第19話

「へくちっ」


 くしゃみの仕方まであざとい花凪が、恨めしげに私を見てくる。

 私はずぶ濡れになった靴を脱いで、花凪の靴の隣に揃えた。


 私の家に、両親の姿はない。最近も色々と忙しいみたいで、いつも帰りが遅いのだ。別にやましいことをするわけではないけれど、今日は家に誰もいなくてよかったと思う。


「ゆまのせいだからね。寒いし、全身冷たいし。絶対風邪引いた」

「全然元気じゃん」

「元気じゃないもん。寒い死んじゃう」

「……シャワー、浴びてくれば」

「シャワーはやだ。体あったまんないじゃん」

「……はぁ。じゃあ、お風呂沸かしてくるから。適当に着替えといて」


 私は花凪の方を見ないようにして、風呂場に向かう。

 朝のうちに風呂掃除はしておいたから、お湯を張るだけだ。


 ボタンを押すと、お湯が噴き出してくる。それを眺めながら、私は深く息を吐いた。


 私は一体、何をしているんだろう。

 別に、なんてことはなかったはずだ。


 花凪が他の友達と一緒にいようと、誰と昼休みを過ごそうと、どうでもいい。イヴのことなんて全然気にしていないし、花凪が友達と過ごす理由なんてわかっている。


 私は彼女の唯一の友達ではないし、彼女には彼女の生活がある。

 そんなの知ってる。わかってる。

 今までだってそうだった。


 でも。

 これまではイヴを私と一緒に過ごしていた彼女は今年、若松を選んだ。


 男子なら、まだよかった。恋愛対象と友達っていう枠で、前者を選んだって納得できるから。


 だけど、イヴを友達と過ごすということになった時に、彼女は私じゃなくてさほど仲良くないはずの若松を選んだのだ。


 理由づけはできる。導き出した結論に納得はできている。

 じゃあどうして、こんなに吐きそうな心地になっているんだ。


「馬鹿じゃん。……ほんと」


 イヴのせいだ。

 あの日見たもののせいで、私は彼女が普通に友達といるところを見ることすら、嫌になっている。


 なんで私じゃないんだろう。

 ずっと一緒にいたのは、私なのに。

 ……違う。


 こんな歪んだ独占欲なんて、間違っている。わかっているのに止まらない。

 なんで自分で自分の感情を選べないんだ。


 自分の意志で手は動かせる。足も動かせる。

 なのに。

 どうして感情は止められないんだろう。


「……無理だ。こんなの」


 苦しい。

 浴槽にお湯が満ちるみたいに、嫌な感情が胸に溜まって、溢れ出しそうになる。

 誰かこの感情を掬って、どこかに捨ててきてくれないだろうか。


「ゆーまー?」


 花凪の声が聞こえる。

 彼女の顔を見たくなくて、私は浴室のドアを閉めようとした。


 でも、いつだって彼女はタイミング悪く私の前に現れる。

 今も花凪はドアを閉める前に私のところに来てしまう。


「あ、いたいた。ねー、ゆまの服全然可愛くないんだけど。あんなの着れないよー」

「前にあんたに買わされた服、あるじゃん。あれ、私には似合わないからあんたにあげる」

「それは駄目。ゆまが着る用だから」

「……全部私が着る用なんだけどね、元々。なんでもいいから、着なよ」

「やだ。可愛いのがいい」


 花凪の甘い声が、ひどく耳障りだった。

 文句を言ってやろうと花凪を見ると、彼女が何も着ていないことに気がついた。

 ……なんなんだ、一体。


「……ねえ、ゆま」


 甘い。甘くて、痛くて、とろけた声。

 深い海の底から響いてくるようなその声に絡め取られて、私も沈んでいく。

 私はこの声に、逆らえないのかもしれない。


「あっためてよ」

「……」

「ゆまの服は着れないけど、ずっとこのままだと風邪引いちゃうし。だったらもう、ゆまにあっためてもらうしかないよねー」


 最初から、そうさせるつもりだったんだろう。

 花凪は私をどうしたいのか。


 私をどう思ってるんだ。幼馴染だから甘えてきているのは、わかる。でもそれ以上に、最近の彼女はいつも私をからかおうとしているように見える。


 私が当惑する様が、そんなに面白いのだろうか。

 もしそうだとしたら、花凪は歪んでいる。

 どうかと思う。

 でも、そんな彼女から離れられない私も同罪だ。


「ほら。ゆまも脱いで?」

「……は、なんで」

「裸で温め合うのが一番いいらしいよ。……脱がせてあげようか?」


 花凪の手が伸びてくる。

 花凪に服を脱がされたことはない。彼女の服を脱がせた回数はもう数え切れないほどだけど。


 彼女に脱がされてしまったら、私の心にはきっと、決定的な亀裂が入ってしまうと思う。


 亀裂が入ったら心に満ちた感情は瞬く間に流れ出して、心を破壊しながら外部にその姿を晒してしまう。


 それは、駄目だ。

 私のこんな感情、誰にも見せられない。

 見せちゃいけない。


「……別に、そのまま布団にでも入ってればいいじゃん。私があっためる必要ないでしょ」

