第2話


 進が七時四十五分ピッタリに出かけるのには理由がある。


 進は徒歩で最寄駅へ行く。この時間に出れば、道中にある二つの踏切に当たらないのだ。

 ただ、歩行者用信号は決まった時間に変わらない。だから歩道橋を渡ったりして、信号を通らない工夫をしている。唯一必ず渡らなければならない小学校近くの信号は、押しボタン式。ただそこは立ち止まっても押せばすぐに変わるため、踏切時間に影響を与える事は無い。


 進はその小学校前の信号まで来た。ボタンを押して青に変わるのを待っていると、高学年と低学年らしき男の子達が反対方向からやって来た。

 進はいつも(歩にもこんな時期があったなぁ)と子供を見ては思い出に浸ったりする。

 二人の子供と共に青に変わるのをしばし待つ。


 そして、青に変わるや否や、低学年の男の子が横断歩道へ飛び出した。


「待て、優斗!」


 高学年の男の子が、飛び出した子の肩を抑えた。

 反動で低学年の男の子は一瞬宙に浮いて、歩道に戻される。


「いいか? 信号が青でも車が飛び込んでくるかもしれないんだぞ。左見て、右見て、それからもう一度左を見てから渡るんだ。分かったか?」

「えー??」

「分かったか?!」

「うん……」


「はい、じゃあ見て」


 低学年の子は、を見た。


「はい


 を見る。


「はい、もう一度。……大丈夫だな、渡ろう!」


 二人は仲良く横断歩道を渡り、目の前に建つ小学校へと吸い込まれていった。


 ……聞き違いか?


 進は子供たちの会話に違和感を覚えたが、目の前の青信号が点滅し始める。

 これを逃すと踏切回避に影響が出てしまう。慌てて早足で渡りきった。



 ◆


 

 予定通りJR登戸のぼりと駅へと辿り着いた進。いつもの八時五分発の川崎行き電車の二号車に乗り込む。


 朝の通勤時間は混雑しているため、座れる事はまず無い。

 ので、つり革に捕まって立っていく。

 しばらく狭苦しい車内で揺られていると、次の宿河原しゅくがわら駅に到着するアナウンスが進の耳に入って来た。


『まもなく宿河原しゅくがわら宿河原しゅくがわら。お出口は左側です』


 進はおや? と再び首を傾げる。


 左の扉?

 いつも宿河原しゅくがわら駅で開くのは右の扉だ。

 実際に到着し、開いたのは右の扉だった。


 次の駅もその次も進はアナウンスを聞き、電車は逆の扉が開いていく。

 そして川崎駅到着駅の七つ前にある武蔵小杉駅に到着した時、二号車に顔見知りの男が乗り込んで来た。


 同じ部署の一番の若造である、ウエサル・星野ほしのかなめだ。

 中東系ハーフらしいが、本人は少し浅黒く顔の堀が深い程度の日本生まれの日本育ち。

 やけに馴れ馴れしいウエサルは「前田さーん、おはようございま~す」と肩を叩いてくる。


 ……普通、自分の部署の上司に肩を叩いて挨拶するか?


 進は内心はムッとしたが、ウエサルはどんな相手でもこんな感じであり、この人懐こさと図々しさと無神経さは彼の武器であり、欠点でもあった。

 そしてそんなウエサルは、進の事などお構い無しに自分のTMIを話し出す。


「ちょっと聞いてくださいよ~。うちの十歳になる猫の話なんすけど〜。太い眉毛があるからマユって名前なんですよ。でぇ、昨日初めて彼女を家に呼んでマユを見せたら「それ、眉毛じゃなくて模様じゃね?」って言われたんす! うちの家族全員、眉毛だと思っていたのが、ただの模様だった『まもなく、向河原むかいがわら……』」


「ウエサル、シャラップ!!」


向河原むかいがわら、お出口は右側です』


「……やっぱり、おかしい」

「おかしいっすか? 彼女も俺んちの家族おかしいって言うんすけど~、超絶いい感じのところに黒い点が二つあって~」

「彼女のマユさんの話じゃない。今日の電車、開く扉のアナウンスが逆だと思わないか?」

「いやいや、前田さん、マユは猫っす。彼女はマミっす」

「ウエサル、ちょっと猫のマミの話は止めて真剣に次の駅の開く扉とアナウンスに注目してほしい」

「分かりました!」


 静かに次の平間ひらま駅を待つ進とウエサル。


『まもなく平間ひらま平間ひらま、お出口は左側です』


 電車は止まると、右の扉が開いた。


「……見たか? 聞いたか? ウエサル」

「ういっす」

「右の扉が開いたよな?」

「いいえ、左っす」

「いいや、右が開いたぞ」

「いえいえ、左っすよ」

「そんな馬鹿な」


 すると、ウエサルは急に目の前の席に座る年配の女性に「すみません」と声を掛けた。


「あの~今の駅、どちらの扉が開きました?」

「左ですよ」


 女性の言葉に、自分は間違って無かった! とフンスと鼻息荒くするウエサル。


「でも、僕は確かに右が……」

「前田さん、大丈夫っすか? 熱あるんじゃないんですか?」


 と、額を触ってくるウエサルの手を払い、進はそのあとも逆にアナウンスする電車で川崎駅まで向かったのだった。

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