5 悪女、敗走する

 自分が怖気付いてしまわないうちに、核心に切り込む。


「私のこと、あなたはどう思う?」


 もちろん、欲しい言葉はひとつ。

 尋ねられたロアルドは一瞬、ほんの一瞬だけ、瞳を揺らがせた。


「……すてきな方だと思っています。努力家で、自分の仕事に真剣な、尊敬すべき歌劇女優として」


 褒められた。どの新聞の批評にもないような、彼らしい素朴な言葉で。

 だが、そうじゃない。


 返答を聞いたドリナの胸に、失望が紙に垂れたインクのようにざあっと広がる。


「ロアルド。分かってるでしょう? 私が聞いてるのは、そういうことじゃないって」


 答えはない。ドリナはもう一段、強く踏み込んでみる。


「はっきり言いなさい! 女優のドリナ・レースヒェンではなく、この私のことは好き、嫌い?」

「嫌いなわけがありません」


 今度は即答だった。いつも優しげなロアルドの瞳が、やけに真剣な光を湛えて真っ直ぐ見つめてきたので、ドリナは顔色を変えないまま心臓が跳ねた。

 しかし直後に、彼は目をついと逸らした。そして声の調子を落とすと、


「……いえ、違いますね。嫌いではないどころではありません。積極的に好きだと確信をもって言えます。貴女から恋人として愛されたらどんなにいいかと、くだらない想像をしてしまう程度には」


 一瞬、ぽかんとしてしまった。


 次に、これまで女優の意地で感情の出ることがなかった顔が、みるみるうちに赤くなる。言葉を失ったドリナと、目を逸らしたままのロアルドの間に、しばし沈黙が降りた。

 静寂の中で、ドリナの頭の中は派手に散らかって動転していた。


(な、な、なに、今の。それもう……もう、告白と変わらないじゃない!)


 混乱が止まらないドリナに、ふと、頬に手が添えられる。

 ひんやりした優しい手だ。ドリナは肩を跳ねさせたが、すぐに落ち着いた。ロアルドに触れられていることの安心感と幸福感が、急速に彼女を包んだからだ。二人はしばらく見つめ合った。


 ところが、キスが頬に落とされることはなかった。

 むしろ、ロアルドはドリナの目をシャンデリアの照明のもとで覗きこみ、瞬きして、「ああ……」と絶望したように呟いた。


「やっぱり青緑色だ……」


 そして何もしないまま、手は離れていった。

 ドリナは目を丸くして立ち尽くした。まったく訳の分からないドリナに、ロアルドは両手を握りあわせて苦しげに告げた。


「ごめんなさい。ドリナさんとは駄目なんです」


 その言葉で、ドリナの暖かい幸福感は、冷や水をかけられたように急低下した。


「……何が駄目なのよ」


 唖然とした後、かろうじて出た声は低かった。


「貴女に事情をお話しできないのがひどく心苦しいんですが……。本当は、僕はドリナさんとこんなに親密になってはいけなかったんです。今はもう、はっきり分かってしまいました。僕の仕事は貴女にとって、悪い結果しか呼ばないものです」

「仕事? あなたの仕事が、私たちのことにどう関係があるっていうのよ!」


 煮え切らない返事しかしないロアルドに、ドリナは自分でも思わず声がだんだんと荒くなってきていた。それは怒りと苛立ちのためでもあったが、一番の目的は、今にも泣き出してしまいそうな悲しみを隠すための強がりだった。


 つまりは、そういうことなのだ。

 フラれた。

 世紀の悪女ドリナ・レースヒェンは、心優しいロアルド・ギュンターから、彼らしく優しく遠回しにフラれたのだ。


(ぐずぐずして、期待させてといて、本当にひどい男。許さない。コイツが持ってる白いシャツ全部に、ことごとく赤ワインでも零れちゃえばいいんだわ)


 彼へのあらゆる理不尽な罵倒が頭の中を駆け巡ったが、同時に、ドリナはロアルドの性格のそういう側面が好きだったことを、改めて痛いほど実感していた。

(あ、泣きそう)


「……私、帰るわ」


 ドリナは歪んだ顔が見られないうちに立ち上がり、止めようとするロアルドを無視して背中を向けた。


「ここの代金は置いていくから。じゃあ、さよなら。もう二度と会わないかも知れないわね」

「あ、ちょっと、ドリナさん! あの、少しだけ待ってください。今お店を出て行くのはまずいんです! それか、せめて僕も一緒に出るので……」

「何よ、指図しないで! ついて来ないで!」


 ついに女優の落ち着きをなぐり捨てたドリナは、後ろを顧みずに部屋を飛び出し、驚いている店員に財布を投げつけ、お釣りを断って店を出た。


 閑静な地区にある高級店だけあって、この時間になると辺りはすっかり暗く、明かりの灯った居酒屋などもない。自宅に帰る気にもなれず、ドリナは人気のない街路をあてどもなく歩いた。

 早足でつかつかと歩いていたドリナは、己の今の状況に何故だか笑えてきた。何人も男を破滅させてきたと帝都中で噂されているこの悪女ドリナが、人生で初めての失恋に取り乱している様が、自分で滑稽に思えたのだ。


「ふふふ……」


 あまりに静かな夜だったので、石畳の上にドリナの乾いた笑い声だけがこだました。

 勝手に燃え上がって、勝手に期待してしまった。ドリナは思い返す。自分の好意は、ロアルドを困らせてしまったようだ。眉の下がった彼の表情が蘇ってくる。悪いことをした。きっと彼にも事情があった。疲れている彼に自分の気持ちを押しつけて、あんな顔をさせてしまった。


 しかし。それでも、そうして自分のことで悩んでくれたというだけで、嬉しい気持ちを否めない自分は、なんて自己中心的なのだろう——。


「……うっ」


 急に視界がぼやけた。意地でも涙をこぼさないよう、ドリナは夜空の星に向かって顔を上げた。

 やはり、この辺りは暗すぎる。こんなにも星が綺麗に見えるだなんて。


 傷心のまま、細い流星がひとつ、夜空を駆けていくのを見届けたところで、


「やっと見つけたぞ」

 事件は起きた。


 声をかけられたドリナは、ほんの一瞬だけ、ロアルドが追いかけてきたのかと思って足を止めてしまった。

 もちろんすぐに、その声がロアルドのよりも低くて乱暴なことに気付いたが、その隙がまずかった。


「は、なに……っ?!」


 口元にハンカチがあてがわれる。甘い匂いがする。途端に、ドリナの意識はぬるく深いところへ沈んでいく。力が抜けていく身体を誰かが支えたが、それは少なくとも、ロアルドではないことは明らかだった。

 眠らされる直前、ドリナは自分の身体が、どうやら馬車のようなものに乗せられたことを認識した。だが、それまでだった。


(……今日は、いったいどこまで災難続きなの……)


 心の底からの嘆きを最後に、ドリナの意識はぷっつり途切れた。

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