第17話〈精霊人の想い〉
正月の高野山はなんとも静かである。
久しぶりに買い物に出たが、近隣の店は閉まっているところが多く、衣類の調達は叶わなかった。
仕方なく薄地のジャケットとマフラーのままで、雪道を朝火と連なって歩いていた夕都は、昔、買い物をしながら雪玉をぶつけあった日を思い出す。
ふざけあったていたわけではなく、お互いに本気で相手を負かすつもりだった。
夕都はかがみこみ、足元の雪を掬いあげて雪玉を作り、前を歩く朝火の背中に軽くぶつけて笑う。
雪のシミが灰色のコートにうっすらとひろがる。
「ん」
朝火が振り返り、眉根を潜めた。
「ひひ、昔が懐かしいなあって」
朝火が振り返ったまま微動だにしない。
ふいに足元の雪を手に掬うので、夕都は身構えた。
案の定、凄まじい勢いで雪玉が全身に浴びせられる。
小気味良い音が鳴る中、夕都は両手に雪玉を持ったまま、道の端を踊り舞う。
「いてて! いてっやめろって!」
頭から足元まで、あたる箇所の布がことごとく濡れてしまう。
夕都ははしゃぎながら朝火から逃れた。
しばし杉並木にそって、金剛峯寺への道のりを連なって歩いていく。
白綿をうっすらと乗せた杉の木の群れは、神聖なる雰囲気を醸し出す。
金剛峯寺正門の両側の石柱には、高野山金剛峯寺を示す字が刻まれている。
正門をくぐると、金剛峯寺大主殿の大玄関があり、右脇の潜戸(くぐりど)は、僧侶が使う入口となっている。
石庭蟠龍庭を見ながら歩を進める。
蟠龍庭は奥殿を取り囲むようにあり、雲海を表す敷き詰められた砂は、京都の白川砂、龍を表す石は四国の花崗岩が使われている。
下門を抜けると、道沿いには宿坊が見える。さらに歩き続けて奥の院へと向かう。
二手に分かれた道を、旧道を進んでいけば奥の院口の“一の橋”が見えてきた。
一の橋から弘法大師御廟までの長い参道をひたすら歩いていく。
お地蔵様がまつられており、汗かき地蔵尊を過ぎた先にある、「覚鑁坂(かくばんざか)」と呼ばれる石段を上っていくと
ようやく御廟橋が見えた。
その手前で合掌一礼をして橋を渡る。
年末に駆け込んだ際は、礼儀も何もなっておらず、大変無礼な真似をしたものだ。
燈籠堂の天井はすっかり修復されていた。僧侶は二人を見ると一礼して、階段の方を手で示す。
階段を降りると、奉納された燈籠や、小さな身代わり弘法大師像がびっしりと通路に鎮座されており祭壇がある。
僧侶達に止められて年末から今日まで拝礼できずにいたが、今は龍脈は落ちついており、夕都と朝火はようやく感謝の気持ちを伝えることができた。
吐く息が白い。
その吐息を見つめて瞳を伏せる。
朝火が背中をさするので、口元を緩めた。
宿坊に戻ると、月夜と凜花が待っていた。月夜は朱と黒、凜花は桃色を基調とした着物を着込み、うっすら雪化粧の庭を背に、なんとも雅である。
夕都から頭を下げた。
「「「「明けましておめでとうございます」」」」
各々声量と感情の差はあるが、四人そろって丁寧に挨拶を交わす。
そこに、柔らかな中年の男の声がかけられた。
「明けましておめでとうございます、はいそうも失礼いたします」
「皆様、明けましておめでとうございます」
「あ! 泰西師匠に、錦兄さん!」
泰西僧侶と、長身で体格の良い僧侶が、手をあわせて庭に立っていた。錦僧侶は、坊主頭が様になっている精悍な顔つきの四十代の男だ。
錦僧侶は、かつて夕都と朝火に泰西僧侶と共に、武芸を指南してくれた“兄貴”である。
夕都よりも五歳年上で、まさに兄のような存在であった。
神無殻が管理する中高学校の六年間、世話になった。
