8 悪女、彼の秘密を知る

「あ、まだ息してる。止めますね」


 片手に金属の火掻き棒を持った青年……ロアルドは、その棒で殴られ泡を吹いて倒れている男に、何の感情も見せないまま、さらに二、三発ドスンと重い蹴りを入れた。


 彼のすらりとした細身な身体からは想像もできない光景だった。ドリナはぽかんとして見ているしかない。

 そして彼は、いつの間にか開け放っていた部屋のドアの先に向かって声を投げる。


「皆さん、僕が指示した通り、この男を縄で縛り、下の屋敷の門で待機している憲兵に速やかに引き渡してください。言っておきますが、この男に従ってドリナさんを攫ったりした者たちも、罪の多寡はあれ犯罪は犯罪ですからね。きちんと全員出頭させるように」


 ロアルドの言葉に、使用人らしい人々の力強い返事が聞こえる。先ほどまでの屋敷の静けさと打って変わり、大勢の人がいる賑やかさを感じる。まるで、人払いされていた場所に大群が帰ってきたみたいだ。

 ばたばたとやって来た彼ら彼女らが、マネキンを撤去するように失神した男を担いで出て行く横で、


「そしてヨナス、ヘンリ、マテオその他の者は、書斎の金庫にまとめてある書類を全て持ち出して下さい。ええ、物証も証言も既に取ってあります。遠慮なくこの公爵家を隅から隅まで洗い出してくれて結構」


 はーい、と気安い反応があった。揃いのグレーの制服を着た人たちが通り過ぎていくのが見える。


 あの制服は見たことがある。選りすぐって優秀な者たちが集められていると話に聞く、帝都の中央政府直属の官吏たちだ。

 そんなエリート官僚たちを、ロアルドはまるで部下を扱うみたいに命令している。それはおかしな話である。だって彼は、公爵家の秘書であるはずではないか。


「……ロアルド」


 そう声をかけて、彼がこちらを振り返った時、ドリナは彼の胸元についているネクタイピンが、前の公爵家の家紋のものと違うのを見つけた。


 代わりについているのは、皇帝の勲章。

 ドリナも数回だけ目にしたことがある。中央政府の勲章だ。それも、余程の高官しかつけられないはずの代物。


「ドリナさん」


 声をかけられて、ドリナはベッドの上にへたっと座り込んだまま彼を見上げた。

 ロアルドはドリナと目が合った途端、冷たい無表情を崩して、今にも泣きそうな顔で近寄ってきた。毅然として指示を飛ばしていたさっきまでの様子と打って変わり、ひどくおろおろしている。


「ああ、ドリナさん、ドリナさん、本当にすみません! もっと早く駆けつけられたら……いや、最初からこんなことに巻き込まなければ……」

「本当よ。ずいぶんなことに巻き込んでくれたみたいね」


 実際そうなので、ドリナはしっかりと嫌味を返しておいた。ロアルドが絶望したように顔を真っ青にしている。まるで捨てられた子犬のようだが、片手にまだ男の後頭部を殴りつけた火掻き棒が握られているので、なかなかシュールな絵面である。


 だが、ドリナの文句は照れ隠しでもあって、本心ではホッとしていた。ロアルドが現れ、うっかり相手を殺しかねない勢いで男を殴りつけてくれた時、戸惑うよりも先に安心してしまったのだ。

