前田進の世にもビミョ〜な異世界転移

さくらみお

第1話


 中年サラリーマン前田まえだすすむ几帳面きちょうめんで真面目な性質たちである。


 周りから見て窮屈きゅうくつに思うようなルーティンでも、毎日を同じ通りに過ごすのが彼にとって最も至福な一日なのだ。


 先ず朝は六時半に起床。

 トイレを済ませ、その足で洗面所へ行く。

 シェービングフォームを右頬から塗っていき、左頬のきわから丁寧にっていく。

 剃り終わると顔を洗い、タオルの表で一度拭くと裏返してもう一度拭く。

 

 ゆで卵の様な顔になれば、ダイニングへと向かう。その時間にはすでに妻の郁子いくこが用意した朝食がダイニングテーブルに並べられている。

 朝ご飯も進のこだわりで、いつも同じメニューが並ぶ。


 麦入りごはんになめこの味噌汁、塩しゃけに青菜のおひたしと……。

 進は味海苔が無い事に気が付く。


「郁子さん、味海苔が無いようですが……」


 息子の弁当作りに忙しい郁子は、キッチンから顔も上げずに応えた。


「買い置きがパントリーの右側にあるわ。とってくださる~?」


 進はコクリと頷いて、冷蔵庫・食器棚と並んだパントリーへ行く。

 パントリーは引き戸タイプ。

 進は右側の扉だけを開け、目で味海苔を探すが……。


 ……無い。


「郁子さん、海苔がありません」

「あら、おかしいわね。昨日買っておいたのに」


 と、郁子がやっとキッチンから顔を上げると「あら、進さん」と少し笑いながらやって来て、


「こっち、こっちよ」


 と左側の引き戸を開けた。

 開いた先のど真ん中に味海苔の缶があった。棒立ちする進を押しのけて、郁子は缶をもぎ取ると、ササッと小皿に置いてくれた。


「さあ、朝食が揃いました。召し上がれ」


 四人掛けテーブルの自分の席に座る進。

 静かに一口二十回噛む事を意識して食べていると、ドタドタと息子のあゆむが階段を下りてくる音がする。

 バタン! と威勢良くダイニングの扉が開くと、黒のスウェット姿の歩は挨拶もろくにせず「ったり~!」と脇腹を掻きながら、リビングソファーに寝転んだ。


「歩、今日は一時限目から授業なんでしょう? 急がないと」

「うるせーな! わかってるよ!!」


 母親になんて口の聞き方だろうか。

 しかし、いくら注意しても歩の耳が大学生となって、ただの空洞化してしまった事を進は知っている。


 去年までは品行方正な進によく似た真面目な少年だったのに、大学入学して一月ひとつきも経てば、青いカラーコンタクトを付け、髪は真紫、両耳にはいくつものピアスが付けられた。

 最近は鼻にもリングピアスを付け始めて……。歩は牛にでもなりたいのだろうか?

 進の理解できない生き物に進化していた。


 歩はダイニングテーブルの椅子を乱暴に引いて、進の前へ威勢良く座る。


「おいババア! 牛乳!」


 そんな歩に郁子はかいがいしく牛乳を運び、ついでに食パンにバターを塗った物も置いた。

 進は咀嚼中は暇なので、珍獣でも見るかも様にジッと歩の観察する。

 すると、視線に気付いた歩はイラついた口調で「見てんじゃねーよ!!」と悪態をついて、飲み込むように食パンを平らげると席を立った。


 それから十分経ち、歩がドタバタと玄関を出ようとする音がする。

 郁子は出来上がったお弁当を持ってダイニングを飛び出す。


「歩、お弁当よ!」

「要らねーよ!」


 乱暴に玄関が閉まる音がした。

 一瞬の静寂の後、青いランチバックを持った郁子が戻って来た。


 進は二十回目の咀嚼を終えると、箸を置いて郁子に言った。


「……郁子さん。それをお昼ご飯にしますのでくれませんか?」


 すると、郁子は進の差し出した手からお弁当を守る様に、強く抱きしめた。


「いいえ! 私のお昼ご飯です。絶対に渡しませんわ!」


 キッと眉を釣り上げて威嚇する郁子に進は「そうでしたか。危うく郁子さんのお昼ご飯を奪うところでした」と、二人で笑いあった。


 食事を終えると寝室へ戻り、着替えをする。

 シャツはクローゼットの右端から、ネクタイはネクタイハンガーの左端から、ズボンはズボンハンガーの右側から取る。

 今日は薄青いストライプ地のシャツに灰色のネクタイ、紺ズボン。


「進さん、今日の帰りは何時になります?」


 進に紺の背広を着せて、コロコロで背広のゴミを取る郁子。


「今日は十九時頃になります」

「分かりました」


 進は壁掛け時計を見上げる。

 七時四十分。

 出かける五分前。


 四十五分ちょうどに外出したい進。

 それを知っている郁子。


「郁子さん、やりましょう」

「望むところです」


 お互い玄関へと歩いて行き、それから向かい合う。


「「最初はグー! じゃんけんぽん!!」」


 進はチョキ、郁子はグーを出した。


「……ああっ、今日はついていない……!」

「ふふふ、そんな進さんには、これを差し上げましょう」


 と、郁子はエプロンのポケットから進の大好物のチョコバーを取り出し、進のポケットに詰め込んだ。


「ああ、ありがとうございます! これで本日の不幸は回避されたでしょう」

「いってらっしゃいませ」


 ……しかし本日の、いや、進の人生最大の不幸の旅はチョコバー如きでは回避される事なく、じわりじわりと襲い掛かってくるのだった。

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