変わり始めた学校生活、尾を引く影

 それからの学校生活は、見違えるように変わった。いや、彼が変えてくれた。朝、靴箱越しに「おはよう」って言ってくれる。廊下で会ったら手を振ってくれる。昼休み、毎日私のところに話に来てくれる。

 私の思い描いていた「『友達』とすること」がここ数日で、全て実現された。友達がいる学校という世界に飛び込むのが毎日楽しみで、学校が好きになれた。

 昼休み。テーブルクロスをたたんでいると、彼が大股で教室に入ってくる。私は、胸の前で小さく手を振る。

「やっほ、さっき牛乳おかわりしてきたから腹いっぱい。」

「わ、すごい。牛乳好きなの?」

「好きっていうか身長伸ばしたいってだけ」

 そんな会話も徐々にできるようになってきた。

 でも、それをよく思わない人たちは、いなくならなかった。

「あっ・・・」

 恐怖で目がかっと見開かれる。逃げたいのに、足が動かない。肩が徐々に上がりながらコンクリートのように固まり、息がうまく吸えなければ、吐けもしないので体の中がどんどん鈍く澱んでいき、ずしんと重いもので押されたようになってくる。

「小春、大丈夫?」

 彼が私の顔を覗き込んで尋ねてきた気がする。でも、私は彼の方を向けなかった。ただ、ひたすらに高野美佳子から、目を逸らせなかったから。精神的に押し潰されているのか、物理的に押し潰されているのか。私には、もうその違いすら分からない。

 高野美佳子は、教室のドアの前で腕を組んで立っている。いつものように、取り巻きが四人ほど。

 観念した。もう、自分の身を守れない。少なくとも、彼女らに白砂くんと一緒にいるところは見られるべきではなかった。「くそぼっち」ではなくなったと思ったら、男と一緒にいる奴なんて、彼女らからすると非難の対象どころではないだろう。抹殺するに等しいはずだ。考えるだけで胃がキリキリしてくる。思いあがっていたのは私だ。人気者の白砂くんと友達になれたのであれば、後からそれ相応の報いがくるだろう。そんなこと、最初から気づいてはいた。見ないふりをしていたのは私だ。目先の快感にすべてを捧げてしまっていたのは私だ。

「あのさ、お前、分かってんの?なんでお前みたいなくそぼっちの三軍が奎吾と一緒にいるわけ?意味不なんですけど~~!!」

 彼女らの高らかな笑い声が突き刺さる。俯いた顔を上げられない。涙がにじんできて、胸の奥が痛いのに、こればっかりは仕方ない、と思ってしまう。私みたいな人が白砂くんと一緒にいていい理由は、どこを探しても見つからないし、作りようすらもないだろう。これは、きっと、当然の報いだ。悪いのは、私だった。

「じゃあ俺がお前らみたいな自称一軍と一緒にいるのも意味不だろ」

 頭の上で、キンキンに冷やされたくす玉が、今割れた気がした。氷でできた刃のような切れ味と、ずっと後まで残るであろう冷たさをもった言葉なのに、私にとってはどこかぬくもりがあり、喜びすら感じさせる。はっとして顔を上げて驚いた。クラス、そして廊下にいるあらゆる人の視線が、くす玉を浴びたにふさわしいほど、彼女らに向けられていた。その視線すら冷ややかだったのは、少し滑稽だった。彼女らはすぐ逃げ去っていった。

