二〇二の彼

「二〇二の彼」と言うと時生は解せぬ顔をした。

 これから向かう予定のホテル名を口にし、そのホテルの二〇二号室でよく撮影をする男のことだと説明したところで漸く「二〇二の彼」が誰を指すのか理解したようで「紫史好みのいい人だろう?」と整った顔に人の悪い微笑を浮かべる。

「俺が送ったデータってどうしてんの?」

 腹立たしいその微笑と言葉を無視して既にほとんど氷だけになっているアイスティーを無意味にストローでかき回した。からりからりと氷が喧しく音を立てる。

「どうって?」

「彼らに見せてるの?」

 また時生は意地悪くにやりと笑う。時生が何を言おうとしているかは分かりきっていたから「どうしてそんなことを気にするんだ?」と問われる前に「彼が」と切り出す。

「彼が、だからその二〇二の彼が見てみたいって言ったの。俺の写真。それで『そういうことは時生に訊いて』って言ったから時生になんか話がいってるかなって」

「紫史、そんなこと言われたのはじめてだったの?」

 「それはカメラマンとしては致命的なんじゃないの?」と口にはされない意地悪い声がありありと耳に届いた。その言葉をあからさまに無視するのも癪だったから、仕方なく「今迄だって何度かあったよ。俺の撮った写真が見たいって言われたの。そのときだって『俺は知らないから時生に訊いてくれ』って言った」と言う。

 時生は「へえ」とまるで興味もなく他意もないかのような声を出したが、彼が俺を面白がっているのは明白だった。だから「もういい、俺には関係ない。これは時生のお遊びだもんな」とわずかにグラスに残っていたアイスティーを煽って席を立つ。約束の時間まであと五分を切っている。いい頃合いだ。

「俺は紫史の写真がすきだから紫史に頼んでるんだよ」

 俺の写真がすきだろうがなんだろうが、街中で声をかけた見ず知らずの男をホテルの一室で撮影することが悪趣味であることには変わらない。そこでいくら如何わしいことが一切行われていなかったとしても褒められたことではないだろう。

「今日はどこ?」

「二〇二号室」

 時生はやはりにたにたと嫌な笑みを浮かべている。きっとまた彼に声をかけたのだ。

「シチュエーションが変わらないじゃん。たまにはスイートでも押さえておいてよ」

 せめてもの取るに足らない恨み言を吐き捨ててさっさとカフェを後にしてしまおうと思ったが、思い直して財布の中から紙切れを取り出してカウンターテーブルの上に置く。

「これ領収書」

「なんの?」

「彼に似合いそうな服を見つけたから買った。衣装代として請求します」

 隣のカウンターチェアに置いていた紙袋をひょいと持ち上げてカフェの出入り口に向かって歩き出そうとすれば、さすがの時生も慌てようで俺の腕を掴んだ。

「待て待て。服を買ったのか? 彼のために」

「時生も知ってるだろ、彼まるでセンスがないんだよ。亀の靴下なんて履いてるんだから」

「だからって買うことないだろ、いつ彼がまた撮影するかなんて分からないんだから」

「じゃあ、今日の二〇二は違うのかよ?」

 時生が答えに窮して掴んでいた腕を離したから「ほら、すぐに出番がやって来た」と今度こそ勝ち誇ったような笑顔を残してカフェを出た。信号待ちの際に振り向けば、洒落たガラス張りのカフェの通りに面したカウンター席に洒落た店内には似合わない苦い顔をした時生が見えた。

 カフェから道を挟んですぐ向かいにあるホテルに入る。今日も今日とてビジネスホテルと然して変わらない窓が大きいだけが取り柄のホテルの一室が撮影場所だ。

 指定された二〇二号室に向かう前にフロントにある手洗いに入り、個室で先程時生に見せつけた紙袋から買ったばかりのアイボリーのノンカラーシャツを取り出しそれに着替えた。馬鹿らしい、と思う。

 実際彼は亀の靴下を履くような男だが、撮影のために俺が彼の衣装を選ぶようなことはない。ましてや彼のために衣装を購入することなんてあり得ない。

 時生が言うように俺は誰がホテルで待っているのか、今日撮影する男がどんな男なのかを知らない。いつもその場限りの名前も知らない男の写真を撮るのだ。

 時生は無造作に気まぐれのように街で出会った男に声をかける。二度目の撮影というものさえ本来ならあり得ないことなのだ。だから、彼は何らかの方法を使って時生に毎回見つけられに来ているのだろう。偶然が何度も起きるほど東京は狭くないはずだ。