「お布団はあったかくなるまでに時間かかるし。早くしないと、本当に風邪引いちゃうよー」


 お湯が少しずつ、浴槽に満ちていっている。

 今更だ、と思う。


 何もかも今更なんだから、別にどうでもいいはずだ。

 私は小さく息を吐いて、花凪の手を引いた。


「……わかった。とりあえず、部屋戻るよ」

「はーい」


 どろりとした笑みを浮かべながら、花凪は私についてくる。

 手を引く感触は昔と変わらない気がする。

 だけど私たちの関係は、いつからか元に戻せないくらい歪んでしまった。


 いつからだろう。どうしてだろう。何を間違って、こうなったのか。思考は巡らず溶けて、ただ彼女から与えられる体温を享受することしかできなかった。





 部屋の暖房をつけてから、ゆっくりと服を脱ぐ。その間ずっと花凪は私のことを見ていたけれど、別段恥ずかしいということもなかった。


 最後の一枚を脱ぐと、途端に寒さが肌に張り付くような感じがした。

 互いに裸でいると、見せてはいけないものまで見せてしまいそうで不安になる。何かに縋りつきたくなってしまう。

 今ここで縋れるものはきっと、私自身の心じゃなくて。


「ほら、ゆま」


 ベッドの上で腕を広げている花凪の体だけなんだろう。

 慣れている。

 彼女の肌に触れることにも、生まれたままの姿で抱き合うことにも。


 しかし、今日はそういう日じゃない。慰める理由がないから、触れ合うことになんの意味もない。


 興奮することも、させることもないただの触れ合いだ。

 お互いの最奥に触れることはなく、ただ肌と肌の表面をくっつけて暖を取る。


 それだけのために今、私たちは指先を触れ合わせた。

 何かを求めて指を滑らせて、彼女の背中に触れる。


 掛け布団が私たちを繭みたいに包んで、二人を一つにする。肌をくっつけて一つにまとまっていると、心臓の鼓動がいやに速くなっていく。


 どん、どん、どん。

 太鼓のように打ち鳴らされるその音は、どこか。


 体育館で幾度となく聞いてきた、バスケットボールの音にも似ている気がした。

 吐き気がする。


「結局布団、使ってるし」

「いいじゃん、細かいことは。こっちの方があったかいよ」

「……知らんし」


 布団の中で、目を合わせる。

 耳にはピアス。

 髪にはピンク色。


 花凪は余計な装飾がつきすぎていて、かつてとはあまりにもかけ離れている。

 でも、今日は触れない。ピアスにも、無駄に綺麗に染められた髪にも。


「ゆまってさ」

「何」

「おっぱい小さいよね」

「……や、おっぱいて。なんなの、いきなり」

「明るい部屋だと余計にそう見えるなーって話」

「あんたも大概でしょ」

「そうかもだけどねー」


 くだらない会話だ。

 こんな会話、誰としたって変わらない。


 なのになんで花凪とするだけで、心が満たされるんだろう。

 今ここで満たされたって、意味ないってわかっているのに。


「……あったかいね」

「そうね」


 小さく息を吐く。

 さっきまでの寒さが嘘だったみたいに暖かくて、熱くて、溶けてしまいそうだった。


「ゆま」

「……ん」

「ゆまはずっと、私と一緒だよね」


 疑問系じゃない言葉。

 一緒になんて、いられるわけないじゃん。

 花凪が好きな人と付き合ったら。結婚したら、子供ができたら。


 離れ離れになるに決まっている。それが友達ってやつだ。私たちは限りなく家族に近いけれど、どうせ。


 ……私は。

 花凪をどうしたい?

 花凪とどうなりたい?


 もし花凪が私を愛してくれて、私も花凪を愛せたら。

 ……馬鹿じゃないの。

 こんな妄想、花凪のお姫様願望より恥ずかしい。


 いや。彼女の願望は子供の頃の寂しさから来ているのだ。それを恥ずかしいと思うのは、人として駄目な気がする。


「一緒だよ。花凪がちゃんと……相手を見つけられるまで」


 王子様という言葉を出したら、昔の約束をずっと覚えていることが彼女にバレてしまう。


 だから言わない。

 あんな約束、忘れる方が自然なのだ。

 花凪だって流石に、そこまでは覚えていないと思うし。


「私が相手を見つけられなかったら永遠に一緒ってこと?」

「……そうはなんないでしょ」

「どうして?」

「確率の問題。下手な鉄砲数撃ちゃ当たるって言うじゃん」

「やな言い方ー。私、そういうので告白とかしてないもん」

「あっそ」


 早く私を置いてってよ。

 好きな人と付き合って、幸せになればいい。


 そうすれば私もきっと、この独占欲を捨てられる。彼女が私の手から完全に離れてしまえば、全部解決するはずなのだ。


 だから、期待させないで。

 そう思ったけれど、私が一体何を期待しているのかは、よくわからなかった。

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