room number.202

ちーすけ

ぶどう味の月曜日

「おにいさんは僕みたいな男が好みのタイプなんですか? トキオさんが言ってた」

 彼が発した「トキオさん」には耳にした音だけを頼りに発音している不確かさがあった。「あいつ、またどこかで引っ掛けた男を連れて来やがったな」と心の中で舌打ちをする。

 脱いだテーラードジャケットを椅子の背もたれに掛けてから声がした方向に振り返れば、ベッドに腰を掛けた男が穏やかに微笑んでいた。笑窪なのか彼の唇の両端にはくっきりとした線が走っている。

 大きな窓からはきらきらとしたほとんど夏を思わせる真昼間の太陽光が部屋に降り注いではいるものの、少し大きなベッドとソファがあるだけでほかにはビジネスホテルと然して違いはなく、情緒と呼べるものは一切ない。

 二〇二号室。一階フロアは全てフロントになっているから実質三階。東京の真ん中。高層ビルに囲まれているわりには陽当たりがよく、窓が大きいから晴れてさえいれば然程広くない空間でも窮屈さや息苦しさを感じることがない。ただそれだけが利点の部屋だ。なぜ時生がこの部屋を好んで利用するかは知らないが、知りたいとも思っていない。

「紫史」

「しふみ?」

「僕の名前」

 名前・携帯電話番号・メールアドレスが記載されたそのほかにはなにも装飾されていない名刺を先程脱いだジャケットのポケットから探し出して彼に差し出す。これも時生の要らぬお節介のひとつだった。

 得体の知れない男に「おにいさん」と呼ばれるのはどうにも趣味が悪い気がしたし、なにより眼前の男は俺を「おにいさん」と呼ぶ年齢では明らかになかった。草臥れた様子などはなく清潔な印象だが、十代の少年たちには感じることのない柔和さがある。二十代後半あるいは三十代といったところだろう。

「綺麗な名前ですね。なんて言うんでしたっけ、こういうの。芸名?」

「ううん、本名」

 俺から名刺を受け取った彼はまるで声で紙のうえの文字を撫でるかのようにひどく丁寧に「紫史さん」と俺を呼んだ。小さな声であったし、眼前の文字をそのまま口にしたのだから「呟いた」と言ったほうが正しいだろう。けれども、彼は俺の名前を「読んだ」のではなく俺の名前を「呼んだ」ように思えた。彼は確かな「意味のある音」で俺の名前を紡いだのだ。

 なるほど、と思う。時生が彼に声をかけた理由がわかった。そして、なぜ時生が彼に俺が彼のような男が好みのタイプだなんてことまで伝えたのかということも理解はできた。

 おそらく何万人という人が行き交う白昼の東京で彼のような男を外見だけで見定めて尚且つホテルに連れ込むことに成功するなど時生というのは恐ろしい男だと思う。高身長で容姿端麗な悪趣味若手実業家。敵には回したくない。

「それから僕はバイ。バイセクシャル、女も抱けるよ」

 名刺から視線をあげた彼は少し驚いた目をして「女も抱ける」とそのまま俺の言葉を呟くように繰り返す。

「僕のこと、ホモセクシャルだと思ってるみたいだったから」

「会ったばかりの人に失礼なことをすみません。こういうことははじめてだから、そわそわして」

「いいですよ。喋って落ちつくなら喋ってくれたほうがこちらとしてもありがたいです。ジュース、飲みますか?」

 俺が部屋に入って来たときには既にベッドサイドテーブルに置かれていたオレンジジュースを指差す。彼はどうやらその存在をすっかり忘れていたようだった。

「オレンジジュースでよかったんですか? お酒もあったのに。ホテル代は全部こっち持ちだって聞いてるでしょう」

 デカンタからグラスにオレンジジュースを注ぎ手渡すと、彼は名刺をジーンズの尻ポケットに押し込んでから礼を言いグラスに口を付けた。オレンジジュースを一口飲んだあとに「なにか頼めって言われて一番上にあったのがオレンジジュースだったんです」と少し戯けた素振りで笑う。

「緊張してる?」

 彼の目の前に跪くようにして視線を合わせてにっこりと笑って見せると「こういうことははじめてですから」と彼はまた唇の両端にくっきりとした線を走らせた。

 彼の表情を見る限りでは始めても問題はないだろうと判断できた。だから「こういうことはじめてだって言ったけどなんでやってみようと思ったの? 時生が格好よかったから?」と然して返事がほしいわけでもない質問を重ねながらベッドの傍に置いていたショルダーバッグからカメラを取り出した。

