6 悪女、攫われる
頭が痛い。身体がだるい。
ひどく眠たいのに、やけに肩を揺すられている感じがする。
「おい、そろそろ起きないか」
横柄な声だ。しかも知らない人間である。こいつがドリナを起こそうと眠りを妨げてくるらしい。
(なによ。こちとら人生初の失恋で傷心中なのよ。そっとしておいてくれないかしら)
むかついたので、ドリナはもうしばらく寝たふりを続けることにした。耳に集中すると、話し声はもう少し鮮明に聞こえてきた。
「チッ。薬の量が多すぎたんじゃないか?」
「申し訳ありません……」
「まったく。ロアルドも使えん奴だと思っていたら、ちゃんと捕まえていたくせに知らせなかったのか。即刻クビにしてやりたいところだが、まあいい」
いきなりロアルドの名前が出てきたので、そこで初めてドリナはぴくりと反応した。薄目を開くと、薄暗い空間で、見知らぬ人物がドリナを見下ろしているのが分かった。
状況から判断するに、どうやらこの相手がドリナを夜道で攫ってきた連中の主犯らしい。そう認識すると、ドリナの中でむくむくと怒りが湧いてきた。会話に割り込むように、ガバッと起き上がって怒鳴りつける。
「ちょっと! そこの誘拐犯ども、無駄話をしている暇があるなら即刻私を家に帰しなさい!」
「おお、やっとお目覚めだ。さすが帝都で最も有名な悪女ドリナ・レースヒェン、威勢がいいな」
相手の男は驚いた様子もない。ドリナは余裕綽々な男にイラついたが、ひとまず辺りを見渡す。
ほどほどの広さの部屋だ。高級そうな調度品やビロードのカーテンなどを見るに、かなり立派なお屋敷の部屋と考えていい。ただ、照明は最低限にされていて仄暗い。自分が寝かせられていた場所を確認して、ドリナは一気にうんざりした気持ちになった。
寝台である。おそらく使用人なんかの手で丁寧にショーツが整えられた、広くて異様にふかふかなベッド。サイドテーブルには薔薇の花束が置かれている。雰囲気作りのつもりだろうか? 心底バカバカしい。
なるほど。どうやら自分は、どこぞのクソ野郎に、最低な目的で攫われてきたようだ。
「あなた。どこの金持ちか貴族の坊ちゃんだか知らないけど、とりあえず言っておくわ。そこから一歩でも近付いてきたら殺す」
ドスを効かせた声で宣言したが、男は笑って真面目に聞く気がないらしい。そばにいた使用人を退出させて、改めてドリナの方に向き直った。
「俺を知らないなんてことは無いだろう。何せ帝都歌劇場の常連客なんでね。お前も俺のことを認識していたはずだ」
「あいにく、まったく記憶にないわ」
「それは嘘だ! この頃は劇の最中に、特別来賓席の方にちらちらと熱烈な視線をよく寄越していたじゃないか。あれは俺を見ていたんだろう?」
やけに自信満々な男の言い分に、ドリナは本気で首をひねる。
まじまじと男の顔を観察してみると、男は意外に整った顔立ちをしていて、派手な美形だった。が、心の底から記憶にない。
(来賓席? ということは、コイツは身分を隠して通いに来るほどの貴族要人ってことかしら。厄介なことになったわね)
そこで、はた、とドリナは思い出した。
いつも上司か誰かの付き添いで、来賓席の近くに立っていたロアルド。彼の存在が気になって、ドリナは何度も、自然な形に誤魔化しながら彼の方を見ていた。
そしてさっき、ロアルドの名前を出した時の男の口ぶり。これを合わせて考えると、
(つまり、この野郎はロアルドの上司で……私がロアルドの方を見ていたのを、自分にアイコンタクトを送られたと勘違いしたと)
男の表情を見る限り、どうやら正解らしい。ドリナが自分への好意があると信じて疑っていない顔をしている。なまじ、容姿がいい上に貴族の身分だから、そんな風に惚れられることが多かったのかもしれないが。
最悪だ。
「人違いよ」
早めに誤解をといておこうと、ドリナはキッパリ言った。しかし男は取り合わない。