 二度目の撮影のとき彼は無邪気に「僕みたいな抽斗のない男を何度も撮るなんてつまらないでしょうから今日は一張羅を持ってきたんです」と笑って小さなバッグから亀柄のアロハシャツやらくだらないTシャツに取り出しわざわざ着替えて見せて俺を大笑いさせた。でもそれだけの話だ。少しだけお互いに暇を持て余して戯れただけのこと。

 三度目、彼に忠告した。

 今日で四度目。なんて面の皮が分厚いのだろうと怒りを通り越して呆れる。

 二〇二号室にはやはり彼がいた。二〇二の彼だ。

 はじめて撮影した日のようにルームサービスのデカンタに入ったオレンジジュースと二つのグラスがサイドテーブルに置かれている。

 この仕事は俺にとっても割がいい仕事だ。だから被写体になる彼らにとってもきっと割がいい仕事なのだろう。世の中は世知辛く、暮らしていくために俺だって傍から見れば趣味の悪い褒められたものではないこの仕事をしているのだ。

 でも、彼の姿を見るやいなや「そんなにお金が必要なの?」と意地の悪い言葉を投げつけてしまいそうになった。俺には関係ない。俺は彼にそう言ったし、実際にどんなことで彼が金銭を稼ごうが俺には関係ないのだ。

「今日は外に出よう」

 部屋に入って来た俺を見て微笑み、デカンタから二つのグラスにオレンジジュースを注ぎ始めた彼に俺は考えるよりも先にそう言っていた。

「え?」

「今日は外で撮影しましょう」

「いいんですか?」

「俺はあなたがどんなことを紙に書かされたかは知らない」

 気持ちが若干昂ぶっていた。だからその先の言葉を発するのが一瞬遅れた。その一瞬に俺を見つめ微笑む彼の目と目が合う。温かい日差しに包まれたような心地良さを感じる一方で、眩しすぎて白くぼやけた先の見えない光源に抗いようのない引力で吸い込まれるような恐ろしさを覚える。不思議な感覚だった。

「だから、無理強いはしないんですよね」

「そう」どうにか絞り出すように声を発する。その声は喉がからからに乾いたときのように少し掠れていた。「無理強いはしない」

 腹立たしいくらいに、はじめて会った日にそう言ったように彼は俺との会話を楽しんでいる。

「今日は天気もいいですもんね」

 大きな窓からぎらぎらとした太陽光が注いでいる。それはもう疑いようもない夏の光だった。来週には七月が始まる。

 思えば彼と会う月曜日はいつも快晴だった。



 撮影場所にはホテルに一番近い公園を選んだ。

 敷地は広く、敷地内には全て芝生が植えられている。思いつきと勢いで外に飛び出してはしまったものの、太陽の熱を吸収した芝生に座りその温もりをジーンズ越しの尻に感じるのは随分と久しく随分と気持ちのいいものだった。彼の癖のある髪が風を受けて微かに揺れる。それだけで堪らなくシャッターを切りたくなったし実際にシャッターを何度も切った。

 公園には遊具もブランコやシーソー、鉄棒、ジャングルジムなどの子どもが喜びそうなものが一通りあり、濁って水中の様子は全く分からないものの小さな池もあった。彼は落ちてしまわないかと不安になるほど身を乗り出してその濁った池に注意深く目を凝らしていたが「いないなあ」と呟いていたから、池にはなにも棲んでいないようだった。熱心に池を覗き込むその横顔にもシャッターを切った。

 いつものように彼はすきなように振る舞いすきなことを喋り、俺もすきなときにシャッターを切った。

 公園周辺には会社などもあるためか公園の入り口近くにはキッチンカーが停まっていて、創作タコライスやらソフトクリームも売っている。それを見て「ソフトクリーム食べたいな」と思った。風はそよいでいるもののひどく暑い日だったし、こんなことは今日限りだと思っていた。だから彼にソフトクリームを食べないかと提案しようとした。

「ねえ」

 キッチンカーに向けていた視線を戻すとすぐ傍にいると思っていた彼がそこにはいなかった。髪と薄手のシャツを柔らかく風になびかせながら随分と先を歩いている。靴はあのヴィンテージものの革靴だ。池に向かって軽やかに歩いていく。

 振り向いてほしいと衝動的に思った。振り向いて俺を見て微笑んでほしい。その瞬間を切り取りたい。今この瞬間を逃しては駄目だと気が急く。

 今彼が振り向いてくれたなら「池に向かって歩いて途中でこっちに振り返って」とそんな指示を出して撮る写真とは全く違う瞬間が生まれることを確信していた。

「ねえ!」

 彼の名前を呼ぼうとして呼べなかった。俺は彼の名前を知らなかった。名前も知らない男の写真を撮る。それが俺の仕事だった。

「ねえってば!」

 どうしようもない気持ちになって声を張り上げた。公園にいた幾人かの子ども連れは俺を奇妙なものを見るように顔を顰めたかもしれない。振り向いてほしい。それでも、もうそれしか考えられなかった。

