3
ガラガラと引き戸を開け、ただいま、と言った私の声に返事はなかった。
無駄に広い玄関で靴を脱いでいそいそとスリッパに履き替える。
木造平屋のこの家に床暖房なんてものはついておらず、裸足だととても冷えるのだ。
「ただいま」
居間へと続くふすまを開けながらもう一度声をかけた。
畳のため、スリッパを脱いでからふすまを閉める。
「おかえり」
今度は返事があった。
玄関と違い石油ストーブの付いた部屋はとても暖かく、気温差から生理的な鼻水が出てきた。
ストーブに当たりながらマフラーを取り、コートをハンガーに掛けてから素早くこたつへと潜り込む。
温かさにホッとしていると、かごに入ったミカンが天板の上に乗せられた。
「おばあちゃんから届いたの。後でお礼言っておいてね」
そう言うと母さんもこたつに入ってきた。
よく見ると部屋の隅に今朝までなかった有田ミカンのダンボールが置いてあった。
早速ひとつ手に取る。
ヒンヤリとしたそれの皮をむくと、さわやかな香りが居間全体に広がった。
「晩御飯はお蕎麦として、お昼は何にしようかしら。……何が食べたい?」
帰ってきてから毎食ぶつけられるこの質問に、何でもいいよ。と、これまた毎回と同じ答えを返す。
一人暮らしを始める前はリクエストなんて聞いてきたことなかったのに、と可笑しく感じ思わずニヤニヤした。
大学で一人暮らしを始め社会人になった今、実家に帰ってくる頻度が年々下がり、それに反比例する具合にもてなされ度は上がっていた。
「じゃあ、チャーハンにでもしようかしらね」
私がミカンを一房口に入れ咀嚼していると、母親はのっそりとこたつから出て隣の台所へと体を向けた。
「ちょっと早いけど食べちゃいましょう」
誰に言うでもなくつぶやかれたその言葉に、声は出さずとも首を縦に振る。
母はこちらに目を向けていないため意味のない行動には違いなかったが、そうすることで何となく穏やかな気持ちになれた。
ただの自己満足だってことには気づいている。
トントントントンと包丁のリズミカルな音が聞こえてくる。
私はこたつの上に上半身をしなだれかからせ、目をつむった。
ジュワーっと食材の焼けていく音が耳に楽しい。
こたつとストーブの温かさにまどろんでいると、醤油の焦げるにおいがしてチャーハンの出来上がった気配がした。
コツンコツンと中華鍋からお皿にご飯が取り分けられる音がする。
ここで私は上体を起こし、台所へと続く扉へ目を向けた。
少しだけ開いている隙間からお皿が3つ出ていることが伺えられた。
母はそのうちの1つをお盆にのせて、廊下へと続く扉から台所を出て行った。
「今日、父さんに会ったよ」
台所を出た後、玄関の横にある仏間に入っていった母親の背中に向かって声をかけた。
電気の付いていないこの部屋は昼間と言えど薄暗く、入口のわきに立っている私の位置から詳細はよく見えない。
「元気そうだった」
母の仏壇のロウソクや線香を準備する手つきは慣れたもので、晩御飯時には御経も読むこともある。
毎朝取り換えられる花の横に火が灯ると故人の、生前好きだったものもいくつか供えてあることが確認できた。
「……川辺かい?」
ロウソクから線香に火を移し、チーンと1つ鐘をたたく。
それら一連の動作を終え、こちらを振り返った母の表情は穏やかで驚きはないようだった。
「うん。橋の上で。あいかわらずポケットに何でも突っ込んでた」
「あの人はカバンを持たないからねぇ」
線香の香りが私の立っているところまで漂ってきた。
それはここ数日で嗅ぎ慣れたもので、もはやこの家の匂いともいえる落ち着くものだった。
そういえば、と母に言伝があったことを思い出す。
「父さんが、これ渡してって」
そう言って懐からマイルドセブンの箱を取り出し仏壇の前の座布団に座っている母のところまで数歩近寄った。
「禁煙するんだって」
父の言葉と箱を、母に手渡す。
そうすると穏やかだった母の表情が泣き笑いのようなものに変わった。
「……何度目よ」
それだけつぶやくと、母はもう一度仏壇へと顔を向けた。
「じゃあ、これもいらないのね」
と落果飴やブラックコーヒーなどと一緒に供えてあったタバコの箱を取り下げた。
「……嘘だって思わないの?」
あまりにも自然に受け入れてくれたため思わず聞いていた。
タバコなんてどこでも買えるし、落ち込んだ母に対するジョークだと思わないのかと疑問が浮かんだのだ。
「だって、こんなものまで渡されちゃね」
にっこり笑った母は、両手に持ったタバコを見比べていた。
「あなたはタバコを買ったことないから知らないのかもしれないけど、マイルドセブンって銘柄はもうないのよ」
あの人、まだこれなのね。と笑いながら2つの箱を目の前に出してくれた。
両方とも青を基調としたパッケージだったが、片方にはメビウスと印字してある。
マイルドセブンはいつからかメビウスという名前へ切り替わっていたらしい。
供えてあるタバコのブランドが違うことには気づいていたが気にしたことはなかった。
タバコなら何でも良かったんだと思ってた。
「……禁煙成功するかな」
ようやくひねり出した声はどことなく震えていた。
それは、ついさっきあった出来事を私自身が半信半疑でとらえていたことを示していた。
「するんじゃない?これからはお供えしないし」
あはは、と笑った母の声は明るく近頃はあまり聞くことがなかったものだった。
「いつでも見てるらしいよ、父さん」
「どこのホラーよ」
思わず、といった突っ込みは私の言ったものと同じで可笑しく感じた。
「さて、冷めちゃうしご飯食べに戻りましょう」
よし、と立ち上がった母の背中を追って私も仏間から出た。
部屋の扉を閉める前にチラと仏壇へ視線を向けるとロウソクの炎が笑うかのように揺れていた。
橋の上で会いましょう 浜村麻里 @Mari-Hamamura
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