3 悪女、から回る

 後輩のマリーにまんまと唆されたドリナは、行きつけのバーまでの道のりを急いでいた。


(悪女! 今晩私は悪女になるのよ! 気合を入れろドリナ・レースヒェン、これで彼を……ロアルドを誘惑できなければ、帝都一の悪役女優の名が廃る!)


 ドリナは決意を固めて、店のドアを開けた。


 カウンター席の一番奥。そこにロアルドは、いつものように隣の席をひとつ空けて座っていた。

 ドアについていたベルが鳴って来客を知らせると、グラスから目を上げたロアルドが、ドリナに気付いて朗らかに笑った。


「ああ、ドリナさん。今日もいらしたんですね。よければ、こちらにおかけください」


 そしていつものように、隣の席をすすめてくれる。ドリナはだいたい、照れ隠しに貼り付けた仏頂面でそこに腰掛けるのだが、今日は違った。

 にっこり読めない笑みを浮かべて、ドリナはぷいっとそっぽを向いた。


「今日は、なんだか気分じゃないわ。お互いひとりで飲みましょう」

「えっ」


 きょとんとしているロアルドを尻目に、ドリナは彼から遠い、しかし彼からよくこちらの様子が見える席に座った。そして、周りの常連客たちといかにも親密そうに話してみる。


(よく一緒にいた相手から急に離れられると、誰だって不安になって、呼び戻したくなるものだわ。あっちが何か反応を見せるまで根比べよ!)


「ドリーちゃん、また何か変なことやってんのねえ」

「カミーユおばさん、余計なこと言わないで!」


 昔から馴染みの店主にからかわれ、ドリナは慌てて小声で口止めする。それを見て笑う周囲の常連客たちも、子どもの頃に世話になった家族同然の下町の人々だ。


 ドリナは知らないが、彼らは皆ドリナがロアルドに抱いている気持ちを察している。そしてにやにやしながら静観している。若者の恋路ほど、見守っていて面白いものはない。


「あのロアルド・ギュンターさんって人、ハイブルク公爵家の家紋のネクタイピンをつけてたから、そこの秘書さんかも知らんねえ」

「それか執事だな。いいじゃん、ドリー、俺たち下町からの成り上がりにとっちゃ、まあまあな玉の輿だぜ」


 幼馴染の大工の息子に言われて、ドリナはちょっと顔を赤らめながら「黙りなさい!」と肘鉄を食らわせた。はたから見たら、若い恋人同士の男女の戯れのようにも映る。


「玉の輿なんてどうでもいいわ! 私はまあまあ稼げてるし、家柄も地位もいらないし、今の仕事が好きだもの。だから初めての恋愛をするなら、本気で好きになった人としたいの! たとえ相手が売れない吟遊詩人だろうと無職だろうとサギ師だろうと……!」

「あちゃ、ダメだわこの子。絶対悪い男に騙されるよ」

「ここまでくると、ドリーがこんだけ惚れ込んでるロアルドとかいう奴も怪しく見えてくるな……」


 言動の危ういロマンチストなドリナのせいで、何の罪もないはずのロアルドの方へも常連客たちから疑わしげな視線が向けられた。

 ひとり静かに過ごしていたところへ急に注目されたロアルドは、首を傾げて「?」を頭の上に飛ばした。


 ちらりと彼の様子を横目に見たドリナは、演技で鍛えたポーカーフェイスのまま机にドンッ! とジョッキを叩きつけた。


「ん? じゃないわよあの野郎! 悠々とひとりでディナーを楽しみやがって! やっぱりあの人が好きなのは私じゃなくてカミーユおばさんの料理なんだわ!」

「あらー照れるわねぇ」

「い、いやまあ、それにしたってあんな身なりのいい奴がわざわざ場違いな下町のバーまで来んだから、ドリーに対して何もないって訳ではないと思うぜ」

「そう?! そうよね!? ありがとうあんた!」


 立ち上がったドリナは大工の息子にガバッと抱きつき、相手が驚いてどぎまぎしているのを放って、ロアルドの元へ近寄った。根比べに完敗したのである。

(もうまだるっこしい! 直接アタックしてやるんだから!)


