狂気医者(マッド・ドクター)編

第8話 暗闇の凶刃

 それは、些細な事件であった。だが、重大な事件でもあった。

 一人の医者が、己が務めている病院の屋上から同僚の引き留めもむなしく、飛び降りてしまったのだ。大方、医者の激務にさらされているうちに気を病んで飛び降りたのだろうか。命を救うはずの医者が命を自ら捨てるのはよく考えればおかしな話だが、事実医療の現場はどこも激務だ。その割にもらう給料の数が労働分にまったく釣り合わない。およそ40年前にこの国を襲い、今もその暗い影を落としているとある感染症が猛威を振るっても、彼らの給料は上がらなかった。

「ならば、やめればいい」というのは簡単だが、薄給激務の仕事は基本的に人手不足が常であり、自分が抜ければただでさえきつい負担を他の人に回してしまう。そんなことは、出来ない。自分が楽になりたい気持ちと、他の人に苦しみを与えたくないという呵責に耐え切れなくなり、その末に思い詰めてついぞ首をくくったり、飛び降りてしまうものが後を絶たず、一つの社会問題になっていた。


 だが、彼の場合、自殺の理由はどうも思いつめた末の行動ではないらしかった。彼のデスクの上で見つかった遺書らしきものに書かれていた文章は、


「特効薬は完成した」


 この一言だけだった。さらに、死の直前まで彼を引き留めようとしていた同僚が言うには、彼が飛び降りる寸前に此方を一瞥したほんの一瞬、本当に、ほんの一瞬だったが、彼は、笑っていた。まるで、この世の全てをあざ笑うかのように、勝ち誇ったように・・・


 自殺は大事だが、ことにこの国は自殺大国ともいわれるほど自殺が多いので、人々は一々人一人の死に構っている暇もなく、一日一日は過ぎていく。それを繰り返すうちに、いつしか彼の死は遠い忘却の彼方へと消え去ってしまったのである。そして、それから丁度一か月たったある日の事・・・


 あらゆる監視設備を完備していたとしても、大きな病院は病院はその広さゆえに未だに夜の監視の目を人力に頼らざるを得ない。特にこの日本最大級のシステマチック・ホスピタルとも称される、乃亜(ノア)総合病院でさえも、夜間警備のアルバイトを求人に出すくらいには、広かった。


「赤外線暗視センサーや、防犯カメラを500台置いても、どうしても漏れは出るらしいんだよな。それに、この監視設備の定期メンテナンスの日とか、猛暑日や極寒とか、空調にどうしても電気を大目に割り振らなければならない日とかは今の時期より多めにバイトを雇うんだ、だから結構穴場なんだぜ、この求人は。」

「よくこんな”レアもの”を見つけてこれたね・・・こんな楽でしかも気前のいい求人は、すぐ人が集まって募集が終わっちゃうから、本当に助かったよ、クロハ。」

「なあに、特異点は何でもできるのさ。」


 夜間の見回りは医師免許やら医療的知識が無くても十分にできる仕事であり、しかも相当楽な為、一度求人が出たらすぐに枠が埋まってしまうほどには人気のレアバイトであった。今、クロハと城戸はそのレアバイトを見事につかみとり、今こうして暗闇の廊下を懐中電灯――クロハの場合は発行部にリミッター・アタッチメントを付けたFCフラッシュ・コンバーター――を片手に闊歩している。


「それ、そんなに軽々と見せびらかしていいのかい?」

「いいの、この偏光リミッターを付けてる限りは此奴はただのライトさ。ほかにも光を音に変換するやつとか、ブレード状に変換できる奴もあるんだぜ?」

「便利だねえ・・・」

「しかしまさかこの星にもこれと同じようなものが存在するなんて思わなかったぜ、ニューラライザー、だったか?ますます俺のFCがパクリみたいじゃん・・・」

MIBメン・イン・ブラック、面白いよねえ、でも、架空の物と本当にあるものとはわけが違うから、別にいいと思うよ。」


 あいも変わらず他愛のないSF談をしながら闇の中を二人で闊歩していると、向こうからきた。見回りの一人であろう女性看護師とすれ違った。二人はお疲れっすー、と軽く会釈をしたが、彼女はこちらを一瞥することもなく、無表情のまま通り過ぎていった。


「なんでえ、愛想の悪い奴!!」

「疲れてるのかな、どこかやつれてたし。」

「どんなに疲れてても欠かしちゃいけないのが礼節ってものだろうが・・・ってあれ?」

「どうしたの?」


 クロハが後ろを振り向きながら、見回りを始めるまえに二人の雇い主に当たる病院専属の警備員に言われたことを思いだしてみろ、といった。


『・・・見回りはカメラやセンサーが届かないところを中心に、基本的に指定のフロアを一つ当たり二人一組でやってもらいます。まあ絶対にないとは思いますが、もし何か異常を見つけた場合には君たちが担当するフロアには看護師さんの見回りがいないので、近くの警備室直通の電話から連絡してください。・・・』