「俺以外に誰がいた? それとも、ドリナ・レースヒェンは金と権力がありそうな来賓席の客にいつも流し目を送っているのか? ハッ、悪女の名に恥じないな」
「あなた、ロアルドの上司? ロアルドはこの人攫いに何か関与しているの? ロアルドはいったい何者なの?」
男の下らな過ぎる挑発を流して、ドリナは一方的に聞きたいことだけ質問した。
自分の思い通りにいかず、男は気を悪くしたようだが、しぶしぶといった風情で口を開いた。
「あいつは俺の秘書だ。我がハイブルク公爵家で雇っている、まあ、身辺の雑用係だな。あいつにドリナ・レースヒェンのことを調べるよう言いつけたのに一向に知らせに来ないから、痺れを切らして俺自ら出向いてやったら、なんと本人と仲良くやっているじゃないか。あいつの職務怠慢のせいで何ヶ月待たされたことか」
ハイブルク公爵家。どこかで聞いたことがあると思ったら、いつだかバー・カミーユで聞いた名前だった。ロアルドのネクタイピンが公爵家の家紋をしていると。
やはり雇い人だったのか。ドリナは、ロアルドとの出会いも彼の仕事の延長線上にあったと知って、ひそかなショックを受けた。
(……じゃあ、ロアルドは私とコイツを引き合わせることが目的だったわけ? このあまりにも最低な場所で?)
信じられないし、信じたくもなかった。だとしたら、ロアルドを下心のない誠実な人間だと懐いていたドリナは、どれだけ節穴の目をしていたというのか。
呆然としているドリナのもとへ、男が一歩、踏み出した。びくっとして離れようとしたが、先に肩をがっちり掴まれて動けなくなる。
顔を覗き込まれたので、ドリナは舌打ちして相手を睨み返した。しかし、男はドリナの瞳を見て、表情を輝かせて恍惚とした。
「やはり……! 舞台の上では青緑色だが、こうして暗い中で見ると薔薇のような紅色だ。素晴らしい、やっと本物を見つけたぞ!」
「は? 紅色ですって?」
また訳の分からないことを言う。ドリナの瞳は昔から青緑色だ。本物のサファイアみたいだと、劇場の支配人やカミーユおばさんから褒められて育った。
……いや、待て。以前にもドリナの瞳について、妙なことを言っていた奴がいた。
『ほら。ぴかぴかでルビーのように綺麗』
初めて会った時の記憶。へらりとした彼の優しい笑顔。
ベッドの横の、真っ暗な外が映る窓に目を向ける。鏡代わりになって反射された光景の中にドリナの姿がある。
目が合った窓の中のドリナは——妖しく光る紅色の瞳をしていた。
「……え?」
「こんな話を聞いたことはないか? まあ、庶民育ちなら無いか。どんな話かと言うと、このノルデン帝国の皇族は、ある異民族の血を受け継いでいる。その異民族とは、その昔は魔物とか吸血鬼と呼ばれた類の者たち……紅色の瞳の民族だったという伝説だ」
見慣れぬ自分の姿に、紅い目を見開いているドリナへ、男は語りかけた。
「上流階級では知られた噂だがな。時代が下るにつれて、皇族も現地の人間と同化していったが、かつての血の名残がその瞳に遺された。そのため、ノルデン帝国の皇族は、明るい光のもとでは普通の色をしているが、暗い場所では紅い血の色をする」
サファイアのような青緑色と。
ルビーのように真っ紅な瞳。
まさか。そんなことがあるはずない。ドリナは下町で拾われた捨て子の孤児で、貴族なんかとは一切縁のない庶民で——。
「帝国を統べる皇帝が魔物と混血であるのは、昔は外聞が悪かった。だから公文書や歴史書にも記述はない。今は庶民の中にも薄く紅い瞳の者くらいはいるが、瞳の色が変わるのは今度は皇族のみのステータスとして秘匿されている。つまり、」
目前に指が突きつけられる。
「ドリナ・レースヒェン……改め、ドリナ・フォン・ノルデン。貴様が十九年前、宮殿から秘密裏に下町へ捨てられた、側室の子の第一皇女だ」
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