「おや。また気が変わられたんですか?」


 ロアルドにそう笑われて、意気込んで隣にやってきたドリナはさっそく心の中で動揺した。


「……なぁに。あなたにどうこう言われることじゃないでしょ。私の気まぐれよ」

「それはそうです。でも来てくださって嬉しいですよ。何か奢りましょうか?」

「ブルグント・ワイン、八十年もの!」


 ドリナが宣言すると、ロアルドはびっくりした顔をした。

 ブルグント・ワイン、それも八十年ものともなれば、いくら下町のバーにある酒とはいえかなりの高級品だ。ドリナのファンにも、月給を丸々使って無理して送ってくれる者がいたりするが、いつもドリナは「無理して粗末な酒を買うより、私の劇をこれからもせっせと見に来ることね!」と次の劇のチケットを同封した手紙を添えて品物を送り返している。手をつけていない新品ボトルなら、売れば元の値段の大半は返ってくるからだ。

 悪女が破産させるのは物語の中の富豪だけで充分である。


(でも今回は違うわ。相手を誘惑するには、貢ぐよりも貢がせる方がずっと効果的よ。相手を破滅まで導くほどの悪女こそ、本物のファム・ファタールってものだわ!)


 後でこっそりお金は私が立て替えておくし! と息巻くドリナは、さっそく作戦に矛盾を生じさせていることに気付いていなかった。

 だが、ロアルドが戸惑っているのは、値段に対してではないようである。


「ブルグント・ワインはいいお酒ですが……あの、度数はご存知ですか? 慣れていない方にはかなりアルコールが強烈だと思いますよ」

「馬鹿にしないで! こんなもの、水より飲み慣れてますもの。いつも一緒に遊びに行く殿方たちがプレゼントしてくれるのよ」


 ところが実際は、ブルグント・ワインどころか酒全般に非常に弱く、しつこく飲みに誘ってくる貴族や金持ちの商人たちから必死で逃れて断っているのがドリナ・レースヒェンの素なわけで。


 心配するカミーユ店主を押して、ワイングラスを手に取ったドリナは、二口飲む間にすっかり酔い潰れていた。


「うぅ〜……こんなワイン、なんてことないわ……私は悪女……殿方を破滅させて地獄の業火に引きずり込む悪女なんだから……」

「それだと悪女というより、獄卒の鬼みたいですよ」


 カウンターに突っ伏したドリナの呻きに、ロアルドが生真面目に返した。ドリナのグラスに注がれたワインはまったく減らないのに、ロアルドはもう四杯目のグラスを傾けている。そのくせ顔色ひとつ変わらない。


 彼は遠巻きにドリナたちのことを見守っていた常連客たちの方に振り返ると、「僕たちではボトルを飲みきれそうにないので、よろしければ皆さんでいただきませんか?」と誘いをかけた。そうそう飲めない高級酒をタダで振る舞われる客たちは大喜びだ。


「さて。ドリナさん、もうお帰りになった方がいいのでは? 今日の"気まぐれ"は終わりにして」

「……」


 何か悪女らしいことを言い返そうとしたが、既に意識が朦朧としていたドリナは「うん」と素直に応じた。

 ひとりで帰ろうと立ち上がるが、足元がおぼつかない。ふらついたところを、いつかと同じようにロアルドに支えられた時、ついにドリナの意識が飛んだ。


(これじゃ悪女どころか子どもじゃない……ああ、わたしのばかぁ〜……!)


 無念の中で、ドリナは深い眠りにすみやかに沈んでいった。


「ありゃー、ドリーちゃん寝ちゃったかい」

「お兄さん、そいつ担いでいくの大変だろ。家知ってるから、俺が届けに行くぜ」


 すぴーと無防備な表情で寝込んでしまったドリナの周りで、わいわい盛り上がっていた客たちの中から、そんな声が上がった。


 紳士帽をかぶり、真っ黒な丈の長いロングコートを羽織って、ドリナに肩を貸したロアルド青年は、その申し出に優しい笑顔で答えた。


「え。嫌です」


 一瞬、バーの店内が凍りついた。


「僕もドリナさんのご自宅は存じております。妙なことはしませんし、きちんと送らせていただきますのでご心配なく」


 口調は柔らかいのに、まったく有無を言わせない響きだった。そして彼は、繊細な宝石を運ぶように、大切にドリナを支えて、店を出ていった。


「……遠慮します、でも結構です、でもなく『嫌です』って……」

「それもうあんたの願望じゃん……」

「ドリーちゃん、やっぱり変な男を引っ掛けてきたんじゃ……」


 不信感のざわめきに包まれたまま、バー・カミーユは夜遅くまでほのかな灯りをともらせていた。

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