 自分の中のロアルドへの好意と信頼が、まだ衰えていないことを知って、ドリナは少し悔しい気持ちだった。自分の恋心は、裏切られたと思った後にも残るほど強かったらしい。


 そうだ。裏切られたと言えば、この状況がまだあまり理解できない。


「ロアルド。あなたハイブルク公爵家の秘書なんでしょ? 今、主人を憲兵に引き渡して、使用人たちがあなたの言うことを聞いているのは、一体どういうことなのよ」

「……説明させていただけるなら、説明したいのですが……。あの男は、ドリナさんにどこまで話したんでしょうか?」

「私が捨てられた皇女様であなたが私を調査していたことまで、だいたいは」


 ロアルドは暗い目を伏せて、ああ、とため息を吐いた。


「知ってしまわれたんですね。ご自分の出生のことを」

「まだ実感としては信じられないけどね。それが原因で私が狙われたことは理解したわ。まあ大丈夫、あの男にはまだ何もされて無かったから」

「何かされそうになった時点で大問題です。こういうことを止めるために僕がいたのに、いくら謝っても足りません」

「謝罪は後でまとめて受けるわ。とりあえず落ち着いて話をしましょう。そこ閉めて」


 ドリナが頼んだので、ロアルドは部屋のドアを閉めた。これで部屋には二人きりになった。

 ロアルドはドリナのもとへ戻ってくると、おずおずと「そばに行っても平気ですか?」と尋ねた。ドリナは頷いてベッドに腰掛け、自分の隣の場所をぽすぽす叩いた。


 ロアルドはドリナの横に座ると、いつもの彼らしく、生真面目に話を始めた。


「ドリナさんは……お聞きになった通り、現皇帝の第一皇女です。それは間違いありません。瞳の色もそうですし、他の証拠は僕が調べましたから」

「そう。それは私を、あの皇帝になりたいとか言う誇大妄想男に差し出すため?」

「違います! 本当です! 信じてください!」


 必死なロアルドの様子がおかしかった。ドリナも、薄々彼が自分をただ罠にかけようとしていた訳では無さそうだと気付いてはいたのだが、あれだけの経験をしたのだから、もう少しだけ意地悪をさせて欲しい。

 ロアルドは、スーツの胸元から勲章を取って手に持った。


「僕は公爵家で秘書として働いていましたが……本来は、中央政府の官吏です。所属は諜報部、つまりは国内外の不審な動きを調査して、摘発することが仕事です。

 このハイブルク公爵家は、当主の公爵が病に倒れて子息が取り仕切るようになってから、税金の搾取や違法経営など、色々な疑惑がありました。それで僕が潜入捜査のために、表向きは秘書として派遣されたんです」


 控えめに自分を語るロアルドだが、先ほどの働きぶりを見るに、実際は官僚の中でもかなり高い立場にいるらしいことが推測できた。まだ若い彼の歳を考えるとずいぶん異例だ。おそらく非常に優秀なのだろう。


「特に厄介だったのは、この子息が公爵家という立場故に知れた話……下町に消えた第一皇女の存在を信じて、彼女が成人する年を狙って、帝都を探し回りだしたことです。

 曲がりなりにも、それなりに強大な権力と地位を持った公爵家です。彼が次期皇帝を狙って皇女を探すとなると、このままではクーデターの火種になるかも知れません。そこで、例の皇女を探し出して、公爵家やその他に取られる前に保護するのも、僕の仕事になっていました」

「それで、私に近付いたって訳ね」


 これは、ドリナは特に責めるつもりで言ったのではなく、事実確認のためだったのだが、ロアルドは気まずそうに視線をうろつかせた。


「言い訳じゃないんですが、貴女とあそこで出会ったのは本当に偶然です。確かに、あの子息と劇場に行った際『今ドリナ・レースヒェンの目が紅く見えた』とか騒いでいたのは聞きましたが、またあの男の見間違いか妄想だろうと流していました」


 つまり、二人の出会いそのものは、仕事とは関係のないものだった。初めて会った時のロアルドの優しさ自体は、本物だったという訳だ。


 だが、明るい劇場の舞台と、夜のバーを行き来して、何度も会っているうちに彼は知ってしまった。よく考えれば、初対面の時から既に、ドリナの瞳が紅くなっているところをロアルドは見ていた。普通ならすぐ違和感に気付くはずが、何も探ろうとしなかったのは、あえてその事実から目を逸らそうとしていたためか。


 おっとりした柔和な好青年のロアルド・ギュンター。

 ドリナが信じて疑わなかったその像の裏で、彼の人知れぬ苦悩は始まっていた。

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