味自慢 水羊羹一個二八〇円」と張り紙がされている。たらいの中を覗けば、透明な容器に入れられただけの艶やかな赤みを帯びた濃い茶色をした羊羹が冷えた水の中に沈んでいる。

 かめちゃんは水羊羹はすきだろうか、と考えた。分からない。

 あれだけの不躾なことをしておきながら水羊羹一つで詫びるというのは問題だろうが、菓子折りなんてものを持ち出したらそれこそまた話が拗れてしまう。

 「すぐそこで美味しそうな水羊羹が売っていたから一緒に食べよう」と言い、それから謝ればいい。そんなことをすればまた時生に「中学生じゃないんだから」とからかわれるだろう。それでもそれが俺の思いつく限りの誠実であったし、かめちゃんには誠実でありたかった。

 オレンジジュースに水羊羹は合わないだろうとも思ったが、この店に引き寄せられたのは水羊羹が美味しそうに見えたからだったし、やはり店内に並べられたどの和菓子よりも水羊羹が美味しそうだった。

 結局、水羊羹を二つ買って二〇二号室に入るとそこにいたのは優に身長一八〇センチ以上はある肌の白い端正な顔立ちをした青年だった。彼が俺を見て微笑む。その唇の両端には線は走らないが文句なしの好青年といった印象を与える笑顔だ。

「はじめまして」

「はじめまして。君、水羊羹すきかな? すぐそこで売ってたんだけど」

「あんまり得意じゃないですね。申し訳ないです」

 彼は申し訳なさそうに眉を下げた。

「ああ、そうなの。残念」

 サイドテーブルではウィスキーが窓から差し込む夏真っ盛りの日差しを受けてきらきらと琥珀色に輝いている。

 俺は試したことはないが、ウィスキーに羊羹は合うと聞いたことがあった。

 かめちゃんは俺の前から姿を消した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る