なんちゃって悪女の初恋事情

三ツ星みーこ

1 悪女、初恋に落ちる

 ノルデン帝国の帝都歌劇場は、庶民から政府の高官やお忍びの貴族までやって来る人気のオペラハウスだったが、そこにはひとり、抜きん出た歌と演技の才能で注目を集めている女優がいた。


 豊かな黒髪、象牙のように白い肌、端麗でハッと目を引く魅力的な顔立ち。

 彼女の名前はドリナ・レースヒェン。

 しかしこれまで、彼女が劇の主人公やヒロインの役を演じたことは一度もない。

 なぜか?

 それは一度でも彼女の舞台を見れば分かることである。


「あらぁ、残念だったわね。あなたの大事な恋人なら、もうとっくに私の虜よ!」


 スポットライトを浴びて高らかに宣言するドリナが現れた瞬間、劇場は観客の大歓声に包まれる。そして彼女は、胸が開いた派手な真紅の衣装をきらめかせ、ヒロインの恋人を誘惑する歌をメゾアルトの声で朗々と歌い上げるのだ。


 そう。

 ドリナ・レースヒェンは、その天才的な「悪女」の演技で帝都中に名が知られていたのである。

 まるで理想の悪女が物語から抜け出てきたかのような素晴らしい再現ぶり。人々は彼女の舞台を見た後は、カフェやバーに集って興奮気味に感想を交わした。


「見たか、あのドリナ・レースヒェンの流し目」

「見た見た! 一瞬オレに向けられてるのかと思ってドキドキしたよ」

「ドリナの歌の艶っぽさときたら、女のあたしまで誘惑されてると思っちゃったわ!」

「あの方、舞台の上だけじゃなくて、きっと現実でもたくさんの素敵な相手と付き合ってきたんでしょうねえ」


 普段は辛口な新聞の演劇批評欄も、彼女についてだけは称賛を惜しまない。

『オペラ史に残る奇跡の悪女』

『恋愛の妙を知り尽くした大人の色気あふれる歌』

『あのような演技は、本当に彼女が男性を喰い荒らした経験がない限り出来ないものである!』


 この手放しの好評判に、ひとりだけ、まったく納得していない人間がいた。

 舞台袖の奥、演者たちが控える楽屋にて。


「みんな好き勝手に言っちゃって……! 私に恋愛経験なんかミリもないわよ、勝手に憶測してんじゃないわこの野郎!!!」

「ドリナさん声落としてください、客席に聴こえます」


 美しいメゾアルトの声にドスを効かせて叫んでいるのは、ドリナ・レースヒェン本人だった。


「ほらドリナさん、機嫌直して、ね? 今日もたくさんお客様からの花束とカードが届いていますから」

「……それは嬉しいけど、変なものは入ってないわよね?」


 疑り深くドリナが尋ねるので、彼女と仲のよい衣装係は、心得ているというように頷いた。


「『二人きりで宿に行こう』とか『そろそろ俺の相手もしてくれ』などと書かれたカードや、媚薬入りのクッキーなんかは問答無用で捨てさせてもらいました」

「ありがとう! そしていい加減にしろ! 女優を何だと思ってんのかしらあの連中はもぉおおお!」


 せっかくセットした髪をぐしゃくしゃとかき乱して荒ぶる彼女は、ついさっき舞台の上で悪魔的な魅力を放つ悪女役をやっていた女優と同じだとは思えない。

 観客にはとても見せられない姿。これが、ドリナ・レースヒェンの素なのであった。


 彼女は演劇小屋に拾われた孤児だった。下町育ちの彼女は、幼い頃から芸に勤しみ、身を立てるために恋愛などにうつつを抜かしている暇などなかった。女優として名声を博した現在、やっとワインが飲める年頃になったばかりである。そんな彼女に「大人っぽい」「色好み」と評判がつくのは、演技の優秀さを褒められていることと同義なので誇らしくはあるものの、一個人としてはやはり不条理に感じる。

 本来のドリナは恋多き女でも天性の悪女でもない。ましてや演技の天才でもない。彼女は単に真面目なだけなのだ。こう言っては夢がないが、流し目も艶かしい動きもすべて反復練習の賜物である。


 ごくごくまっとうな努力を重ねて演技を磨いていったドリナは、その実力を見込まれて難しい役柄である悪役をいくつもこなすうち、いつしか悪女の代名詞としての地位を獲得してしまった。

