ささやき
目を背けてきた夢のことを思い出す。
目覚めると、夢を視たという意識だけが残留していて、その内容については何も覚えていない。これは嘘だ、自分を守るための言い訳でしかない。覚えていないつもりになっているだけだ。目を逸らせばなかったことになってくれると、みづほは本気で信じていた。
夢の始まりはみづほの現実から。コンクリートでできた、とても巨大な毒壺の中で、みづほに向けられた醜悪な感情と、それに伴う光景を目の当たりにする。
みづほはトイレの床に倒れていた。
始まりは何だったか。そう、トイレに行こうと声をかけられた。逃げられないように四方を塞がれ、体育館の裏、プール脇のトイレまで連れていかれた。
初夏だというのに、気温は肌を焼くほどに高く、見上げた太陽を憎らしく思う。
「脱げ」
女子だけなんだから気にすることないだろう、と常識外れの言葉が続く。
みづほは逆らわない。逆らって、無理やり剥ぎ取られた記憶が脳裏にこびりついている。
淡々とした動作でブラウスとスカートを脱ぎ、下着を残すだけになった。コンプレックスの胸を晒していることに震えそうな体を抑え付ける。
「牛」
笑われる。
「入って」
トイレを示される。ドアノブに手をかけ、蝶番の錆びたドアを開く。清掃が行き届いていないトイレ特有の汚臭が漂ってきた。みづほが顔をしかめた瞬間、勢いよく突き飛ばされた。
よたよたとトイレの中に入り、どうにか転ぶことなく踏みとどまった。求めるように振り返れば、何かが頬に当たった。硬い何かが当たったという感触。それは須臾にして弾け、ドロリとした生温かさに変質した。これは何かと訝しむ暇もなく、二つ目が弾ける。
生卵。
みづほは背中を丸め、両手で顔を隠した。反射的なみづほの行動を、彼女に悪意をぶつけている人間はこのように解釈する。
『嫌がっている』『苦しんでいる』
その感情は愉悦に直結する。行為は加速し、悪意は膨張した。
全身が汚されるまで、さほど時間はかからなかった。
(どうして笑いながらこんなことができるの?)
みづほには理解できなかった。卵の殻、卵黄、卵白でベタベタになった頭でどれだけ考えてみたところで、この行為に明確な意味があるとも、理由があるとも思えなかった。
だからこそ怖い。理由のない悪意ほど恐ろしいものはない。
生卵の臭いとトイレの汚臭が混ざり合い、鼻が曲がり、脳髄が溶かされるようだった。
(ダメ、彼女達を直視できない)
震える足を叱りつけ、
(きっと気付かれてる。私の仮面の内側、臆病な本心が)
生卵の投擲が終わり、彼女達はみづほの姿に罵倒と嘲笑を浴びせると、途端に興味を失ったようにトイレを後にした。一瞬だけ垣間見えた外の明るい世界。彼女達は飄々とそちらへ歩いていき、みづほは黴臭いトイレに残された。
もう堪えなくていい。みづほは頽れた。膝は笑い、立っているなんてできない。
辛い時間が終わると、あの言葉が聞こえてくる。ささやくように脳を揺らす。
『一緒に――』
『——一緒に――』
『一緒、に』
その、続きは何?
訊ねる。すると、目覚める。自室のベッドの上で冷房の風を直に浴びながら、みづほは酷いくらいに汗をかいていた。答えは今日も知らされなかった。
また、夢だ。嫌な夢だ。ドリームキャッチャーを壁から剥ぎ取り、投げ捨てた。
「もう、勘弁してよ……」
安らぎを得られる場所なんてどこにもない。目覚めれば夢の続きが描かれるばかりで、現実から逃避しようとしても苦しい夢が待ち受けているだけだ。まるで螺旋の塔を登っているかのように、みづほが逃げることはできず、同じところを歩いている。
「うぅ……あああああ!」
声を押し殺すこともせずに噎び泣く。もう嫌だ。助けて。救われたい。
救ってくれる人なんてどこにもいないのに、みづほはそればかりを願った。
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