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「――アーニャ!」

 叫び声を残して築音は見えなくなった。おそらく着地ははるかに下方になるだろう。

 築音が助けに来られる可能性がゼロになったその瞬間、蓮太郎の中でいくつものことが起こった。


 『アーニャ!』見たことのないような表情で視界の外に消えていった妹の声が、まだ頭の中でこだましている。『アーニャ!』親玉が拳を繰り出してくるその動きが、『アーニャ!』やけにくっきりと見えた。『アーニャ!』自分の身体は動かないのに、その拳は『アーニャ!』なかなか蓮太郎のもとまで届かない。『アーニャ!』動きが遅いわけではもちろんない。死の『アーニャ!』間際には脳がもの凄い速度で回転し、『アーニャ!』走馬灯を見るなどと言うが、『アーニャ!』そういうのとも違うよう『アーニャ!』だった。蓮太郎は『アーニャ!』ゆっくりと迫り『アーニャ!』来る拳を『アーニャ!』なすすべも『アーニャ!』なく『アーニャ!』『アーニャ!』『アーニャ!』『アーニャ!』『アーニャ!』『アーニャ!』

『アーニャ!』『アーニャ!』『アーニャ!』『アーニャ!』『アーニャ!』




「うる

せ――――――――――――――――――――――――――――――――――!!」

【!?】

 ずしん、と蓮太郎の身体を芯まで響くような衝撃が貫く。しかしダメージはなかった。蓮太郎の頭ほどもある親玉の拳を、両手で受け止めていたのだ。

【何だと貴様、貴様にそんな力のあるはずが……】

 愕然とする親玉は、蓮太郎の腕に光るものに気づいた。左手の腕輪に、まばゆく紋章が浮かび上がっていたのだ。これまでになくくっきりと、鮮明に。

「そうだよ、俺はアーニャだ!」

 アーニャではないが蓮太郎はキレ気味に叫ぶ。するとさらに爆発的な光の塊が湧き起こり、蓮太郎の身体を包んだ。

【ば、馬鹿な! 貴様は自分に増幅魔法を使えないはずでは!】

 慌てた親玉がもう片方の拳を打ち付ける。が、それも蓮太郎の右手が受け止めた。岩のように大きなその両拳を、今や蓮太郎の小さな手のひらが受け止めて拮抗していた。

【まさか……嘘だったのか? 気づいていた? おれが貴様らを観察していることに……。いや、そんな手の込んだことをする意味が……】

 混乱しつつも両拳を押し込んでくる親玉の力は、さすがに階層主のものだった。強化された蓮太郎の肉体を徐々に押し込んでくる。しかしもはや、蓮太郎はそれを脅威に感じてはいなかった。

 蓮太郎は腕輪の持ち主である。

 聖剣という分かりやすい力を持った妹のそれとは違い、腕輪は謎だらけだった。未だ名前すら分からないその腕輪の力について、持ち主である蓮太郎は誰よりも考えていた。軽いノリで使っているように見えて、実は誰よりも考えていたのである。


「友ちゃんは言った。『お兄さんはちょっと近寄らないでもらえます?』と」

【何を……】

 ぱっとまた光が湧き起こり、蓮太郎は親玉を少しだけ押し返す。

「やっぱりそうだ。お前らはこの魔法を増幅魔法なんて呼ぶけど、俺たちの方が正解に近かった。これはあくまで『応援』なんだ。だから自分で自分にかけた言葉じゃ発動しない。みんなが俺にかけてくれた応援が力になるんだ」

【……いや、近寄らないでもらえます? は応援じゃないと思うが!】

 もっともな突っ込みだったが、蓮太郎は淡々と『応援』を重ねてゆく。

「ウリユさんは言った。『君はなんていうか、フラれた直後なのにずいぶんと図々しいな』」

「秋本さんは言った。『察するに、あなたの気持ち悪さを原動力として発動する魔法ということね?』」

 ひとつ言うたびに、少しずつ親玉の腕を押し返していく。親玉は歯噛みして叫んだ。

【だからなぜ、それで強化される……っ!】

「初めて会ったときの鯖さんは言った。『あんたヤバい奴だな』……と」

【鯖さん誰!?】

 今や蓮太郎の力は親玉を圧倒していた。親玉にとってみれば拳のほんの表面を掴まれているだけなのに、腕を引くこともできない。たまらず親玉は膝をつき、煌々と輝きを発している蓮太郎の瞳と、至近距離で眼が合った。

「そして妹は言った。『アーニャはあたしが守るからね』と。だから、俺は妹に守られてやらないといけないんだ!!」

【ま、待て……】

 蓮太郎は、腕輪から放たれる光のすべてを集め――


「アーニャあた――――っく!」


 ――頭突きという形で、その力を解放した。


  ◇  ◇  ◇


 カエルザルの親玉だったものは、砂のようにさらさらと空気に溶けだしてあとかたもなく消えていった。蓮太郎は眩暈を覚え、少しやりすぎてしまったかな、と思った。あれだけ自分を強化していた腕輪の力を、一撃にすべて使い果たしてしまったのだ。