 カメラの準備をはじめた俺の手つきに気を取られていたらしい彼は俺と視線がかち合うと反射的に目を逸らす。それからすぐに目を逸らす必要などなにもなかったと思い直すように俺の視線を真正面から受け止めた。「なんでしたっけ、僕がなんで」と俺が幾つか投げかけた問いに答えようとしたから今度は俺がその言葉を遮る。

「僕はあなたが時生にどんなことを紙に書かされたかは知らないから嫌だったら嫌と言ってくれていい。無理強いはしない」

「紙?」

「顔を撮っていいです、裸になってもいいです、男性器も写していいですとかそういうの。いわゆる承諾書と言えばいいのかな」

 彼は合点がいったように声を漏らした。けれども、その声は妙に平坦で承諾書を書いたことは間違いないが、承諾書がどんな内容のものだったのかは推測ができない。

 大抵、裸だとか男性器だとか猥雑な単語を口にするとそれが嫌悪感であれ期待であれ反応が返ってきて、承諾書がどんな内容のものだったのか大まかにでも想像できたのだが彼にはそれがなかった。

 本来であればカメラマンである俺は規約というものを理解していなければならないだろう。ただ、今迄被写体となった男に衣服を脱ぐように指示したこともなければ(自ら脱ごうする男は幾人かいたが)、もちろん性器を撮影したことなどもなかった。だから契約違反だのなんだのと訴えられたことも騒ぎになったことも一度もない。第一、時生が面倒事を引き起こす男を選ぶようなへまをするはずがない。

 不意に「始めますよ」と声をかけてすぐさまカメラのシャッターを切った。

 唐突な撮影開始に彼は慌てて手に持っていたオレンジジュースをベッドサイドテーブルに戻そうとしたが、ファインダーを覗いたまま「オレンジジュース、そのまま飲んでて」と声をかける。

 そうすれば今度は不自然に力が入ってしまった指先でグラスを傾けて、こくこくと喉を震わせながらオレンジジュースを飲み込んでいく。ブリキのロボットがオレンジジュースを飲んでいるような動きだった。

「もういらなかったらテーブルに戻していいですよ。べつにオレンジジュースを飲んでる姿を撮りたいわけじゃないですから」

 オレンジジュースを持ったままの彼が困惑したように俺を見る。窓から注ぐきらきらとした六月の太陽光が彼の癖のある柔らかそうな黒髪を照らしている。その眩しい程の光と困惑の表情とはどうにも不釣り合いだった。「いいね」と声をかければ彼はさらに困惑するだろうか。

「すきなようにしてください。すきなときにジュースを飲んで、すきなことを喋ってください。俺もすきなときにシャッターを切るから」

「モデルってこんな感じでいいんですか」

「アンニュイな表情してって言ったらできるの?」

「できません、全く」

 彼は随分とはっきりと断言して、残ったオレンジジュースを一気に飲み干しグラスをベッドサイドテーブルに置く。それがなぜだかおかしくて一度カメラを下ろした。俺がカメラを下ろしたことで、シャッターを切られることはないと思ったのか彼の表情が一瞬和らいだ。だからカメラを下ろしていた位置からそのままシャッターを切る。ファインダーを覗いていないのにシャッターを切られたことに驚き、彼の目が丸く見開かれたからもう一度シャッターを切る。カシャリカシャリと容赦なく切られるシャッターに彼は暫くきょとんとしていたが、そのうちにおかしくて堪らないというように、それでもとびきり穏やかに笑い出した。

 やはりその頰には笑窪が浮かびあがるが、それは先程までのものとは異なっていた。なにがどう違うのかと言われれば説明はむずかしいのだが、俺はそのとき彼の唇の両端に走る線を「それは笑窪なのだな」と間違いなく認識できたのだ。

「例えばあなたが幼気な十五、六歳の少年だったら『街で長身の顔のいい男に声掛けられたからって嬉しくなってヒョコヒョコ付いて来ちゃ駄目なんだよ。世の中には怖くてずるい大人がいっぱいいるんだ』って言って、僕はペロペロキャンディをあげておうちに帰してやるんです」

 ベッドに上がって、と指示すると彼は嫌がる素振りも見せずに丁寧に靴を脱いでベッドの端に両膝を抱えるようにして座る。

 ベッドの下にきちんと揃えられた靴はモンクストラップの革靴だった。無地の開襟シャツに多少色落ちしたジーンズという特にめかし込んだわけでもないラフな服装の彼が革靴を履いたことに驚いたが、その靴が浮いていることはなく寧ろ極めてシンプルな服装に馴染んでいた。ブランド名などは分からないが、おそらく上等な靴だろう。品が良く高級品だと誰の目にもわかるが嫌味がない。履き込んではいるようだが手入れが行き届いているのか古ぼけた印象はなくまさにヴィンテージものと呼ぶのが相応しい。

