また、夢を視る。
「——不良少女」
呼びかけられ、浮遊していた意識が戻る。みづほはゆったりと視線を巡らせた。
遮断機が鳴り響いていた。線路は銀鏡のように磨かれ、乱暴な陽射しを受け、煌びやかに輝いている。首筋を大粒の汗が滑り落ちたことで、思わず下を向いた。自分のつま先が見えない。大きなふくらみが隠している。
(黒なんて……着けなきゃよかった)
汗だくとなり、ぼんやりと、暑気にゆだった頭でそんなことを思考しながら、背後を振り返った。知らない人だった。みづほの表情に、不信感と不安が綯い交ぜとなって現れる。
長身痩躯の青年だった。不健康に痩せているわけではなく、健康的に引き締まっている。けれど、青白い素肌が、青年をどこか病人じみた雰囲気に貶めている。齢はそれほど変わらないだろう、十七か、十八程度。
「不良、少女」
今度はやわらかな語調で青年は言った。
(あ、この人、とても歯がきれい。作りものみたいに、まっしろ)
なんですか、と返してからみづほは苦笑した。七月の初旬、夏休みにはまだ早い平日の昼間から、高校生がうろついていれば不良と見做されてもおかしくない。
「おいで」
手招きされる。補導されるのだろうか。逃げ出したい、と考えがちらついた。けれど、背後の遮断機は下りたままだった。左右には民家が建ち並ぶ。
(逃げるなんてできないことは、私はずっと前から知っているのに)
みづほは少しだけおかしくなり、苦笑交じりに青年の手招きに従った。歩き出してしまえば、青年にみづほを気にかける様子は見られなかった。背中を向けたまま、一度だって振り返ることはない。坂を下ったところで、青年は足を止めた。そのまま、呆気に取られるみづほを残して建物の中に入っていく。みづほの裡で
補導ではない。青年には別の意図がある。
女としての性質が青年への猜疑心を掻き撫でた。やはり逃げ出そうと、建物を素通りすることを決める。足を速めた。わずかに駆け足になる。建物の前に差しかかり、なぜか、みづほは止まった。
青年が入った建物は民家ではなく、一軒のお店だった。赤煉瓦と真鍮で装飾された店頭には『セリア』と書かれた看板が提げられている。半開きの扉からは冷気が漏れ出ており、外の暑さを殊更に意識させられた。吸い込まれるように、みづほは扉に近付く。
「いらっしゃい」
暢気な、青年の言葉。
扉を入ってすぐにカウンターがあり、テーブル席がない代わりに、背後では重厚な本棚が犇めき合っていた。いらっしゃい、と青年がもう一度繰り返したことで、みづほは店内に巡らせていた視線をカウンターに戻した。
「……喫茶店?」
「概ね、そんな感じ」
「お金、持ってない」
「招待したのは僕だから。遠慮しなくていいよ」
あれは招待だったのかと首を捻り、それならばと席に着く。
青年は静かに微笑み、お
小さな壺に入れられたカソナード(砂糖の一種)とミルクがカップの横に並べられる。
「初めの一口は何も入れずに味わうこと。それがお勧め」
「……あの」
「訊きたいことがあるのは分かるけれど、まずは飲んでから」
言葉を遮られたことに唇を尖らせつつも、みづほは従った。
「美味しいです。少し、酸味……? があるような気がするけど、好きな味」
「いい舌をしているね。コロンビアは丸いから、気付かない人もいるんだ」
「そろそろ質問しても?」
「ああ、どうぞ。どうして私に声をかけたのかとか、そんなことだと思うけど」
「…………」
「では、答えよう。何か学校に行きたくない事情があるのだとしても、こんな日に外にいるのは自殺行為だよ。熱中症にでもなったら目も当てられない。適当な店にいた方が涼しくて快適だろうし、店員が僕みたいな奴なら、外をうろついているときよりも学校に通報される心配がない。それに、今日の僕は暇を持て余していた。これで納得してくれるかい?」
「……した、ことにしておきます」
「学校が終わるまで好きにしていいよ。あいにく、お客さんは他にいないし、暇をつぶす本もある。それだけ飲んで、出て行っても構わない」
背後の本棚を指差し、それで話は終わったと言わんばかりに、青年はカウンターの奥に引っ込んだ。直後にキーボードを叩く音が聞こえてきたので、仕事に戻ったのだろう。
