目には見えない腫瘍
相貌失認症なのだと思う。誰に対してもではなく、クラスの人間に対してだけ。そんな器用な病気があったものかと一笑に付されるかもしれないけれど、みづほのクラスでの立場を思えば、納得できる事実があることも確かだった。
何よりもクラスが結束を高め、調和と秩序を形成するために。
ギリギリの出席日数を維持するために登校した朝、みづほを待ち受けていたのは机上に飾られた花だった。道端から手折ってきたのか、それとも私財を投じて調達したのか、黄色いカーネーションが。わずかにも表情を崩すことはなく花瓶を掴み、トイレに行って水を捨て、花はゴミ箱に放り捨てた。そして、みづほは席に着く。
その様子を遠巻きに眺め、便宜上の級友はつまらないと吐き捨て、みづほに対する理不尽な悪感情を増長させる。けれど、未熟な少女達は気付かない。
表情とはあくまでも見せかけに過ぎず、本質にそぐうとは限らない
毅然と繕われた表情の裏で、どのような感情が揺らめいているのか、知ろうとはしない。
「今日は、花が飾られていたわ。四本——根とかけて『死ね』とでも洒落たのかな。それにね、カーネーションだなんて、すごい皮肉だと思わない? 皮肉だよ、カーネーションの花言葉って。私から『軽蔑されている』ことなんて、分かり切っているはずなのに……」
みづほは語る、喫茶店「セリア」にて。
「気丈に振舞うね、みづほは。果たして、本心なのかは知れないけど」
カップを拭く手を止め、真知は、みづほを抉る言葉を打ち立てた。それは、彼女の必死の虚勢を打ち砕いてしまう言葉だった。みづほがセリアに通い始めてから七日が経ち、学校のことを打ち明けられるくらいには、近付いた。それでも、今の言葉は踏み込みすぎだった。
みづほの表情が険しくなる。眉間に刻まれた皺が、嫌悪感を露わにする。
「私は大丈夫」
そう、自分に言い聞かせる。
私は少しも傷付けられていないと、呪詛のように。
「本当に?」
されど、真知は引き下がらない。
苛立ちの全てをぶつけるように、みづほは声を荒げた。
「私は、大丈夫」
「大丈夫じゃないと、言ってごらん。感情はいらない、言ってみるだけでいい」
真っ黒な瞳が覗き込んできて、みづほは思わずたじろいだ。話転しようにも、そう言わないかぎり真知が引いてくれないことは明らかだった。
喉を鳴らす。ぎこちなく震わせて、みづほは決壊した。
「大丈夫じゃ……ない……」
ぼろり、と大粒の涙が零れた。言葉の魔力が、圧し付けてきた心を開放する。
「たまには、大丈夫じゃなくなってもいいんだ」
項垂れるみづほの肩に手をあてがい、真知は告げる。慰めと受容を。理解と許容を。彼女が泣き止むまで、真知は静かに注ぎ続けた。
「もう平気……ありがとう」
いつまでもあやされていることが恥ずかしくなり、真知の手をそっとのける。
「崩れそうになったら、またおいで。ここで取り繕う必要なんて、ないんだから」
真知が送り出そうとしてくれたときだった。店の扉が、不意に開いた。
カラコロ、とベルの音とともに入って来たのは、身長一四〇あまりの女の子だった。もみあげだけを長く伸ばし、あとは短く揃えた金髪の、蛇のように紅い瞳の女の子。その体も、纏う雰囲気も小さくて繊細で、抱きしめれば壊れてしまうのではないかと不安になるほどだった。
「真知に泣かされたの?」
みづほの赤く腫れ上がった目を見て、女の子は言う。小さすぎるために座っているみづほよりもわずかに低く、自然と、女の子はみづほを見上げる形となる。
「……ううん、違うの。これは慰めてもらっただけで、泣かされたのとは違うの」
目を擦って涙の跡をぼやかし、それから、女の子に向き直った。
「それとね、真知なんて呼び捨てにしたらダメじゃない。真知お兄ちゃんでしょう?」
宥めるように言った瞬間、カウンター内から盛大に噴き出す音が聞こえた。目をやると、笑い転げるのを堪え切れないといった風に、真知が口を押さえながら激しく肩を震わせていた。対照的に、女の子は怒り心頭の様子で歯牙を剥き出しにしている。
「真知! 何ですか、何で笑い死にそうなの?」
「い、いや、お兄ちゃんって」
「それのどこがおかしいの? 小学生なんだから、お兄ちゃんぐらい付けたって」
「ぶふうっ――ヒィィ、イヒッ」
笑い声は決壊して、真知はカウンターに突っ伏した。
(……本当に何なの?)