 ふらつく足がでこぼこした枝をつかまえそこね、しまったと思った瞬間には、蓮太郎の身体は落下をはじめていた。

 落ちていく蓮太郎の身体は、しかしすぐにぽすりと柔らかいものに抱き止められた。眼をあけた蓮太郎はそこにあるだろうと思っていたものを見た。ようやくここまで登ってきたのだろう、妹の泣き顔がすぐそばにあった。

「アーニャ……」

「妹、そんな顔をするな。言った通り、お前が助けに来てくれたな」

「ううん違う、あたし見てたもん。守るって言ったのに、アーニャはひとりでボスを倒しちゃったね」

 泣き笑いの表情を浮かべる築音を、蓮太郎の手が優しく撫でた。

「違わないよ。妹が飛んできてくれたから、呼びかけてくれたから力が出たんだ。それにこうやって受け止めてもくれた」

「アーニャ……うん。生きててよかった」

「妹……」

 頼りありげに微笑んでいた蓮太郎は、急に我慢できなくなったというように、妹の首にすがりついた。そして大声で泣き始めた。

「――うあー! し、死ぬかと思ったマジで! 妹が妹でホントに良かった! 助けてくれてありがとう妹!」

「あーん! あたしもアーニャが死んじゃうかと思って怖かったよー!」

 二人は互いにしがみつきあいながらしばらくわんわんと泣いた。築音は泣きながら、蓮太郎を抱きかかえたまま意味もなくその場でくるくると回っていた。


 感情のやり場のない築音がくるくると回り続け、抱かれている蓮太郎がいい加減気持ち悪くなりかけてきた頃、二人は思いもよらぬほど近くから呼びかける声を聞いた。

「あ、見つけた! おーい築音ちゃん、お兄さん!」

「なんであの二人は回ってるのかしら?」

「ダイジョブデスカー! ケガ ナイデスカー!」

 言うまでもなく、親玉の計略によって離された三人だった。ウリユは大声で呼ばわっていたが、実のところ大声を出さなくてもじゅうぶんに聞こえるほど、ほんの四、五メートルの近くにいた。築音は回るのをぴたりと止め、眼を見開いた。

「ほえ!? みんなどうやってここまで来たの?」

「来たわけじゃないわよ。呆れた、周りを見て気づかないの?」

 麻咲に言われて足元を見る。と、築音は太く頑丈そうな枝を選んで立っていたはずが、いつの間にか一足に満たないほどの頼りない枝の上にいることに気づいた。強化された肉体とバランス感覚でくるくる回っていたので分からなかったのだ。

 そう思って見渡せば、小さくなっているのは足元の枝だけではなかった。太かった幹は両手で抱えられるほどになっており、何時間もかけて登ったほどの高さにいたはずが、枝の下にはすぐに地面が見える。

「……なんか、しぼんじゃった?」

 今となっては築音たちがいるのは、そこらにある街路樹ほどの大きさの木にすぎなかった。首をかしげながらとりあえずと地面に降り立つと、ウリユたちも相次いで降りてきた。

「築音ちゃん、お兄さん! 無事でしたか?」

「お、おう友ちゃん、見ての通りだけれども……どったのこれ、えらくスケールダウンしてない?」

 妹の手から降ろされ、蓮太郎も不思議そうに周囲を見渡した。

「わたしたちにもよくは分かりません。ただ遠くでお兄さんがピカって光って、親玉がいなくなって――それからすぐに、樹が縮みはじめたんです」

「原因はあの親玉がいなくなったからでしょうね。にしても遠くてよく分からなかったんだけど、伊坂くん、あなたが倒したの? どうやって?」

「いや、俺にも良くは分からなかったんだが――」

「蓮太郎、良かった。怪我はなかったようだな」

 駆け寄ったウリユが蓮太郎の腕をとり、翻訳魔法を発動させながら言った。珍しく息を弾ませている。

「まったく、お前とあのカエルザルの親玉が遠くに行ってしまった時には、心臓が止まるかと思ったぞ」

「ああそれ! あれ何で? 何でああなったの?」

「私が推測するに――」

「あれ、お兄さんひょっとして泣いてたんですか?」

「な、泣いてないよ友ちゃん!」

 皆が皆一種の興奮状態にあり、てんでに好き勝手に話をしていて、しばらくはとても収集がつきそうにない。無理もなかった。五人は一つの危機を乗り越え、いまこうして一人も欠けずにこの場に再び揃うことができたのだった。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔を慌ててぬぐう蓮太郎を見て、友はくすりと笑った。

「おかしな人ですね、お兄さんは。助かってから泣くなんて。……もうちょっとで、わたしの方が泣いちゃうところでした」

「……そうだなあ」

 築音たちは相変わらず喋り続けていた。蓮太郎は友だけでなく、この場にいる全員を泣かせることにならなくて良かった、と心から思ったのだった。

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