 しばらく楽屋のソファに突っ伏していたドリナは、ひと通り暴れた後で大人しくなった。そして、むっくり起き上がると、仏頂面で衣装係に聞いた。


「……それで、観客からのプレゼントの中に"あの人"の贈り物はある?」

「はっきり言ってください。ロアルド・ギュンター様でしょ? ありますよ、ほら」


 見せられたのは、細いリボンがつけられた百合の花。

 真っ赤な薔薇やインパチェンスなどの豪華な花束が机の上に大量に並ぶ中で、たった一輪だけの白く慎ましい百合の花は、それだけが異質で浮いていた。

 バッとドリナは再びソファのクッションに顔を押し付けた。


「もう分かんないわよぉー! あの人、私のことどう思ってんの?! 毎回花は置いてってくれるけど、百合が一輪だけってこれ社交辞令よね?! どうせご主人様の付き添いでもなければ私の公演なんて見に来てくれないんだわ! あー男なんてみんなバカ!!!」

「急にバカ呼ばわりされた世間の男性たちがかわいそうですよ……」


 呆れた視線を受けながら、ドリナは青緑色の大きな目に涙をためて瞬きをした。濡れた瞳がサファイアのようにきらめいた。


 ロアルド・ギュンター。

 いつも、特別な賓客が座る上等席の横の通路で立ち見をしている青年である。陰に隠れているが、舞台から近い場所にいるので、ドリナは演じながら彼の姿を見ることができた。

 シンプルだが仕立てのいいスーツ、紳士帽につけられたどこかの家紋の印、ロングコートの脇に抱えた書類袋などを見るに、貴族の執事か秘書をしているらしかった。彼の付き従う主人は、たいがい特等席に座っていたので、その主人の付き添いで劇場に来ているのだろう。


 彼と直に言葉を交わしたのは数ヶ月前のこと。

 公演が終わったドリナが出待ちのファンたちを巻いて、頭を薄いヴェールで隠し、馴染みの下町のレストラン兼バーに遅い食事をとりに行こうとしていた時、ドリナの靴のヒールが突然欠けた。


 「あ」と思った時にはもう遅く、前方に倒れそうになったドリナは、とっさに目の前を通りすがった人物につかまった。


「わあっ?! ご、ごめんなさい、靴が」

「いえ、大丈夫ですよ。……おや?」


 そこでドリナは、頭を隠していたヴェールが転びかけたはずみに外れてしまっていたことに気付いた。

 顔を上げると、ドリナのように派手な美貌ではないが、柔和そうで上品な顔立ちの、美しい青年が瞬きしていた。


 背中までつくほど長く、後ろで結えた淡い金髪に、やや垂れ目気味の優しげな瞳。

 細身ですらりと背が高いその青年が、いつも劇場で立ち見をしている彼だと分かったのは、見つめ合ってから数秒後だった。


「……あ、あなた、特等席の横にいる……」

「おやまあ。やっぱりドリナ・レースヒェンさんご本人でしたか、びっくりしました」


 控えめに驚く彼の言葉を聞いた時、ドリナは自分がずっと彼に身体をもたれさせていたことを今更思い出した。

 大慌てで身体を引き離す。こんなところを誰かに見られたらスキャンダルだ。焦ったドリナは、礼と謝罪をするべきところを、普段の悪役の演技のクセが口をついて出た。


「わっ……私のことを言いふらしたら、承知しないからね! こんな寂れた下町、めったに来ないんだから! ドリナ・レースヒェンがいつもここに通ってるなんて誰にも言うんじゃないわよ!」

「たしかにレースヒェンさんがいると噂になれば、ファンの方々が押しかけて貴女の安息の場所がなくなっちゃいますね。大丈夫です、承知しました」

「……あっ、でっ、でも、あのバー・カミーユは料理もお酒も美味しいのに客が来なくて困ってるらしい、とか他の演者の子から聞いたから、せいぜい閑古鳥が鳴かない程度に繁盛してほしいわね! できれば午後八時以前に!」

「なるほど。あちらのお店の常連さんなんですか。では、貴女が来店する時間に被らないよう注意して、誰かに紹介してみますね」


 大真面目な彼があまりに冷静に返答をするので、いたたまれなくなったドリナは「迷惑かけたわね! もう二度と会わないと思うけどさよなら!」と捨て台詞を吐いて、踵を返した。

 ……靴のヒールは欠けたままだったので、返した踵をひねって、また転んだ。

 顔面から石畳に突っ込む前に、かけつけた青年が慌ててドリナを抱きとめた。


「……」

「……」


 互いにしばし沈黙した。ドリナの足首は、ひねって少し腫れていた。それを見た青年はそっと手を差し伸べて言った。


「……お店まで肩をお貸ししましょうか?」

「お願いします……」


 店まで連れて行ってもらった上に食事まで奢られたドリナは、自分が情けなさすぎてちょっと泣いた。

 これが二人の、なんとも間の抜けた出会いであった。

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