困り果てたとき、下方から伸びてきた手がみづほの胸倉を掴んだ。
「ちょっと真知! なんだってこんな無礼な子を店に入れたのよ!」
真知に答える余裕はない。息をするだけで精一杯のようだった。
「だいたいアンタ! どうして私が真知を『お兄ちゃん』なんて呼ばなきゃいけないの⁉」
みづほは目を白黒させて何も言い返せない。女の子はさらに憤慨を募らせ、
「私は真知より年上よ!」
みづほの思考を止めた。
「——その人、僕の先輩。この店のオーナーだよ」
ようやく笑いを飲み込んだ真知が補足する。みづほは目を瞠り、女の子と真知を交互に見つめ、次いで、自分と女の子の姿も見比べた。
「あり得ない」
「事実よ!」
「だって、ロリじゃん。ちっちゃいし、おっぱいないし、くびれもなくてもはや幼児体型。それで真知より年上っていうのは、ちょっとないというか、かわいそう」
つらつらと吐き出された言葉は容赦なく女の子の胸を抉り、崩れ落ちさせるには充分だった。不運なことに、女の子の手はみづほの胸倉を掴んだままだった。元より張り詰め気味だったボタンは負荷に耐え切れずピン――と弾け、ピンピンッとリズミカルに弾け飛んでいき、眼前の女の子とは対照的なまでに成熟した胸をさらけ出した。
ヒュゥ――真知が口笛を吹く。ふるり、と、みづほのぎこちない挙動に合わせて、やわらかさを誇示するように胸が揺れた。
「うわああん、見せつけるなあ!」「いやあああ!」
女の子は劣等感から、みづほは羞恥心から頬を紅潮させ、狭苦しい店内にあらん限りの悲鳴を轟かせた。
「さて――落ち着いたかな? 落ち着いてね、頼むから」
女の子とみづほ、二人が平静を取り戻したことを認め、真知は咳払いとともに切り出した。彼の両頬には真っ赤な椛が咲いていた。ひとつは「見ないで!」とみづほに付けられたもの、ひとつは「真知の裏切り者!」と女の子に付けられたもの。
女の子の場合は「届かない! 屈め!」と前置きしてからの椛だった。
「
金髪の女の子を手で示して真知は言う。
「僕が十九で、先輩は二十歳。みづほは――」
「高二、十七歳」
「うん。だから、三歳差。間違っても、というより間違えた結果がこれではあるけど、みづほよりも年上だ。人生の先駆者と言い換えてもいい」
「年上、ね」
言葉の意味を吟味するかのように慎重に繰り返し、みづほは美玖を見つめた。説明されたところで実感は湧かない。美玖の外見は、どれだけ高く見積もったとしても小学校六年生が限度というものだった。肉体的な成熟だけではない。たとえ成熟が著しく低いのだとしても、齢を重ねれば顔立ちなどといった点でも変化は訪れるはずだ。成長、あるいは老いが垣間見えるはずだ。それなのに、美玖にはそれさえもない。心だけが大人びている。まるで、時が止まり、成長という概念から切り離された末に、精神だけが先行したかのようだった。
「その、ごめんなさい」
仏頂面でカウンター席に腰かける――床には届かないため、両足はぶらぶらと浮いていた――美玖に向けて、みづほは頭を下げた。美玖はふん、とそっぽを向き「もういいわよ」と諦めるように言った。そういうことを言われるのは聞き飽きたとほのめかしながら。
「美玖さんは……」
「美玖でいいわ。真知のことは『真知』って呼んでるんでしょ?」
「それなら、美玖は何の仕事をしているの? この店以外にも忙しいって聞いたけど」
気のせいか、美玖の眼光に陰りが落ちた。妖艶だと息を呑む。改めて意識すれば、美玖ほどミステリアスという形容が似合う人間に出会ったことはない。誰も警戒心を抱くことのできない端麗な少女としての相貌、庇護欲と愛情を掻き立てる繊細な雰囲気。その陰から、唐突に危うさが顔を覗かせる。悪寒と恐怖を掻き撫でる紅い瞳。
