踏まれ、踏んで、踏み込んで
潮珱夕凪
いじめ
長く伸び伸びになった前髪のせいで、ぼんやりと黒いもやがかかった視界。その中心で社会の教科書の文字を追い続ける。
午後が始まってすぐの、陽の光が差し込んでいる教室。ゆったり、キラキラとほこりの舞っているカーテンのそばで話していて、時折どっと笑いだす四人組。床で寝っ転がりながら、友達と会話している男の子。机を寄せて、境目にまっさらな自由帳を置いて絵を描きだすいつもの二人。ドアの前にたまりこんで、部活仲間と肩を叩き合いながら快活に笑う人だかり。
中学一年生の春。教科書と前髪の間のわずかな隙間から、そんな人たちをこっそり、今日も眺めている。
―――私もあの中の誰かになれたらな。
心でそっと呟いたテープは自分で切り取り、ぐちゃぐちゃに丸く潰して、投げ捨ててしまった。なぜなら、そうするしかなかったから。そうしないと救われなかった。ドアの向こうに、彼女の姿がちらっと見えてしまったから。
一瞬で体が凍り付き、教科書を持つ手が強張る。手首を曲げ、教科書を急角度にする。絶対に私の顔が見えないように、ちゃんと隠れるように、する。どうか気づきませんように。彼女が、私に、何もしてきませんように。
でも、そんな努力も、願いも無駄だった。次の瞬間、私の名前が、穏やかな空気の波が広がっている教室中に、大音量で響き渡る。耳をふさぐような真似はしない。受け入れる。大丈夫。怖くないよ。だから。
でも、だめだった。
「
その声を聞いた瞬間、自分で保っていた平常心、自尊心が、存在していた意味を失って崩れ落ち、一気に世界から色が失せる。氷水の海に一人放り出されたようになり、苦しさと痛みで息ができなくなり、地上がどんどん遠ざかって、光がなくなっていって、もう戻れないことを意識させられる。刺すような冷たい水の中、頭の上下も分からず、もがいた努力も何にもならないまま、ただひたすらに沈んでいくのを悟った今、強制的に引き揚げられる。そうして、また浴びせられる。
「くそぼっちとか、あいつマジできっしょ!!」
二打目は、周りにいる取り巻きの笑い声も加わってくる。私を蔑むような目で見て、人差し指を私の方に向けて、勝ち誇ったように、笑う。そんな暴力が、何も阻むものがないまま、ダイレクトに私に伝わる。クラスメートは見ないふり、聞こえないふり、知らないふり。それが触媒となる。もっと派手に突き落とされる。今度落ちた氷の海は、水面が灰色になった厚い氷で覆われていて、海に落ちたきり、出られる手立てがない。
―――あ、私、このまま死ぬんだ。
そう理解したら負けだった。一気に鼻の奥を氷水が突き上げ、今反射的に氷水を吸ったのか吐いたのか、それすらも分からなくなってくる。手足を動かして、抵抗したり逃げ出そうとしたりしても無駄。動いた分だけ酸素がなくなって、視界もどんどん暗く、小さくなっていって、目をきゅっと閉じた。
そこで記憶は途切れている。
よほど憔悴しきってしまっていたのか、今日の休み時間の記憶が全くないまま、放課後に突入してしまった。とぼとぼと廊下を歩いていると、唐突に誰かが私の名前を呼んだ。
「村合小春さん!」
俯き気味に振り向く。ゆっくりと視線を上げていくと、短髪で、多少日焼けした端正な顔立ちの少年が、まっすぐに私を見据えていた。その瞬間、はっとした。彼は隣のクラスのバスケ部の、
私が一方的に覚えているだけの、隣のクラスの人気者。誰とでも話せて、いつも周りには友達がいっぱいいて、私とは似てもつかない人。遠くからいつも眺めているけど、絶対一度も話せないまま三年間が終わってしまうと思っていた。でも、なぜ彼が私を認知しているのか。なぜ、今彼に話しかけられているのか。いろいろな疑問とちょっとした興奮が一気にぐつぐつと煮込まれるようになって、どんどん崩れたり、ぶつかったり、溶けていったりしている。もう何が何なのか分からなくなるほどに。
「いつも、昼休み大丈夫?」
「えっ・・・?」
戸惑いのまま、短く、何か曖昧なものが発音される。頭の中で彼の言葉を何回もぐるぐると回す。そのうちに気づく。自分の心のどこからか、温かいものが溢れ出していることに。気づいたら、彼の姿は白んで歪んでいて、私は鼻をすすっていた。涙が、一筋、二筋、と尾を引いて、心に降りしきっている雨が、色を覚えていく。涙を流した分だけ、雨に洗われた街のように、心が輝きを取り戻し、澄み切っていく。
彼は何も言わない。そっとしておいてほしかった私には、少し嬉しかったような気もした。
長い沈黙の後、彼は感情を波立たせることなく、さらさらと私に語りかけた。
「俺が、村合さんを守ってもいいですか」
その目は、私の目を確かにはっきりと見つめていた。私は、静かに大きく頷いた。
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