声をかければ、会話にも付き合ってくれたかもしれない。けれど、そこまで気を許し合っているわけではない。
所詮、行きずり。明日には続かない、
青年には届かないように嘆息をこぼし、みづほは本棚を振り返った。
初めて見るような本から、話題になっているものまで、
みづほは少しだけ手を躍らせてから、本棚の最上段、右端に隠すようにしまわれていた本を引き出した。黒を基調に装丁された本の
ページを捲る。昔から、本を読むことは好きだった。
「世奇恋語」は四部から構成されていた。「こい」の漢字だけを変えて「恋・鯉・請・扱」と続き、それに副題が伴う。描かれているものは総じて「怪異」と呼ばれる存在に振り回され、苦しめられ、摩擦を味わう、怪異を背負った人間達の恋の模様。
ハッピーエンドを迎えたのは「恋」だけで、残りはすべて、そうとは言い難い。
何かを得た代わりに、何かを失っている。
鯉の怪異に見舞われた恋人を助けた青年は、彼女との思い出を。
自分が殺してしまった父親を生き返らせることを願った少女は、人間であることを。
怪異を扱いきれずに大切な人を失くした少女は、自分という存在を。
失くした。
本を閉じる。珈琲はとっくに冷めていた。
ため息を吐く。どうにも後味の悪い、やるせない気持ちにさせられた。
ふと、視線を感じてカウンター内へと目を向け、みづほは驚いたように叫んだ。
「うわ、何で見つめてんの」
「真っ先にその本を手にしてくれるなんて、嬉しいこともあるものだな、と」
「そんなに思い入れのある本なの?」
青年は含み笑いを浮かべながら本をひっくり返し、表紙をみづほに向けた。著者名を指差し、少しだけ、誇らしげに続けた。
「これが僕の名前」
「はい?」
思わず聞き返す。青年は高揚した面持ちで、繰り返す。
「改めて、僕の名前は
「小説家なの?」
「それが本業とは言い切れないけれど。出版されたのも、それだけだし」
「このお店は?」
「僕の店じゃないんだ。店長は先輩——高校生の時の――なんだけど、彼女は他の仕事で忙しくて店を空けることの方が多いんだ。閉めていてもいいと言われているけど、給料はもらっているし、それに、こうしてお客さんも来る」
「私は自分の意思で来たわけじゃないんだけど」
「店に入ったなら、経緯はどうあれ客だよ」
「さっきから、キーボードを叩いていたのは?」
「執筆、その本の続きを。まだ物語は動いていないから、書けないんだけど」
おかしな言い回しだ、とみづほは感じた。追求しようと口を開いたとき、見計らったように時報が鳴り響いた。午後五時、学校はとっくに終わっていた。
出かかった言葉を飲み込むと、みづほは立ち上がり、本を戻した。
「意外と、楽しかったわ」
珈琲のことか、真知との会話か、本についてかは分からない。
「サボりたくなったら、またおいで。出世払いということでサービスするよ」
「気が向いたら。……あぁ、でも、私の名前は――」
「みづほ」
言葉の先を真知が引き継いだ。みづほは目を瞠り、どうして知っているの、と凡庸に訊ねた。
「さて、どうしてかな」
疑問を煽るように答えながら、店の扉を開ける。
「次までに、考えておいで。答え合わせをしよう」
店を出る。しばらく歩いても、みづほの思考から、真知の問いかけが離れることはなかった。ふと、脇に抱えた学生鞄を見て声を上げる。
鞄には刺繍があつらえられていた。ローマ字で、彼女の氏名が。
分かってみれば単純なものだ。けれど、真知の行動が謎めいたものであることに違いはなかった。心が浮つく。楽しかった、と思いながら帰路に就くのはいつ以来だろう。
きっと、とても久しいはずだ。
坂を上り切る。真知に声をかけられたときと同様、遮断機は水平に降りていた。
鳴り響く警報、明滅する赤色の灯火、電車が近付いてくる。踏切の向こう側を見る。ヒトが立っていた。遠目ではよく分からないけれど、何かの模様が印刷されたフードを目深までかぶった少女だった。
電車が差しかかる。風圧に押され、わずかに体が傾いだ。巨大な鉄の塊が通り過ぎた後、そこに少女の姿はなかった。遮断機が上がる。首を傾げ、踏切を渡った。
もうすぐ夜が訪れる。みづほはまた、夢を視る。
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