観察者
「さすがね」
美玖から報せを受け取ったゆり子は、端的に称賛した。それに反して電話の相手が警戒した様子を見せたことに苦笑し、電話線をくるくると指に絡めた。
「嫌味じゃなくってよ。探偵にでもなった方が利口だと思うのよ、わたくしは」
「真知と一緒にいられないなら、そんなものに興味はないわ」
「愛されてるのね、和宮さんは。それとも、彼に愛されているかる応えているのかしら」
「知らないわ」
美玖の言葉に棘が混ざる。真知との関係に踏み込まれることは、嫌な様子だ。クスクス、と今度は潜めることもなく笑声を上げ、ゆり子は本筋へと話を戻した。
「秋槻聰明、聞いたことはありませんが、それが《伝染》の裏を知っている人物だと?」
「無明はそのように証言したわ。ただ、聰明という人物は無明に怪異が溢れ返ると告げただけみたいだから、もしかすると、怪異の出現を知覚するか、未来を傍受する怪異譚の持ち主であることも考えられる。決め付けによって接触を図るべきではないというのが、私達の結論ね」
「結構です。先入観は真実を曇らせ、時に歪めますもの。わたくしどもが何よりも怖れているのは《伝染》が再び起こること。一度目は怪異感染者だけで四十名、その被害者として百名以上の人間が死にました。隠し通すことも、限界です。パンデミックが再来するというならば、世界の表裏が逆転しかねない。少なくともこの街は、怪異に呑み込まれます」
「……理解してるわ」
「秋槻聰明に接触する手立てはありますの?」
「無明が協力的よ。引き合う条件を、整えてくれると」
「そう。くれぐれも油断なさらぬように」
勧告に対する返事はなく、電話は切られた。それが怪異の天敵であるという自負から来るのか、はたまた人間の天敵である真知が傍にいるからなのかは分からない。
受話器を置いて、ゆり子は「和宮真知」を想起する。あんなものを怖れようとせず、行動を共にすることを是認する「髙田美玖」のことも、どこか信じられない。
「和宮さんを怖いと思うのは、わたくしくらいなのでしょうか」
天敵とは、警戒されてこそ存在設定を充たすことのできる、根源的な恐怖である。
そっと指を持ち上げ、綴じた瞼を撫でる。眦に沿って、指を眉間から耳へと滑らせて糸の端を確認すると、一息に真横に引っ張った。ぶち。ぶち。ぶちぶち……。糸が綺麗に抜けることなどあり得ず、当然ながら、周辺の肉をちぎり散らす。絨毯に黒ずんだ血飛沫が落ちた。点々と滲んだ血によって絨毯はその色を際立たせ、ゆり子の蒼白な肌もまた、度合いを強めた。
瞼がゆったりと持ち上げられる。
この場にみづほがいたならば、また悲鳴を上げられたのだろうかと想像し、ゆり子は笑いそうになった。それほどまでに、筒井崕ゆり子の目は、気持ちのよいものではなかった。
本来であれば真っ白な眼球が収められているはずの眼窩には、赤黒い物体が押し込められていた。それが変色した眼球だったなら、まだ可愛げがあったというものだろう。
赤黒い物体、いや、それは生物だ。
丸まっていた生物は六本の肢をのっそりと広げ、ゆり子の目の外側に鉤爪を引っかけるようにして這い出てくる。ゆり子の右目は蟲であった。眼窩の落ち窪んだスペースは、蟲の寝床としての洞であった。
「一部始終を、わたくしに送りなさい」
蟲――正確には蟲を模した怪異は触角を揺らすことで肯定の意を示し、翅を広げて飛び立った。窓の外に消えていく蟲を見送り、ゆり子は目を閉じる。
彼女はいつも観察者でしかなかった。これより先は、管轄外。
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