――始めて母さんに連れてこられた時、俺はまだ小学生だったもんな。
ふいに影が記憶を覆う。
ある件がきっかけで、高野山から逃げるようにして飛び出して、自由気ままに動いていたから、師匠や錦兄貴、月夜にも随分迷惑をかけた。
頭を振って、頭を下げて謝罪の言葉を述べる。
「身勝手な真似をして、申し訳ありませんでした」
夕都にならい朝火も深々と頭を垂れた。
「堅苦しいからやめなさい」
息を呑んだ泰西僧侶が、早口で頭を上げるよう声をかけてくれた。
錦僧侶も苦笑を漏らし、皆に部屋に入るよう促す。
夕都達の為に特別だと、お節料理と酒を用意してくれたのだ。
いわゆる生臭物が含まれており、罪悪感を覚えるが、凜花は満面の笑みでお重の中身を覗き込み、はしゃいでいる。
「おいしそう! 食べていい?」
「どうぞ。お嬢さんにはジュースがあるよ」
錦僧侶がみかんジュースをコップに注いで凜花に手渡す。
卓は六人が囲めるよう、大きめな物に取り替えられていた。
夕都は語気を弱くして泰西僧侶に問いかける。
「良いんでしょうか。この場所で……」
「良い良い。私達は口にせんでな」
「遠慮するな」
二人から気の良い返事をされて、雰囲気は和やかなものとなった。
月夜や凜花と何をしていたのかをひとしきり話し込み、凜花が満腹で月夜のひざまくらで寝入ると、これからについて話し合うために、空気がひりつく。
まずは、大仏をどう笠山に運ぶかだ。
議論に入る前に、月夜が口を挟む。
「大仏の用意については、私に任せてください。銅タンでコーティングしてもらうよう、馴染みの鋳造会社にお願いしますので」
凜花を起こさぬよう、声量を落として説明した。
呆気にとられる面々の中で、朝火だけが頷いて月夜に問う。
「だが、かかる時間は大仏の大きさによるな。どうなんだ」
最もな問いかけに、夕都も泰西僧侶も錦僧侶も月夜の答えに集中する。
月夜は肩をすくめて微笑むだけで、唇を引き結ぶだけだった。
夕都は錦糸卵を頬張りながら、耳を傾けるにとどめて、皆の意見を頭に入れていた。
スマホが着信を告げる音が、廊下に鳴り響く。茉乃は脱いだコートを、ワンピースのスカートをはいた膝の上に置いて、大病院の廊下の椅子に座り、千桜からの連絡に応じた。
「はい」
『茉乃様、お変わりないですか』
「ええ」
穏やかな口調の千桜につられて、明るい声音で答えるが、内心では貴一が心配で震えている。
千桜が息を呑み、状況をうかがってきた。
『貴一様はまだ』
「うん、今は容態は落ち着いてるわ」
先の言葉をつい遮り、言葉を濁す。
千桜はそれ以上詮索しようとはせずに、静かに茉乃の気持ちに寄り添ってくれる。
茉乃は胸があたたかくなり、頬を緩ませた。
貴一は仮死状態のまま意識を沈ませて、個室で身体を管理されている。
のちに千桜から訊いた事実を知り、せめて貴一が龍脈の中で怖がらないようにと手を握りしめた。
無数の管に繋がれた彼は痛々しい。心電図は穏やかだ。
茉乃は貴一の顔を覗き込み、その頬にもう片方の指で触れて、早く彼の魂が戻るようにとひたすらに祈った。
茉乃との通話を終えた千桜は、雑居ビルの屋上から病院を見据えた。
無論、茉乃と貴一がいる広島県廿日市市内の大病院である。
先程から、怪しい人物が出入りしているのが見えていた。
私服とスーツの男二人組。
仕草からして、政府要人の関係者であろう。
千桜は息を殺し、存在感をうちけして注意深く二人組を監視する。
警察が茉乃と貴一を警護しているはずだが、神無殻の味方とは限らない。
――茉乃様、貴一様、必ずお守り致します。
視力が良い事と、さらに双眼鏡をのぞきこんでいるので、二人組の男の動作は丸わかりだ。