 「男は靴で決まる」なんて得意げに講釈する金持ちの男たちが一定数いるからな、と要らぬことを考えて勝手に不機嫌になりかける。気を取り直すようにファインダーを覗くと目の前に亀が現れてぎょっとしてまたカメラを下ろしてしまった。

 亀の靴下だった。大きな亀の甲羅のうえにそれより小さな亀が乗っていて、その亀の甲羅のうえにさらに小さな亀が乗っている。亀が三段重ねになった絵柄が無数に散りばめられた靴下を彼は履いていた。

「それ、脱いでもらってもいい?」

 今迄どんな衣服だって撮影のために脱げと指示したことはなかったが、上品な革靴の中から現れた間抜けな亀たちが妙に腹立たしくて、ついそんな言葉が口を衝いて出てしまった。

「靴下。さすがにださいよ」

 「ださい」とは随分な言い方だったと思うが瞬時に言葉を選び切れなくて「ださい」と口にしてしまった。でも、彼の履いた靴下がどうにもださかったのも事実だ。

 もちろん不快感を顕にするだろうと思ったが、彼は予想に反してまるで彼はそう指摘されることを待ち望んでいたかのようににっこりと笑って「いつもペロペロキャンディを持ってるんですか?」と言ってまた俺の指示通りに靴下を脱ぎ始めた。

「え?」

「だから今もペロペロキャンディ持ってるんですか?」

 俺が一人で勝手に苛立っているだけなのだが、苛立ち逆撫でするような惚けた問いと柔らかな声に思わず「今は持ってない」とぴしゃりと返す。

「持っていたとしてもあなたにはあげられないけど」

 「僕は十五、六の幼気な少年じゃないから」と彼はまた嬉しそうに笑う。

 黙らせるつもりで顎に軽く指先で触れると彼は微笑を湛えていた口許をきゅっと結ぶ。少しうえを向かせてから至近距離でシャッターを二、三度切ると彼は眩しそうに目を細めた。

「少し窓の方を向いて」

 彼は指示通りに窓の外に目をやった。彼の瞳は色素が薄い。その色素の薄い瞳が太陽光を正面から受けて綺麗な薄い茶色に輝く。その色は角度によっては黄金色にさえ見えた。

「トキオさんは怖くてずるい大人なんですか? それから紫史さんも?」

「時生も俺もできれば誰かを傷付けることは避けたいと思ってるよ。十代の多感な時期の被写体はとても魅力的だけどね。だから俺は少年に言うんだ。『君は幸運だったよ』って。『君に出会っていたのが、ほかの怖くてずるい大人だったら君はもっと酷いことをされていたかもしれない』。でも、ほんとうに彼が幸運だったかは俺にはわからないよ。その『幸運だった』って言葉が彼を傷付けているかもしれないしね」

 窓の外を見ていた彼がこちらを向くのを待って「オレンジジュース、もう一杯飲まない?」と言う。彼が飲むと言ったから俺はデカンタからグラスにオレンジジュースを注いで彼に手渡したあと自分の分もグラスに注いでソファに腰をかける。

「こういう仕事ってよくあるものなんですか?」

「こういう仕事って?」

「街中で素性の知れない男に声をかけて、ホテルで撮影するっていう仕事」

「ほとんど時生の趣味だよ。あいつが気に入った男をホテルに連れ込んで俺に撮らせてるんだから」

「写真って見せていただけるんですか?」

「そういうのは時生に訊いて」

「トキオさんにですね」

「『時間』を『生きる』」

「え?」

「時生の名前の漢字です。『時間』を『生きる』で『時生』。あなたの声は字面がわからない人の名前を発するときに少し嫌な響きを持つような気がするよ」

 そう言った自分が発する「あなた」の方が恐ろしく嫌な響きを持っているし白々しいが、それは無視するしかなかった。

 「それは」と彼は少し悩んだようにしてから「申し訳ないな」と言った。それからほんとうに申し訳なさそうに眉を下げる。

「悪い意味で言ったんじゃないんです。『嫌な響き』なんて言い方して申し訳ないけど。寧ろいいことだと俺は思いますよ」

「時生さん」今度はにっこりと彼は顔いっぱいに笑顔を作った。やはりその頰には笑窪が浮かぶ。「どうですか、僕の声の響き」

「悪くない。尤も僕は字面を知らなかったときの声も嫌いじゃなかったですよ。字面も知らない人の名前を十年来の友人のように呼ぶ人は信用ならないからね」

 俺が戯けるように眉をあげて視線を投げれば、彼は「このオレンジジュース美味しいですね」と笑った。



 「はい、終了。お疲れさまでした」と撮影の終了を伝えると彼は大きく息をついた。それから背伸びをしたあとで少し躊躇うように「ほんとうは写真とかに興味はないんです」と申し訳なさそうに呟いた。

