始まりとリフレイン

 だから、その日の放課後、私は少しだけ勇気を出してみた。

 今、私はまだホームルームが終わらない、白砂くんの教室の前に立っている。

 ―――いっしょに帰ろ、って言ったら、びっくりするかな。どんな顔するかな・・・

 そっと俯いて、手提げかばんの持ち手を、きゅっと握りしめる。くたびれた上履きのつま先を見つめる。

「うん、帰ろーな」いや、なんか違う。

「俺も一緒に帰りたかった~!」そんなこと、絶対に起こらない。

「え、別にいいけど」白砂くんらしい気もする。あれ、「白砂くんらしい」ってなんだろう。

 考えれば考えるほど頬の表面が加熱されていく。そしてふと我に返る。この表情を誰かに見られていたらどうしよう。黒歴史が確定してしまう。そんなことをあれこれ考えて、もう一度白砂くんのクラスのドアの磨りガラスに視線を移してみる。でも、人影がなんとなく、ほんのりと向こう側で動いているだけだった。時折、拍手のような音も聞こえるから本当にホームルームの真っ最中なのだろう。そう思っていたら、突然、中から一斉に椅子を引いたガタガタした音が、群れのようになだれ込んで聞こえてきた。顔を上げて、自然に背筋が伸び、ドアに視線が釘付けになる。

 次の瞬間、ドアが開き、バレーボールがいっぱい入った斜め掛けのカバンを持った男の子たちが教室を猛ダッシュで出ていった。私はドアに近づいていって、中を覗き込んだ。

 いる。一気に鼓動が高まるのを深呼吸で抑える。すーっ、はー。目を閉じて吐き出せば、不思議と勇気は宿った。

「白砂くんー!帰ろー!」

「あー小春?いいよー」

 リュックに教科書類を一気に入れながら、彼がそう返事する。思ったより反応が早くて良かった。バレないように、胸をさっと、撫でおろす。本当に少しだけ。頑張った自分のためだけに。

「小春―?」

 求めていた声は想定外の方向から聞こえてきた。瞬間的に心臓がびくん、と跳ねる。彼が別のドアから出てきていただけなのに、肩がぴくっ、と動いてしまったかもしれない。焦って、急いで彼の方へ駆ける。

「今日なんかあったの?誘ってくることなんて今までなかったじゃん」

「ん、いやなんでもない!気分・・・だよ」

 言い訳が苦しい。目をなんとなく逸らしかけてしまう。

「ふーん」

 彼は、また遠くを見つめながらそう言った。その返事にどこか安心してしまった自分がいる。気持ちの形も決まってないし、自分でも把握できていないけど、この感情が彼に伝わってしまった時点で、この関係は終わってしまう。それぐらい、漠然と掴めていた。

 そんなことを考えているのを悟られないように気を付けながら、彼との談笑を楽しんでいるうちに昇降口に差し掛かった。

 再び、足がすくんだ。逆光になっていて、光を放っているように見える女子に、見覚えがある。よく見ると、高野美佳子の取り巻きだ。壁にもたれかかりながら、こちらを睨みつけている。彼女は、緩やかにウェーブした髪をいじりながら、あからさまな敵対心を向けてくる。

「なんか、悲しいね。美佳子と一緒に帰るのは断るくせに。よく分かんないこの女と帰るんだね。」

 私に向けられた長いまつげが、心なしか尖っているような気がして、また胸がちくり、とした。それと同時に感じたら終わりであろう、優越感も感じてしまった。

 ―――高野美佳子、断られてたんだ、ふーん

 今までの出来事が少しだけ点と線で繋がった。自分が多かれ少なかれ、いいな、と思っていた人を、自分より格下に奪われるのは屈辱的なんだろうな、と想像できる。少しだけ、彼女の気持ちが分かってしまった。でも、許す気にはなれない。彼女が私に与えた恐怖は計り知れないし、ある程度理由が想像ついたからって、簡単にどうこうできる問題ではない。

 白砂くんは呆れたようになって、黙っている。それが癪に障ったのか、彼女はまるでヒールを履いているような足音を立てながら、私に近づいてくる。この怒りは私に向けられている。私は覚悟して、姿勢をさっと正した。

 彼女は私の目の前に立ちはだかった。柔軟剤の優しい香りとは裏腹に、彼女は私に蔑むような視線を向けてくる。目のあたりにくっきりと長く伸びた二重の線と、それによって作られる影まではっきり見えてしまうほど、私と彼女の距離は今とても近い。ごくん、と唾を飲み込む。

「ねえ、あなたは何なの?白砂奎吾のこと、どう思っているわけ?」

 その言葉が私の核心を突いた。思わず、うろたえて視線がスーパーボールのように跳ねてしまったかもしれない。

「私は、美佳子を応援してるの。美佳子を邪魔する奴、全員消すから」

 彼女は私の視線を掴んだまま、決して離さず、睨みつけるようにしながら、吐き捨てる。

「でもいい。今のこの会話だけで、あなたが白砂奎吾を好きって分かったから。そうなんでしょ?」

 そんなの言えない。「違う」って言ったらこの場は免れる。でも、白砂くんへの気持ちが届く機会をどぶに捨てることになるかもしれない。自分の気持ちに嘘はつけない。でも、「そうだよ」と言ったら、二人との関係が同時に壊れる。今はそっちを回避するのが優先だ。でも・・・

「えっ・・・と」

 上手く言葉が出てこない。言いたいことはいっぱいあり過ぎるのに、頭が邪魔をする。結果的に俯いて、熱くなった顔が誰にも見えないようにする。この場は濁して逃げ勝ちするのが得策かもしれない。

「ふーん」

 そう言って、彼女はウェーブヘアを耳にかけながら、腰を曲げ、私の顔を覗き込んできた。

 俯いていた私の視界に彼女の顔が入ってくる。彼女の目が私の目をぱっちりと見つめた。そしてゆっくりと、目を細める。その瞬間、呼吸ができなくなった。

 体勢を元に戻した彼女は、つま先でくるっと回転し、数歩歩いて白砂くんの斜め前に立った。次の瞬間、彼女はほんのり口角を上げ、低いのに甘い声で、つらつらとあるがままを暴露した。

「今さ~、村合さんの顔真っ赤だったよ~?モテモテの奎吾くんは困っちゃうね~」

 ふふふっと高く微かな笑い声をあげ、彼女は髪をたなびかせながら足早に校舎の方へと去っていった。

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