彼らは明らかに周囲を警戒しながら、病院内に入った。
わざわざ病院前を通る人がいなくなった所を見計らって行動に出たのだ。
いかつい男二人は病院の二階にあがるのが窓から見えた。
「あら?」
片方の背丈が小さい方が、突然動きを止めるとなんと一階へと引き返すではないか。
もう一方の大柄の男もふらつきながら一階へと引き返す。
二人とも病院から連なって転がるように飛び出した。
――何があったのでしょう。
千桜は双眼鏡から目を離して、首を傾げた。
廊下から誰かの悲鳴が聞こえたので、茉乃は様子を見に病室から顔を覗かせた。
左右に視線を泳がせると、白い着物をきた少女が視界の先に佇んでいる。
「あ、あなたは」
「見舞いに来てやったぞ、巫女よ」
茉乃はお辞儀をして貴一の病室に招き入れる。
貴一の容態は特殊で、医学的な管理と、神無殻の“術”による施しが必要であり、この病院の院長は昔から神無殻に協力する権威ある者だ。
明珠は、無数の管が繋がれた貴一の様子を見やり、右腕を掴むと、何からとなえはじめる。
たちまち、二人の身体が淡い光に包まれていく。
しばしの後、手を離した明珠は口元を緩ませて茉乃を見つめた。
茉乃は目を見開いてお礼を述べる。
「ありがとうございます! 珠光様」
「ほう。やはり妾の正体がわかっていたのかえ。その名は胸にしまうが良い」
「はい」
茉乃は、実は四宮神社には、主が存在しており、精霊人であるときいたことがあった。
茉乃は精霊人という存在を間近で見るのは始めてで、このように言葉をかわすとなると、頬が熱くなるのを感じる。
瞳を伏せて、椅子に腰掛けて貴一の右手首を握りしめた。
明珠は袖を払うと宙を見つめてささやく。
「妾はもとは厳島神社の地縛霊だったのじゃ。月夜と一悶着あってのう。父が建造した大鳥居がある厳島神社から、どうしても離れたくなくてな、月夜に精霊人となるよう施しをうけてからは、傍にある四宮神社の主となり、この地に訪れる者たちを見守る事にしたのじゃ」
淡々と語る彼女の横顔は、一瞬父を想う娘の顔となるが、瞬く間に怜悧な表情に戻る。
「精霊人としての名は、明珠じゃ」
茉乃は深く頷いた。
「はい」
「ところで、お主は、
「え? ええ、ご挨拶だけはあります」
そう答えると、明珠は顔を曇らせる。
一歩前に進み出て、天井を見てため息をついた。
「あやつは、妾よりも余程力が強い。それに、執念深いのじゃ……茉乃よ」
向き直る明珠に強い口調で呼ばれた茉乃は、貴一から手を離して立ち上がり、視線を絡める。
明珠は、茉乃の瞳をまっすぐに見据えて、憂いに満ちた顔つきで告げた。
「厳島神社を、再び血の海にするでないぞ。今の世の者たちは、自害する者の心に寄り添おうとはせぬ。妾は、四宮神社の主となってから、あの谷で幾度も命を捨てようとした者を見た。その度に声をかけ、救ってきたのじゃ」
「明珠様」
茉乃の脳裏には、ふいに電車のホームが思い浮かんだ。
人身事故で電車が遅延するアナウンスを聞いた人々は、誰もが苛立ち、時間を奪われたと舌打ちをする人もいた。
――命を捨てる人の苦しみを考える余裕が、ないから。
果たして本当にそうだろうか。
明珠が息をつく声に我に返る。
貴一に目を向けて軽く頷いた。
「こやつは、龍脈を彷徨う中で役目を果たそうとしておる、お主は許嫁として信じぬいてやれ」
「……はい!」
許嫁とはっきり口にされて心臓がはねたが、明珠の眼差しがあたたかくて、恥じらいなど吹き飛んでしまった。
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