 彼がゆっくりと振り返った。実際にはそれほどゆっくりとしたものではなかったのだろうが、そのときの俺にはその仕草はひどくスローモーションに見えた。

「カメダ」

「え?」

 彼のその向こうにある池には亀の姿など見つけられなかった。暗い緑色に濁ったままでその水面は不思議な程に少しも揺れることはない。そこに生命など一切存在しないことを主張するかのように静まり返っている。

「俺の名前、カメダって言うんです」

 彼が俺を見てにっこりと微笑む。

 気づいたときには俺はあんなにも撮りたいと切望していた瞬間を呆気なく逃していた。



「かめちゃんはいくつ?」

 俺はチョコレートとバニラのミックス、かめちゃんはバニラのソフトクリームを手にして池の傍にあるベンチに腰掛けていた。

「三十一」

 ほお、と思わず声を漏らしてしまい慌てて横顔を横目で伺うと彼はおかしそうに笑っていた。

「思ったより歳くってた?」

 悪戯な視線を投げてくる彼は数分前、俺に「亀田」と名乗った。「『亀は万年』の『亀』に『田んぼ』の『田』で『亀田』」と訊いてもいないのに嬉しそうに漢字の説明もした。

「いや、やっぱり俺より歳上だったかあと思って。俺より三つ上」

「普通の三十一は平日の昼間に街をふらふらして声をかけられてモデルなんかしないよね」

「普通の二十八も平日の昼間に公園でソフトクリームなんて食べてやしないよ」

「しーちゃんは絶賛仕事中じゃない」

「食えないカメラマンだよ。フリーランスのカメラマンなんてほとんど無職同然」

「俺はすきだけどなあ、しーちゃんの写真」

 かめちゃんが溶けてワッフルコーンの淵から溢れ落ちそうになったソフトクリームを舌先で掬う。

「写真のことは分からないけどね。それでもすきだなって思う」

 今日は野外でソフトクリームを食べるには最適の日だが、野外でソフトクリームを食べるにはいささか不適切な日だった。太陽にぎらぎらと照らされながら味わうソフトクリームの冷たい舌触りは最高だが、そのソフトクリームは太陽の熱に容赦なく溶かされ気を抜けばすぐにワッフルコーンから甘ったるい液体が溢れ出してしまう。写真を撮っている暇などなかった。

「見たの? 写真」

「うん。時生さんに見せてもらった」

「どう思った?」

 何とも配慮のない問い掛けだった。しがないカメラマンとは言え、それを仕事にしている人間から直球に感想を求められたら誰だってどんな言葉を選ぶべきかと戸惑うだろう。実際にかめちゃんは俺の問い掛けにむずかしい顔をした。それでも、彼が俺の撮った写真を見たというのなら一番言いたかったことは「どう思った?」ということだった。だからその問いを取り下げることはせずに彼の答えを待つ。

「どうって、そうだな。『あれ、俺なかなかいい男じゃん』って」

「うん、かめちゃんはなかなかいい男だと思うよ」

 少しの考える素振りを見せたあと冗談めかしてそう言ったかめちゃんに戯ける気持ち半分本心半分で言葉を返すとかめちゃんは「しーちゃんの好みのタイプの男なんだもんね、俺」と破顔する。

「まあそれは冗談として」

「冗談じゃないよ。かめちゃんは格好いい」

「ホテルに戻る?」

 戯れ合うように会話を楽しんでいたというのに、いきなりかめちゃんの口から飛び出した思い寄らぬ言葉に「冗談だろ」と鋭い声でそう言い放ってしまった。言い放ってから後悔する。くだらない冗談だったのにくだらない冗談として聞き流せなかった。俺は彼の言葉を一瞬でも本気にしたのだ。

 だからすぐさままた戯けたように「ホテル、もうチェックアウトしちゃってるよ。残念、戻れない」と付け加えたが、それこそ取り繕っているのが丸見えだった。

「時生、驚くだろうな。チェックインしてから十分もしないで退室。携帯の電源も切ってあるからかめちゃんと俺がどこに行ったかも分からない」

 かめちゃんがすくっとベンチから立ち上がった。気分を害してしまいそのままどこかに行ってしまうのかと思ったが「しーちゃんこれ持ってて」と食べかけのソフトクリームを手渡される。