「街で長身で格好いい時生さんにモデルをやってみないかって声をかけられて、モデル出来るような容姿なんかしてないですけど、まあお金貰えるならって感じです」

 俺はカメラの片付けに取りかかりながら特に相槌も打たずに彼の言葉を聞いていた。今迄ホテルで撮影してきた男で被写体になった理由を「写真に興味があったので」と言った人などいなかった。だからわざわざ「ほんとうは」なんて打ち明けられる話題でも申し訳なさそうにされる話題でもない。

「そういうのって軽蔑しますか」

「そういう人もいるでしょう、気にしません。気にしないというか僕には関係ない」

「そうですね、あなたには関係ない」

 彼の紡ぐ「あなた」はひどくひやりとした響きを持っていた。それが正しい温度に思えた。俺は彼に関係がないし彼は俺に関係がない。ホテルの一室でたった数時間一緒に居合せた二人など字面の知らない名前を呼ぶ響きに不確かさがあるように、その程度のものだしその程度のものであるべきなのだろう。

「でも、今日紫史さんと話せて楽しかったです。写真というものにも興味が湧いてきました。僕にとって写真と言えば自動車免許証だとかそんなものしか関わりがなかったから」

「まさか今迄、免許証の写真しか撮ったことないわけじゃないでしょう。遠足の写真だとか卒業式の写真だとか」

「もちろん行事かなにかがあればピースしてスナップ写真なんかも撮りましたよ。でも、紫史さんが撮る写真はそういう写真とはまた違うものなんでしょう?」

「それはどうなんだろう、見る人によってはあまり変わらないのかもしれない」

「少なくとも撮られているときの感覚は違いました」

 その言葉は彼なりの褒め言葉なのだろうからそれに笑顔で応えた。その笑顔に彼もまたにっこりと笑って見せる。

「あ、そうだ」

 不意に声を上げたかと思うと彼はバッグを取り出してきて、そこから駄菓子屋で売っているような棒付き飴を出した。開いたバッグの口からは「マーケティング入門」なるタイトルの書籍が顔を覗かせている。持ち歩いている本がいわゆる文豪の文庫本だったらもう少し好感を持てたのに、と思う。よりによって「マーケティング入門」とは救いようがなかった。

「ぶどう味。嫌いじゃなければ」

「俺に?」

「違いますよ。十五、六歳の少年だったらキャンディをあげておうちに帰すんでしょう? 今日は僕だったからいいけれど、在庫は切らさないほうがいいんじゃないかなと思って」

 俺は断る理由もなかったからそのキャンディを受け取った。

 時生は冗談交じりに彼に「ホテルにやって来るカメラマンはバイセクシャルで、君の容姿はカメラマン好みだからあわよくば買ってもらえ」とでも言ったのだろうか。それならば冗談だとしても何とも不愉快だ。

「ありがとうございました。楽しかったです」

「お金、ちゃんと時生から受け取ってくださいね」

 いきなり念を押すようにそんなことを言った俺に彼は少し不思議そうにしたあと「それはもちろん」と微笑んで部屋を出て行った。

 もらったキャンディを袋を開けると飴の部分に幼児向けのアニメキャラクターが描かれていた。そこに描かれたキャラクターはメロンパンを模したキャラクターだというのに、ぶどう味というのはなんだか解せぬ気持ちになる。飴の色も紫色をしていて間違いなくそれはぶどう味なのだろうが、最後の期待を込めて飴を口に含む。やっぱりそれはぶどう味だった。

 しかも、長い間バッグの中で放置されていたのか飴はべたついていて、砂糖の塊らしきものが舌を引っ掻いた。

 部屋の退室時間が気になり腕時計を確認し、今日が月曜日だと知る。会社勤めではないため「ブルーマンデー」という言葉の意味は理解できるものの、今迄「月曜日」に憂鬱さを感じることはなかったのだが、不意にため息が漏れそうになった。

 また一週間が始まるのか、と思う。口内を甘ったるいぶどう味で満しながら今日が月曜日であるということを知るのはなぜかとても憂鬱だった。

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