「そういえば、このフロアには僕たち以外誰も見回りがいないはず・・・どうして・・・?」

「・・・いないはずの看護師とすれ違う・・・これってもしかして、夜の病院の見回りの体験談でよくある・・・これか・・・?」


 クロハはFCを顔の下に持ち、気色悪い笑みを浮かべながら幽霊の真似事をした。


「や、やめてよクロハ・・・まだそんな時期じゃないよ・・・」

「そういえば、一か月前に医者が飛び降り自殺した病院って、ここじゃなかったか?」

「本当にやめてよ!!冗談でもひどいよ!!」

「ははは、悪い悪い。とはいえ、俺たちがこのフロア担当という事は看護師たちも知っているはずなんだが、何の用であの人はここへ来たんだろうな?」

「ナースコールが鳴ったんじゃ?」

「だったらもっと急いでるはずだが、そんな様子はなかったな・・・どうも怪しいな。」


 看護師の向かった方向が、丁度警備室直通電話のある方角と合致していたので、二人は異常報告がてら後をつけてみることにした。そこは4人部屋の病室が合わせて10個まとまっている袋小路エリアで、廊下側から501,502号室と順番に並び、一番奥のどん詰まりで506,507室といった具合に折り返す。クロハたちが恐る恐る廊下側の角からのぞいてみると、先ほどすれ違った看護師がどん詰まり側の505号室の前で自分の持っていたタグをドアの近くにある読み取り部分にタッチしてドアを開け、入室するところであった。この病院全ての部屋は夜間はカードキーでロックされているのだ。


 彼女が病室に入った瞬間を見計らって、二人は音を立てずに急いで近づいたが、すんでのところでドアが閉じてしまった。見回りのバイトの二人には病室へのカードキーなぞ当然配られるはずもなく、クロハたちは通せんぼされてしまった。


「くそう、無理やり開けたら気づかれるな・・・」

「く、クロハ、もうやめようよ、幽霊ではないことは分かったんだし、もしかしたら、人には言えない、ひどくプライベートな事情があるかもしれないよ?」

「ここまで来てそれ言うか?異常があったら報告しろと言ってたろう?俺たちは事の顛末を見届ける義務があるんだ、知る権利があるんだ。」


 そういってクロハが懐から取り出したのは、白いボタン真ん中にある、丁度大昔のVHSのような大きさの箱だった。ボタンの上には小さな黒いディスプレイのようなものがついている。


「なに、それ・・・?」

「田舎の電車がみんなつけてるものさ。」


 それをクロハがカードリーダーの近くに張り付けると、黒いディスプレイにぼんやりと「ドア」の文字が赤く光った。それを見計らってクロハが装置の中央のボタンを押すと、病室のドアはすんなりと開いてしまった。


「こんなこともあろうかと持ち歩いてる自作の半自動ロック・オープナー、結構便利だぞ。」

「これからクロハの事、ってよんでいい?」

「あいにく四次元ポケットだけは持ってな・・・おい、あれ・・・」


 城戸の半ば呆れ気味の冗談を遮ったクロハの指さした方向には、先ほどの看護師が窓側のベッドの上に寝ている患者のそばで、やはりどこかやつれている顔をして立ちすくんでいた。まだこちら側には気づいていないらしい。患者をしばらくまっすぐ見つめていたと思ったら、とてもスローモーな動作で右腕を上に上げ始めた。右手には何かが握られているようだが、暗闇でよく見えない。だが、その正体が窓から漏れる月明かりに段々と照らされていくにつれて、城戸の顔は青ざめていった。


 看護師が、必要以上に刃をむき出しにした、カッターナイフを患者に向けて振り下ろそうとしていたのだ!

 危ない、と城戸が叫んだのと、看護師が全く表情を変えないまま、その凶刃を振り下ろしたのはほぼ同時だった。駄目だ、間に合わない!!と数秒後に発生するであろう大惨事を想像して思わずつばを飲み込んだ城戸であったが、患者を貫く寸前でその刃先は止まった。そして、手首をつかんだクロハは看護師を背負い投げし、床に組み伏せた。


「てめえ、何しやがる!!」

「うぐうあう、があう、があ!!」

「城戸、すぐ電話で警備員を呼べ、あと看護師と警察もだ!!」

「わ、分かった!!」


 城戸は部屋を急いで出ていき、直通電話から急いで通報した。看護師は人間と言うよりは、獣のような声を出して束縛を解こうとしばらく暴れていたが、一時間後、


「があっ!!」


 っと一声上げてからは、ばったりと気絶してしまった。


「いったい、何だってんだ・・・」


 ・・・


「・・・始まったか。」


 緊急の通報を受け、暗かった病棟の廊下がだんだんと明るくなってくる様子を、外から見ていたトレンチコートを羽織った男は、目の奥に仕込んである疑似網膜から、事の次第を検視団本部に伝達し、山高帽をかぶり直して車に乗り込んでその場を後にした。


「あのお方も人が悪い。シナリオのスタートとゴールを同一地点に指定するとは。」


 そのつぶやきは、誰にも聞こえることはなかった。

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