「おねえちゃん、靴紐が解けてるよ」

 ベンチの前から数歩進み出てかめちゃんがそう声をかけた先には小さな女の子が立っており、その少女の足元を見遣るとかめちゃんの言う通りたしかに右の靴の靴紐が解けていた。それはとても可愛らしい赤い靴で彼女にとても似合っていたが、彼女のような年齢にはまだマジックテープで脱ぎ履きが出来る靴のほうがいいのかもしれない。

 「ちょっといいかな。じっとしててね」と言うとかめちゃんは少女の足下にしゃがみ込み、丁寧にそれでいて目を見張る程手慣れた仕草で彼女の靴紐を結んだ。靴紐を結ぶのに手慣れているもいないもないとは思うのだが、彼の手つきは目を見張る美しさがあった。

 俺はカメラを手にしてシャッターを切っていた。今目の前で起こる一瞬一瞬の出来事に強く心を惹かれていたが、先程のように気が急くことはなかった。

「はい、できました。蝶々結び」

 女の子は自分の足元に視線を落とすとそこに本物の蝶が舞っているかのように目を輝かせた。かめちゃんの結んだ均等で綺麗な弧を描いた二つの赤い輪はたしかに本物の蝶の羽を思わせる。

「可愛い靴だね」

「おばあちゃんが買ってくれたの。このお靴で蝶々の練習しなさいねって」

「そっか。左の蝶々はおねえちゃんが結んだの?」

 左の靴の蝶々結びはたれの長さが不均等でやや縦結びになっていた。それでもその蝶々結びもほんものの蝶のようにひらひらと今にも軽やかに空に舞っていきそうだった。

「うん、そうだよ。蝶々の作り方もおばあちゃんに教わったの」「上手だね」「でも、おにいさんのほうが上手」「本当? 嬉しいな、ありがとう」彼らがそんな会話をしている間、俺は夢中でシャッターを切り続けていた。

 少女に「バイバイ」と手を振り別れを告げてベンチへと戻って来たかめちゃんはファインダー越しにきょとんとした顔を俺に向けた。

 かめちゃんの視線が地面へと落ちる。不思議に思いその視線を辿って足下に視線を落とすと俺の足下には無残に潰れて溶け出した二つのソフトクリームがあった。俺の両手はソフトクリームで塞がっていたはずなのに今はカメラを手にしているのだから当然と言えば当然の状況だった。

「え? あ、うわあ嘘だろ。ごめん。ソフトクリーム落としちゃった」

「しーちゃん」

 彼の声に顔をあげる。彼は俺を「しーちゃん」と呼ぶようになった。そして俺は彼を「かめちゃん」と呼ぶことにした。なにがどうしてそうなったのかと言われても説明するつもりはない。「しーちゃん」「かめちゃん」のほうが「紫史さん」「亀田さん」より圧倒的に俺にも彼にも馴染んだのだ。

「悪い、いや酷い冗談だった。ごめんね、許してほしい。ごめんなさい」

「そんな大仰に謝られても。だいたい俺はバイだしそう思われても仕方が」

 「そう思われても仕方がない。慣れてるよ」そう続けようとした言葉はかめちゃんの「そうじゃなくて」と語気の強い言葉に遮られた。彼には似合わぬ強い物言いと今迄見たこともないその厳しい表情に呆気に取られる。

 俺が呆気取られていることに気づいたかめちゃんは自分の中でなにかを押し留めるように首を小さく振ってからもう一度「そうじゃなくて」と努めて穏やかな声を出した。

「ううん。だだ、酷い冗談だったからしーちゃんを傷つけただろ」

「べつに傷ついちゃいない」

 言葉通り、傷つきなどしなかった。でも俺を見つめるかめちゃんの目を見ることはできなかった。

「俺を嫌ったりしない? 俺がまたあの二〇二号室で待っていたとしても来てくれる?」

「それは約束できない。被写体を決めるのは時生だしこれは仕事ですから」

 一羽の鳥がどこからかやって来て芝生の上のソフトクリームをつつき始めた。ワッフルコーンと嘴がぶつかる度にパリパリと小気味良い音が立つ。

 「そう」とかめちゃんが呟くように言った。それからソフトクリームを一心不乱につつく鳥をぼんやりと眺めながら「鳥ってソフトクリーム食べても大丈夫なのかな」とも呟く。

「さあ。犬にはチョコレートは絶対食べさせちゃいけないって聞いたことあるけど。量によっては死に至るらしいよ」

 顔を見合わせたあと俺たちは慌てて芝生の上に落ちて潰れてしまった二つのソフトクリームの掃除を始めた。

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