「ありがとう」

 体の震えが刻み込まれた声で、小さく呟いた。

「まぁこれぐらいしないとな」

 彼は私に背を向けたまま、そう言った。廊下のどこを見ているのだろう。高野美佳子たちがいなくなったあとをずっと見つめているようだった。

「ってかさ、思ったんだけど、小春の味方いっぱいいんじゃん、むしろ高野たちがマイノリティだろ」

 白砂くんがかなり衝撃的なことを言ったのを私は決して聞き逃さなかった。次の瞬間には、反射的に口が動いていた。

「えっ!?何が?」

「何がって・・・さっき俺が高野たちを皮肉った時、みんなあいつらのこと嫌な目で見てた。たぶんみんな考えてることは同じっしょ」

「っ・・・そうなんだ・・・」

 それを聞いたところでやっと体の力が抜け、一気に声として吐き出せた。「よく見てるね!」「そういう解釈もありか」「全然気づかなかったな~」とか言った方がよかったのではないか、そんないい感じのセリフが今となって頭の中に次々と浮かんでくる。とんでもない時差だ。それだけ自分が平静を保てていなかった、ということをだんだんと理解してくる。

 でも、そんなことどうにでも良くなるぐらい、とにかく嬉しかった。自分を自分で守れそうにない時に、救いの手を差し伸べて守ってくれる人がいる。それだけで幸せだった。

 次の日。学校に登校してみると、白砂くんの言った通りだった。みんなが、私の友達だった。もしくは、友達になった。そのように言うべきなのか。

 教室に入り、机にカバンを下ろした時だった。

「小春ちゃん、おはよう!」

 明るい声を背中で浴びる。くるりと右から振り向くと、同じ班の梨咲りさちゃんが首をほんのりかしげ、笑いかけてきた。セミロングの髪が軽く肩に触れ、優しく揺れている。

「おはよう・・・!」

 思わず、大きな声で返事してしまい、クラス中の視線が私に一挙に注がれる。耳と頬がかっと赤くなっていく。そんな違和感満載の私に、梨咲ちゃんはふふっと笑ってくれたのが、かなり救いだった。

「小春ちゃんって、すごく面白いね!今までなんで話しかけなかったんだろう・・・!」

「え!どこが面白いの??」

「そういうところ!反応が面白いの!!」

 そう言いながら、梨咲ちゃんは口元を隠しながら目を細める。いかにも育ちが良さそうに、しぐさも声も上品に笑う。それを聞くと、今までの自分が一気に頭の中に蘇ってきてしまい、恥ずかしくなってきた。

「前から話してみたいな、とは思ってたんだけど、なんとなく、話しかけない方がいいかな?とか思っちゃってて。でも最近彼氏くんとよく話してるの見るから、私も話してみよう!って決心したの!」

 今話しかけてくれるまで、そんな壮大なストーリーがあったのか、と勝手に感動してしまう。胸がじーんとなるままに、彼女の両目を見つめて、何か言葉を発しようとしてみる。

「ありがとう、梨咲ちゃんが話しかけてくれて嬉しい、でもあの人彼氏じゃないんだよね」

 自分で「彼氏じゃない」と言ったのが、なんだかよく分からなかった。口の中をただの空気が通り抜けただけ、という感覚。意味を嚙みしめられないまま、口からするっと何かが抜けてしまったような、何とも言えない感じがした。その空気の塊に意味があるのかないのかも分からないまま。

「えー!絶対付き合ってるかと思ってた!意外~!そんなことあるんだね、すごくお似合いだなってずっと思ってたよ~」

 そっか。私たちは傍から見ると付き合っているように見えるんだ。

 でも、不思議と、嫌じゃない。そんな自分が少し怖いような気もする。今までの知っている自分がだんだんと遠ざかっていくような不安を感じつつも、白砂くんとの関係がそういう風に思われていることに対し、名前のない心地良さが勝っている。この感情を何と呼ぶんだっけ。

 なんとなく、「好きってわけじゃないよ」とは言わないでおいた。知らない土地に迷い込んだまま、戻れなくなってしまうような感じがしたから。何かが、砕けてしまって、取り返しのつかないことになる、と影がささやいてきたから。だから、言わなかった。

 でも、違う。もし「好きかもしれない」とか「好き」って言ってしまっても、私は同じ理由で戻れなくなってしまっていただろう。今、それに気づいた。

「ありがとう」

 とにかく今は単純に返しておいた。胸が高鳴っているのには自分で気づいている。そして、これを何という感情なのかも、その時にはすでに知っていた。

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