4 悪女、誘惑する

 その後も「悪女」ドリナの奮闘は続いた。


 が、いよいよ女優業への自信を完全に失いそうになるくらい、まったくうまくいかなかった。


 しばらくロアルドをわざと無視してみて、様子を見る作戦にも何度か出た。

 しかし、


「ドリナさんがいらっしゃらないと、何だかさみしいですね」


 ひとこと、ロアルドに何てことないように呟かれるだけで、ドリナの方の心が折れてしまう。まんまと彼の元へ戻ってくると、ロアルドは平気な顔でまた歓迎してくれる。

 心なしか無視して戻ってきた後は、いつも以上にロアルドが優しくしてくれている気がして、絆されそうになったドリナは慌てて気を引き締め、悪女の演技を再開する。

 その繰り返し。


 舞台で着ているような、肩口と胸元が大きく開き、脚の部分にスリットが入ったドレスで挑んでみたりもした。

 ドリナの姿を見て、ロアルドがキョトンとした顔をしていたので、恥を忍んで誘惑した効果があったかと思ったが。


「おやおや。その格好、今の季節だと肌寒くないですか?」

「……これぐらいの寒さでも顔色を変えないで演技するための鍛錬よ」

「素晴らしい心がけですが、貴女が風邪を引いたら悲しむ人たちがたくさんいますよ。どうぞ、これを」


 そう言って、抱きしめてくるような動きをしたので、真顔のままドリナの心臓は跳ね上がったが、肩からふわりと被せられたのは彼がいつも着ているロングコートだった。


「ねっ、意外にあったかいでしょう? 実は僕冷え性で、上着には気を使ってるんですよー」


 ほのぼのとした顔でどうでもいいことを教えてくるロアルドに、ドリナはいよいよ感情が爆発しそうだった。


(この人は、もう直接言わないと分からないんだわ!)


 本性が引っ込み思案なドリナは、やっと覚悟を決めたのである。


 ある日の公演が終わった後。ドリナは真っすぐ歌劇場を出て、ロアルドが通るであろうバー・カミーユまでの道で、そっと待ち伏せていた。

 角から現れたすらりと背の高い雪のような髪の優男に、ドリナはわざと軽くぶつかった。


「おっと、すみません……あれ? ドリナさん、どうしてこちらに?」


 最初に出会った時のように、ヴェールを被って自分に身体をもたれさせたドリナに、ロアルドは驚いて白いまつ毛を瞬かせた。

 そんな彼に、ドリナは上目遣いで、たっぷり可愛らしく笑いかけた。


「今日は、ちょっと高いお店に行きましょう?」


 皇都の裏通り、下町の喧騒から離れて少し閑散とした高級店の区域。

 ドリナにとっては親代わりのような存在である歌劇場の管理人に、一度だけ「大人の修行」と言って連れて来られたことのある店に、今度はドリナがロアルドを引っ張って行った。


 その店は完全個室制だったので、二人も部屋に案内された。小さなシャンデリアが暖かくほの暗い蝋燭の光を放つ下に、レースだらけのクッションに埋もれたふかふかのソファと、ちょっとした料理と酒が用意された机が置いてある。

 噂によれば、高位貴族たちも密談に使っていたりする老舗の高級店なようだ。しかし、そんなことは今のドリナには関係なかった。


「最近はつれなくしていて、ごめんなさいね」


 店員が去るなり、ドリナはソファについてロアルドに身を寄せた。

 今まで無愛想だったドリナからやけに甘やかな態度を取られたロアルドは、不思議そうに「いえ……」と、寄りかかってくるドリナを受け入れてくれた。


 今日のドリナの服装は、あえて露出が少ないシックなドレスである。分かりやすく扇情的な服よりも、こちらの方がむしろドリナには似合っており、本来の彼女の美貌とツンとした色気を引き立てている。


「お料理は、他に何がいいかしら。ロアルド、あなたはどう? 今日は珍しく私が奢ってあげるわよ」

「ふふ、それは素晴らしいですね。ですが失礼、今はあまり食欲が無くて」


 そう言うロアルドは、社交辞令でなく本当にあまり元気が無いようだった。いつもかっちり着込んだスーツを、少し緩く崩している彼の姿を、ドリナは初めて見た。


「ロアルド、あなた今日お疲れ?」

「ちょっと、うちの上司が人使いの荒い方でしてね……。最近は特にひどくて。ですが、どうかお気になさらず」

「気になるわよ。なぁに、仕事を押し付けられでもしたの? 話してごらんなさい」

「うーん、せっかくドリナさんと居るのに、仕事の愚痴は言いたくないですね」


 ロアルドはのんびりとそんなことを言う。


(そういえば、いつも仕事の話になるとはぐらかされるわね)


 ふとドリナは気が付いた。けれど、まあ、それも彼女には関係はないことだ。存外ロマンチストな彼女は、例えロアルドが本当は無職だろうがホームレスだろうが、本気で気にするつもりはなかった。彼の洗練された身なりと振る舞いを見る限り、まさかそんなことはなかろうが。


「……ちなみに、秘密結社のドンとか危ない薬の売人とかではないわね?」

「断じて違います。心外です」


 おっとりしたロアルドには珍しく真剣なトーンだったので、ドリナにはおかしかった。

 くすくす笑うドリナに、ロアルドがやや拗ねたように憮然として言う。


「僕がそんな危険な人間だったら、今ごろドリナさんの人生はとっくにめちゃめちゃにされてますよ」

「あら、怖いこと言うじゃないの。真面目で優しい好青年のロアルド・ギュンターらしくないわよ」

「どうも。さして真面目でも優しくもないんですけどね、本当のところ」


 半ば独り言のように呟くロアルド。彼の横顔が見慣れたものと違う、虚ろな表情になった気がして、ドリナは一瞬緊張した。


「……そういえば私って、あなたのこと詳しく知ってる訳じゃないわね」

「そうですかね? 僕はけっこうドリナさんのこと知ってる気がしますよ」

「私がいつも仕事の悩みを聞かせてるからでしょ。悪かったわね、せっかくあなたと居るのに仕事の愚痴ばっかりで」

「もう、そんな意地悪な言い方しないでくださいよ。僕はドリナさんと話せて楽しいんですから、それでいいじゃないですか」


 まるで話を早く切り上げたいような、ロアルドにしては落ち着きのない言葉だ。ドリナはワインの代わりに葡萄水の入ったグラスを傾けて、そんなロアルドの様子をじっと見た。

 自分のことに首を突っ込まれるのが苦手なのだろうか。それとも、素性に何か隠したいことがあるのか。ならば、深くは追及しない。ロアルドもドリナも社会人だ。踏み入っていい領域とプライベートの線引きはする。


 ただ、今回ドリナが聞きたいのは、他でもないそのプライベートの話なのだが。


「……ねえ、あなたって独身?」

「もちろん独り身ですけど……」

「恋人は?」

「もしいたら、こんな風に別の女性と二人きりでお酒を飲んだりはしないですよ」


 それはそうだ。

 ドリナはグラスを置いた。


 つまり、そういうことなのだ。


「ロアルド。私のこと、どう思ってる?」

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