2 悪女、唆される

 ロアルドに店まで連れて行ってもらった後のことは、ドリナは詳しく記憶していない。


 ただ、ワインに酔っ払った勢いで「身体が資本の仕事なのに転ぶなんて」「女優業に自信なくした」「修行のために山にこもって滝行する」などとトチ狂った弱音をぼろぼろこぼすドリナを、青年がひたすら横で「今の季節の滝はだいたい凍っているので滝行は難しいですよ」と慰めて(?)くれていたところまで覚えている。


「ドリナさんはご自分に厳しい方なんですね」

「そんなんじゃないわ。人より不器用だから、人より頑張らなきゃいけないだけよ」

「それだけ仕事に真心を込めているということでしょう。それは美徳ですよ。誠実な方は、目を見れば分かります」


 そう言ってロアルドは、酔いと涙でひどい状態になっているはずのドリナの目を覗き込んで、柔らかく笑った。


「ほら。ぴかぴかでルビーのように綺麗」

「……私の目、青緑色なんだけど」

「えっそうですか?」

「超適当じゃない! 慰めるつもりなら真心を込めて慰めなさいよぉ!」


 初対面の相手に無茶を言って駄々をこねまくり、最後には酔い潰れて、ロアルドに自宅までの馬車を手配してもらった。

 思い出すだに恥ずかしい記憶だが、その時からドリナは、ロアルドのことを意識するようになった。


 舞台の上から彼の姿が見えると、妙に居心地の悪いようなむずむずした気分になる。だって、他の劇団員や旧来の知己以外でドリナの素を知っているのはロアルドだけだ。「自由奔放で妖艶な悪女」からは程遠い、「繊細で泣き虫でドがつく真面目な少女」なドリナの本来の姿を知っていながら、この演技は彼にどう見えているのか。

 公演後にバーへ赴くと、いつのまにか常連客の一人になっていたロアルドが数回に一回はそこにいる。ドリナを見つけたロアルドは、パッと微笑んでカウンターの隣の席を開けてくれるので、そこに滑り込んでまくしたてる。


「ねぇ~! 今日の私ちょっと音外してたでしょ! あそこは綺麗に決めなきゃいけないところだったのに!」

「そうだったんですか? ラストの涙の場面ですかね。あそこは少し声が掠れている方が、情感がこもっていて素敵だと思いましたよ。僕もうっとりしてしまいました」


 穏やかな目をしたロアルドに真正面からそんなことを言われて、ドリナの心臓がどくんと跳ねる。

 だが、同時に不信感も湧いてくる。


(嘘つき! よくも平気でそんなことが言えるわね)


 本当にうっとりして魅了されてしまった人間というのは、こんなに淡々と感想を言えるものではない。普段から熱烈な、時に熱烈すぎて困るような内容のファンカードを受け取っているドリナはよく知っているのだ。


(この人は私のこと、なんとも思ってないから平然と褒めたりできるんだわ)


 ロアルドはドリナと同じくらい真面目で誠実であり、落ち着いた性格だった。初対面の時だって、酔い潰れたドリナに妙なことは一切せず、下心をまったく感じさせない安心感があったから、普段はちゃんと警戒心を持っているドリナも気を許してしまったのだ。

 そんな彼の包容力に、ストイックで感情の起伏が激しいドリナは救われていた。が、自分が徐々にロアルドに惹かれていくと、彼の温厚篤実さは、単にドリナに無関心なだけのせいなのではないかという不安が膨れ上がっていったのである。


「あー……演技なんてやってられない……いっそ修道院に入って俗世を離れたい……」


 楽屋で延々と不安を呟き続けるドリナに、衣装係もどうしたものかと戸惑っていたら、そこへ割り込む新しい声があった。


「も~、ドリナ先輩ってば大げさ~! そんなにみんなの気を引きたいんですかぁ〜?」

「マリー、そのどこから出してんだか分からない高い声をやめなさい。頭に響く……」


 鈴が転がるようなソプラノ・レッジェーロを響かせて部屋に入ってきたのは、ドリナの後輩であり、今回の劇でヒロイン役をやっていたマリーである。

 健気な清純ヒロインにふさわしい、天使のようなふわふわした見た目のマリーは、可愛らしく小首を傾げて、


「そんなにその男の人が気になるならぁ~、ドリナ先輩がホントに"悪女"になっちゃえばいいじゃないですかぁ~!」

「……どういうことよ」

「だからぁ~、今のネガティブでうじうじしたドリナ先輩じゃ男の人をオトせるわけがないけどぉ、それこそ悪女みたいに、近付いて身体を押しつけてたっぷり誘惑すれば、相手もコロッと落ちるじゃないですかぁ~? 男なんてそんなモンですよぉ」


 清楚な笑顔のまま、相当に失礼なことを言ってくるマリーに、衣装係は顔を引きつらせた。しかし、ドリナは怒るどころか、突っ伏していたソファから起き上がって目を輝かせた。


「なるほど……! 演技でいつもやってる悪女としてなら、私も臆さずにアプローチできるわ! そうよ、ネガティブでうじうじした私を知られているから関心を向けてくれないだけで、その印象を塗りかえてしまえば、きっとあの人も何かしら反応を見せてくれる……!」


 何かと落ち込みがちなドリナだが、行動力はずば抜けている。立ち直った彼女は、さっそくロアルドがいるであろうレストランを目指して楽屋を出て行きながら、「マリー、ありがとうね! あとでお菓子あげるわ!」と満面の笑顔で手を振っていた。

 残された衣装係は、じとっとした視線を同期のマリーに向ける。


「……あんなことドリナさんに吹き込んで、どういうつもり?」

「別にぃ~? ただ、こないだまでマリーをひいきしてくれてたお客さんが、最近はドリナ先輩ばっかにお花送ってるからぁ~。先輩に恋人ができてスキャンダルでも起きれば戻ってきてくれるかな~とか?」


 きゃぴ☆ と星を飛ばすマリーは黒い笑みを浮かべていた。

 ドリナの後を追って名声を上げ、王道ヒロインに抜擢されるようになったマリーは、自分が主人公のはずの劇でもドリナが話題をさらっていってしまうことが面白くないらしい。


「……あんたの方がよっぽど悪女っぽいよ……」


 衣装係は遠い目をした。

 しかし、マリーを必要以上に責める気はない。これでドリナの恋路に進展があれば、それはそれで祝福すべきことであるし、何よりこの生意気なマリーを妹分として甘やかしてきたのは、他ならぬドリナであったから。


「本気出したドリナ先輩にオトせない相手なんてないでしょ~?」


 調子のいいことを言うマリーに、衣装係は苦笑する。


「ドリナ先輩も不器用だからね。さて、どうなることやら……」

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