鋭い眼光——それはもう、人間ではないかのように。
「詳しいことを話したところで、あなたにはまだ理解できないだろうけれど、私の仕事は複雑に絡み合った糸をほどくことよ。人生という
「……朱い糸?」
「複雑な事情が生み、複雑な感情が成長させた目には見えない腫瘍。心の癌。放っておけば本人に破滅をもたらすばかりか、周囲の人間にも危害を及ぼす」
意味を解釈しようと、みづほはしばらく頭を悩ませた。
「……心理カウンセラーみたいなもの?」
「もっと凶暴で、もっと人間に踏み込んでいるけれど、そんなものだよ」
真知が代わりに答えた。グラスを拭く音が静かな店内に響いた。
要領を得ないけれど、二人が意地悪をしているわけではない。おそらく、本当に理解できないのだ。包み隠すことなく伝えたところで、みづほは「そんなことはあり得ない」と否定する。それほどまでにみづほの常識からは乖離した世界に、彼等は身を置いている。
背筋を伝った震えが冷房の効きすぎによるものなのか、美玖と真知が発する言い知れない雰囲気によるものなのか、みづほには判断できなかった。
「みづほ、そういうあなたも、複雑な事情を抱えているわね」
身を寄せられ、驚きのあまり目を瞠り、みづほの視線はゆったりと真知に向けられた。
(伝えたの?)
眼差しは問う。真知は、首を振ることで否定した。
『複雑な事情』が学校のことを指すのか、夢のことなのかは分からない。けれど、美玖が真っ赤な双眸を通して何かを見出していることだけは確かだった。
「分かるの?」凡庸に訊く。
「分かるわ。この店に来ていることが、理由のひとつ」
「……私は、真知に招待されただけ」
「でも入れたでしょう? 店が見えたでしょ? いいえ、真知が視えたでしょう?」
「でも、そんなの当たり前で――」
「そうね、それなら目を晴らしてあげる。そうしたら、理解できるようになるから。理解、できなくなるから」
美玖は椅子の上で器用に正座をすると、みづほを手招きした。
「動かないで、目を瞑って」
訝しみながらも命じられたままにすると、側頭部に小さな手が添えられ、ちゅ、ちゅ、と両目にやわらかな何かが触れた。美玖にキスをされたのだと――目に、だなんてマニアックなことは普通は考えないけれど――そう、感じた。
「開いて」
「——……何も変わらないけど?」
「店を出れば分かるわ。あなたの事情に関しても、もうすぐに。殻が破れるまで三日というところかしら。気を付けなさい、予兆はあったはずよ」
(知っている。この人は、私のことを私よりも理解している)
開かれた唇に、美玖は指先で封をした。少女にしか見えない大人は、少女であるみづほをそっと諭す。人生の――世界の真理の先駆者として。
追い打ちをかけるように、壁時計が午後六時を報せた。
「もう、帰った方がいいね」
真知さえもよそよそしい。みづほの表情がわずかに曇る。気丈な言葉と、毅然とした態度で取り繕ってきた。他人に逆らえない自分が、ぬらりと覗く。
「明日も――来ていいですか?」
「明日からは、来れないと思うよ」
真知の答えに、驚いて背後を振り返る。
突風がみづほを貫く。
そこに喫茶店はなかった。荒れ果てた空き地が、ひっそりと広がっているだけだった。
「うそ……」
沈みゆく太陽を背景に、扉を閉める音だけが聞こえた。
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